続・それからの正太  

マーちゃんのこと その2

 それは、高校三年の一学期の期末テストが終わり、あとは終業式を終え夏休みに入るだけになった7月の上旬の土曜日のことだった。

 正太は、梅雨明けの暑い日差しを避けて、学校施設の中ではいちばん涼しく、静かな図書館で、のんびりと本を読んでいた。

 人影がほとんどないがらんとした館内には、開かれた窓から雑木林からの涼しい風が、そよいでいる。

 何気なく館内の柱時計を見ると、午後4時を指すこところだった。

 図書館の女性司書も、そろそろ勤務時間が終わるので、受付カウンターをから拭きするなど、帰り支度をはじめている。

「本はずっと読んでいてもいいのよ。帰りに守衛さんに言っくれれば、図書館の鍵をかけてくれるから」

 正太と目があった司書は、そう告げて書庫のほうに去った。

 と、そのときだった。

 図書館に、汗と泥でよごれた練習用ユニフォームを着た、野球部員が走り込んできて、正太を認めると大声をあげ、「先輩、大変です。グランドでみんなが倒れています。職員室の先生ももう誰もいません。助けてください」と必死に訴える。

 顔をみると見知った後輩だった。

「キャプテンはどうした」とマーちゃんの名前をあげる。

「キャプテンが最初に倒れたんです。そうしたら次々に倒れて...

 すべてを聞く前に、正太は図書館の出口に向かって走り始めていた。

「野球グランドの周りにみんな倒れています」という後輩の声が追いかけてくる。

 正太は、上履きのままグランドに向かって走る。

 図書館から距離にして100メートルを切る近さだ。

 右手にはプールがあるが、期末試験が終わったばかりで、練習している水泳部員の声がきこえる。

 プールの脇を抜けると、校舎の南側に面して東西に野球専用グランドが広がっている。

 周囲には桜の木が繁っているのだが、その木の根元に、点々と人が横たわっているのが目に入る。

 その人数はざっと20人以上だ。

 グランドは夏の強い日差しにからからに乾ききり、白く光っていた。

 正太は西の端の桜の木の下に、マーちゃんの姿を認めた。

 走り寄ると、マーちゃんは桜の木にもたれかかって、息づかいも荒く、苦しそうに顔をゆがめている。そばには、水の入ったバケツがおいてあり、首筋と頭には水に浸した薄汚れたタオルが置かれている。

「マーちゃん、マーちゃん」と正太は声をかけた。

 まぶしそうに目を細めて、面倒くさそうに顔をこちらに向ける。

「ああ、正ちゃんか、なんかめまいがして、ほかのみんなはどうしてる」

 マーちゃんは、しきりとほかの部員のことを気にしている。

 正太は、立ち上がってあらためてグランを見渡してみた。

 グランドに立っているのは、後輩の部員が数人と練習に駆けつけた野球部のOBたちだけだった。

 正太は事態がまったく飲み込めなかったが、立っている部員もOBも同じように、ただおろおろしながら、倒れた部員の背中をさすったり、濡れたタオルを取り替えたりしている。

 しかし、それぞれに部員は意識があり、ただ起き上がれないだけで、安静にしていれば何とか回復するというような雰囲気で、大丈夫かの問いかけにはっきり、大丈夫と受け答えをしていた。

「みんな大丈夫そうだ。それよりマーちゃんは、どうなの?」

 ぐったりしているのは、マーちゃんと高校3年の大型捕手の二人で、水を飲んでもすぐに戻してしまうなど、ほかの部員とは明らかに症状は重そうだった。

「いや、俺もすこし横になっていれば大丈夫だ」

 とマーちゃんは焦点の合わないうつろな目で正太をみて、うっすらと笑みを浮かべた。

 2年になって野球部のキャプテンになり、春の対抗戦でも中心選手として活躍して、チームをまとめあげ、夏の甲子園の東京都予選への期待が高まっていた。

 マーちゃんは、小学校時代は背も高く体が大きいほうだったが、私立学校の中等部の野球部に入ると、まわりの同級生はみな背が高く、非力に見えたために、なかなかレギュラーの座をとれなかった。

 しかし、腐ることなく、バッティングピッチャーを買って出たことで、肩とコントロール力が鍛えられ、高校1年の秋から内野の要である遊撃のレギュラーを勝ち取った。

 もともとバッティングセンスが良かったこととチーム随一の足の速さから、走攻守そろった選手になった。

 他校との練習試合の応援に足を運ぶと、ダイヤモンドで大きな声をあげ、好守で投手を助け、打っては鋭い当たりで、チームを引っ張る活躍を見せた。

 マーちゃんのプレーにスタンドから拍手が送られると、正太は同じ小学校からきた仲間として、嬉しくなった。

 チーム全員からキャプテンに推されたのは、当然のことだった。強い責任感とチームメイトからの厚い信頼を背負って、高校生活最後の夏の大会に臨むことになった。

 

日射病

 昼の猛烈な暑さが、収まってくるに従って、倒れていた部員たちもひとりふたりと立ち上がって、部室に向かい始める。

 マーちゃんと捕手は、めまいと吐き気で、立ち上がるのが無理だった。

 その頃になって、プールで練習していた正太と同級生の水泳部員も、心配そうにマーちゃんを囲んで集まり始めた。

 誰言うこともなく、担架をもってきて、とにかく保健室の運ぶことになった。

 それが、夕方6時頃だった。

 しだいに意識がはっきりとしてきた部員は、制服に着替え、保健室のなかや入り口周辺に不安そうに集まっている。

 OBたちもほっとしたように、マーちゃんと捕手が横になっている簡易ベッドのそばで二人を見守っている。

 正太も、やれやれという気持ちになり、とりあえず自宅に帰ることにした。

 そのとき、女性司書が、図書館に置いたままだった正太の鞄を持ってきてくれた。

「みんな、大丈夫なの?」

 保健室で横になっている2人をながめながら、心配そうに声をかける。

「横になっている2人以外は、もう回復している」正太が答える。

「意識はあるの、日射病じゃないかしら。もしそうなら軽く見てはだめ」

 冷静な司書の声に、正太も不安になったが、保健室からでると足早に学校の裏門から自宅に向かう。

 期末テストが終わったはずなのに、なかなか帰宅しないことをとがめるように、母親が、「どうしたの、こんな遅くなって。夕食早く済ませなさい」

「マーちゃんが野球の練習中にグランドで倒れて、動けなくなっているので、今夜、家の泊めることになるかも知れない」

「あらっ大変。練習中に倒れたの。暑かったから日射病になったのかしら。意識はあるの。日射病は怖い病気だから、氷で冷やすこととお塩をなめるといいのよ。分かった、じゃあ、マーちゃんが泊まれるように用意しておくから」

「倒れたのは二人だから、もう一人増えるかも知れない」

「一人も二人も同じだからいいわよ。それより早く食事済ませなさい。学校にマーちゃんたちを迎えに行かなければならいのでしょ」

「わかった。それとマーちゃんの家への連絡どうしようか」

「二人を連れてきてからでもいいんじゃない」

 などと、言葉をかわしてから、正太は夕食をかき込むように食べて、今度は自転車で学校に戻った。

 保健室に入ると、体調がもどった後輩部員はすでに帰宅し、残っている3年生の部員全員とOB、それに学校の敷地内にある職員寮から先生も何人か集まっていた。

 7時を過ぎ、きびしかった夏の日差しも消え、保健室の開いた窓からの流れ込む風も、ようやく涼しげになってくる。

 保健室の簡易ベッドには、まだ、マーちゃんと捕手が横になったままだ。

 正太が、声をかけようとしたが、二人の息づかいが荒いことに気づいた。

 とくにマーちゃんの方が荒く、胸が大きく膨らみ息苦しそうだった。

 正太は、近くにいたOBに、「母が、日射病ではないかと心配していました。早く病院に連れて行ったほうがいいのではないですか」と、詰め寄る。 

「うん、二入以外はみんなもう回復したし、もうしばらく様子を見ることになった。先生もそうおっしゃっておられるし」と先生をみる。

「でも、医者に診せる方がいいと思います」なおも、粘る正太に3年生の野球部員が、保健室の外に出るように促した。

 廊下に出ると「野球の練習中に倒れたとなると、しごきがあったんじゃないかとか、いろいろ問題になるから、学校としても、OBとしても困るし、なんとかこのまま回復を待とうっていうことになったんだ」

 その言葉に、正太はムッとして「しごきがあったかどうかなんて関係ない。いちばん大切なのはあの二人が大丈夫かどうかだろう。学校やOBのメンツを優先するなんて、納得できない」と食い下がる。

「正太のいうのは分かるけれど、練習はOBが夏の大会に向けて気合いを入れていけっていったあと、キャプテンの一言でグランドを何周もすることになったんだ。みんなキャプテンが走りやめるまでは、頑張ってついていこうとしていたのだけれど、彼が倒れるとみんなバタバタ倒れていって、涼しい木陰に引っ張ってくるのがやっとだった。キャプテンは期末試験で、睡眠不足だったようで、その無理がたたったのだと思う」と小声で当時の様子を説明する。

 その言い方では、こういう事態になったのは、まるでキャプテンのマーちゃんの責任みたいではないかと、思わず口をついてでそうになった、その時、保健室で突然、うめき声につづいて、ウォーっという獣のような咆哮があがった。

 正太は、反射的に保健室に飛び込む。

 簡易ベッドの上で、マーちゃんがもがき、暴れ回っている。

 3年生の野球部員とOBが、マーちゃんをベッドから転げ落ちないように手足を押さえるが、ものすごい筋力で押し返される。

 さらに、腕に体をあずけた部員は、強力なバネに弾かれるように体ごとベッドから飛ばされてしまう。

 白目をむき、ウォーウォーと、叫び続ける。

 正太はもう、我慢できなくなった。

「先生、救急車を呼んでください。学校のメンツなんて関係ありません」

「先生、そうしてください」3年生の野球部員も目の前の異常な事態に、こらえ切れなくなって叫ぶ。

 保健室には険悪な空気が流れたが、OBに歯をむいて立ち向かう部員と正太の勢いに、ようやく救急車が呼ばれることになった。

 サイレンの音が、学校のまわりに響き渡り、近所の住民が学校の門前に集まり、静かな住宅地は時ならぬ騒ぎとなった。

 保健室に駆けつけた救急隊員は、暴れ回るマーちゃんをしっかり押さえるように部員たちに強く指示する。両腕を4人がかりで押さえ込み、両足には、2人が腰掛けるように体重をかけないと、救急隊員が検診もできなかった。

「日射病です。熱も40度近くあり、とても危険な状況です。点滴をする間、動かないようにしっかり押さえていてください。いま、運ぶのは難しいので、すこし収まるのをまちます」

 きびきびと指示をだす救急隊員の「危険な状況です」の一言に、正太はどう危険なのか聞きたかったが、それが許されるような状況ではなかった。

 点滴して、30分ほどたって、マーちゃんの症状がすこし安定したかにみえたところで、担架に乗せ、救急車へと運ぶ。担架に乗せているときも、部員やOB総がかりで押さえつけていなければならなかった。

 もう一人の捕手は、暴れることも叫ぶこともなく、症状はいくぶん軽いと診断され、それでも自力で歩くことはできないので、マーちゃんにつづいて、担架で救急車に乗せられた。

「救急車に同乗するのはどなたですか」と救急隊員が呼びかける。

「正太、お前頼む」同級生の野球部員は、もうOBに視線を送ろうともしなかった。

 正太はうなずいて、先生とともに救急車に乗った。

「病院はどこですか?後から行きます」と、残される部員が必死に叫ぶ。

 救急隊員から、病院を聞くと急いで駅に向かって走り出す。

 病院までかかった時間は10分足らずだったが、マーちゃんと捕手が暴れ出すのではないかと正太は気が気ではなく、到着するまでの時間がものすごく長く感じた。

 病院の入り口には、看護婦と医師が待っていて、救急車から担架ごとそのまま病室に向かう。病院のロビーの時計は、夜の10時を指していた。

 後輩の野球部員が、図書館に駆け込んできてから、もう6時間が経過したことになる。

 診察室に運び込まれる二人に正太は、「がんばれよ」とだけ声をかけ、外の通路で待つことにした。やがて、電車で駆けつけた他の同級生やOBが到着する。

 どこから聞きつけたのか、新聞記者らしき報道陣も集まってくる。

 それには付き添った先生が対応する。

 時計が12時を回る頃になって、ようやく診察室から医師が外に出てきた。

 正太と同級生、それに付き添った先生の数人が別室に呼ばれた。

「身内のかたは、いらっしゃいますか」医師からの言葉に、先生が二人の家族に連絡は取ったが、捕手の家族はまもなくこちらに来るが、マーちゃんの家族からは、返事を待っている段階だと説明する。

 

後遺症の怖さ

「わかりました。それではいまどのような状態であるかご説明します。二人のうち一人は、幸い軽症で、明日には退院できます。もう一人は、重症でこれから朝までが峠になります。命に別状はありませんが、重度の日射病で後遺症が心配されます。入院していただくことになりますので、家族にはその旨を伝えてください。現段階で、こちらからご説明できることは以上です」

「先生、いいですか」正太がおそるおそる手を挙げた。

「なんでしょう」

「後遺症って、どんな症状が残るのですか」

「いまのところはまだはっきりとは分かりませんが、救急隊員から、手足の痙攣が激しかったと報告を受けています。おそらく日射病の高熱で脳に異常がおき、筋肉がけいれんしたのだと推測されます。筋肉の痙攣は抑える人を飛ばすほどの力になります。この後遺症として、筋肉がしばらくはきちんと機能しない恐れがあります。それから、どこまで残るかは断定できませんが、記憶などにも少なからず影響が出る可能性を否定できません。ですが時間の経過とともに改善していくと思います。これ以上詳しいことは、親族以外のかたには、お話しできませんので、了解してください」

 話を聞き終えて、病院のロビーにある公衆電話から自宅に電話をいれる。

 そして、マーちゃんはいまのところ大丈夫であること、入院するので正太の自宅への泊まりの心配はなくなったこと、朝まで付き添うことなど、用件を短く伝えた。

 母親からは、夜のラジオ番組で野球部員が練習中に熱射病で倒れたと、学校名まで出して放送したようで、それを聞きつけて同級生から何本も連絡があった、とにかくマーちゃんの無事を祈っているからと、言葉が返ってきた。

 新聞記者が取材に来ていたのもそういうことかと、腑に落ちた思いがした。

 

夏の終わり

 夏の朝は早い。正太は窓の外のまぶしい朝陽を遮るように病室にカーテンを引いた。

 朝になると、マーちゃんの意識は少しずつ戻ってきた。

「正ちゃん、ありがとう。本当に助かりました」

 明け方近くなってようやく駆けつけたマーちゃんの母親が、正太の手を握って涙ぐみながら頭を下げる。

「僕は、なんにもしていません」照れながら、握られた手をどうしていいのか迷った。

 7時頃になって、看護婦と医師が見回りに来て、体温や血圧を測る。

「どうにか容体が安定してきました。しかし、当分の間は安静にしていなければなりません」

 マーちゃんは、まだ焦点の定まらない目で、周りを見回している。

「マーちゃん、お母さんだよ。分かるかい、正ちゃんがお前のことを助けてくれたんだよ」と、耳元にささやくように話す。

 救急で運ばれた病院に入院していたのは3日間で、マーちゃんは自宅の近くにある病院へ転院した。

 正太は、その病院に見舞いに行くことはなかった。それは、小さい方の姉が、正太たちが住んでいた町にある高校に電車通学していて、マーちゃんの転院先に毎日見舞い行っては報告してくれたからだった。

「だいぶ回復していて、今日ははじめておかゆを食べたけれど、口の中に熱の花が咲いて、すごくしみるって泣きながら食べていた」

「正太に助けられたって、すごく感謝していた」

「どうして倒れたのかまったく記憶がないって」

 などなど、姉からの細々とした報告から、マーちゃんが順調に回復に向かっていることを知り、日ごとに正太の安心感は増していった。

 野球部の練習中に選手が日射病で倒れたのは、OBによるしごきが原因かなどと新聞が取り上げたことで、一時的に騒ぎになったが、それもいつの間にかおさまり、何事もなかったかのように甲子園への東京都予選が始まった。

 マーちゃんの率いるチームはシードされていて、予選開始から試合までに、多少時間があったため、マーちゃんはなんとか試合に間に合った。

 だが、体力はまだ戻っておらず、控え選手としてベンチスタートになった。

 試合は相手チームに押され、先制と追加点をゆるし、チャンスはあるものの、タイムリーが出ず、いらいらする展開になった。

 3点をリードされた8回、マーちゃんにピンチヒッターとして出番が回ってきた。

 キャプテン最後の夏に、マーちゃんに思い出を残してやりたいという監督の配慮だった。

 バッターボックスに入るものの、バットの素振りをすると腰が落ち着かず、ふらついているのが、正太にもわかった。

 事情を知らない相手チームのスタンドから、笑い声が聞こえる。

 味方のスランド、ベンチからはマーちゃんに熱い声援が送られた。

 相手投手が投げた一球目、ふらついていたのが嘘のように、鋭いバットスイングでジャストミートする。

 きーんと響く快音に、一瞬スタンドは息をのんだように静まりかえり、その直後、大歓声がわき上がった。

 打ったボールは、センターとライトの中間をやぶり転々としている。

 マーちゃんは、それを見て一塁に向かって走る。

 しかし、その走りは歩いているより遅いヨチヨチ歩きで、手を振り足を上げるのだが、遅々として前に進まない。

 やがて外野手がボールに追いつき、内野に返送する。

 それでもマーちゃんはまだ、一塁の手前だ。

 スタンドからは、励ましと悲鳴のような声がいっしょにあがる。

 倒れ込むように、一塁ベースに手をついたのと、ボールが一塁手にミットに入るのが、同時に思えたが、審判の手は左右に広がった。

 マーちゃんに代走が出されたが、得点にはつながらず、試合はそのまま終わった。

 マーちゃんの最後の夏はこうして終わった。

 

 夏休みが終わり、二学期になると登校してくる同級生は日に日に少なくなっている。

 図書館にいっても友人の姿を見つけることができない正太は、がらんとした放課後の教室で、受験勉強のまねごとをしているが、気持ちも乗らない。

 そんな1日が終わり、そろそろ帰り支度をしようかと思っていたら、教室の入り口に人影があり、よく見るとマーちゃんだった。

 予選が終わってから、すぐに夏休みに入ったので、姿を見るのはそのとき以来だった。

「マーちゃん、もうすっかりよくなったんだ」

 正太は机から離れて、教室の入り口に向かいながら声をかける。

「うーん、まだどことなく体に力がはいらなくて。それより、予選、期待にこたえられなくてごめん。二塁打が一塁ぎりぎりセーフだもんな。あんなにホームから一塁ベースが遠いと思ったことはなかった」

「でも、高校生活最後のヒットは、マーちゃんらしかった」

「ありがとう。それから、俺の命を助けてくれて本当にありがとう。それをいいたかったんだ」

「僕はなにもしていない。というよりなにもできなかったといったほうがいい。もっと早く救急車を呼んでいれば、よかったのにと申し訳なく思っている」

「あのときの記憶が、いまでもあまりはっきりしないけれど」

と、言葉を切ったマーちゃんの口から、つぎに信じられないような話が飛び出してきた。

「正ちゃんの家の前の、小学校の校庭で野球やっていて、倒れたんだ。そうしたら、正ちゃんが助けに来てくれて、ずっと君の家で寝ていて、その後、自宅の近くの病院で目が覚めたんだ」

「マーちゃんそれはちがうよ、マーちゃんが倒れたのは学校の野球グランドで、僕は図書館にいたので呼び出されて、それでグランドに駆けつけただけだ」

「いや、俺が倒れたのは、まちがいなく正ちゃんちの前の小学校の校庭だった」

 マーちゃんの話しぶりは、一歩も引かない確固としたもので、正太はこれが救急病院で医師から聞いた、記憶障害の後遺症なのではないかと思った。

 正太の自宅前には小学校の校庭があり、マーちゃんが正太の自宅に遊び来たこともある。

 だが、校庭で野球をしたことは一度もない。

 40度を超す熱に浮かされ、全身の筋肉に異常をきたして、もうろうとした意識の中、正太が何度も話しかけていたので、きっとそうした妄想にとらわれてしまったまま、記憶がいまだに混濁しているのだろう。

 日射病は怖いといっていた、図書館の司書と母親の言葉を改めて思い出していた。

 医師がいっていたように、時間が経てば改善するだろうと、正太はマーちゃんをこれ以上混乱させないように、あえて否定するのはやめることにした。

 翌年、マーちゃんは、現役でC大に合格した。

 

再出発

 高校卒業後、一浪をして再び受験に失敗した正太は、大学進学をあきらめ、観光関係の専門学校に1年通い、東京オリンピックが開催された昭和391964)年、雪の残る3月、北海道札幌市にあらたに開業するホテルへ就職した。

 東京を離れる前に、正太はFの家を訪ねることにした。

 葬式に出ないまま2年が過ぎ、正太の就職も決まり北海道にいけば、とうぶん帰京することもできなくなるだろう。

 気持ちに区切りをつけるためにも、線香を上げておきたい。

 あらかじめ、Fの自宅に電話をいれると母親がでて、ぜひ逢いにきてくださいと、優しい声で、返事があった。

 約束した日の午前中に自宅を訪問したのだが、迎えてくれた母親は、F似で福々しかった顔が、やつれて見違えるほど老け込んでいた。

 そして昼間なのに部屋のなかはどことなく暗く、生気が失せている。

 客間に通されると、母親は隣部屋の仕切りになっているふすまを開けた。

 そちらが仏間で、大きな仏壇が目に入った。そこには灯明がぼんやり灯されている。

「ようこそお越しくださいました」

「お葬式にも出席せず、申し訳なく思っています」

「いいんですよ、正太さんにも思わぬご迷惑をおかけしてしまったのではないかと、私からもお電話すればよかったのですが。すっかり気落ちしてしまって誰ともお話しする気になれなくて」

「僕は、来月、北海道のホテルに就職することになりました。しばらくこちらに帰ることもできませんので、今日はお線香を上げさせていただこうと思いお邪魔しました」

 準備してきた口上を述べるように話し、用を早く済ませて息苦しいこの雰囲気から抜け出したくなっていた。

「それはおめでとうございます。息子は正太君にとてもよくしていただいて、亡くなる前にも、正太君から受験結果の電話があるからそうしたら、いっしょに逢おうと思っているって、それは楽しそうにしていました」

 2年前のことを昨日のことのように話すFの母親をみて、電話するのを忘れていたことを思い出し、苦いものを呑み込むような気持ちがした。

 そのとき、仏間に父親が入ってきて、仏壇の前に座りじっと動かずにFの遺影を見つめている。

「主人もあの通りで、仕事もやめてしまい、毎日、毎日ああして仏壇の前にすわっています。息子に無理をさせたのではないか、もっと話を聞いてやればよかった、あの日一人にしたのは間違いだったと同じことばかり話していて、私もつらいけれど、いちばんつらいのは、息子なのではないかと、それがかわいそうで」

 涙声になった母親に、正太はかける言葉を失っていた。

「お父さん、息子のいちばん親しかったお友達がお線香をあげにきてくれました。ちょっと席を空けてください」

 母親の声に、父親ははじめて正太がいることに気づいたかのように、ちょっと驚いた顔をして、それでも緩慢な動作でゆっくりを座布団から立ち上がった。そして、庭のみえる縁側に腰を下ろす。

 仏壇の前に座った正太は、遺影に向かって手を合わせ、声に出さずに約束の電話をしなかったことを詫び、そしてこれから東京を離れて北海道に行くことと、当分の間は会えないからと別れを告げた。

 Fの母親に辞去を告げたとき、父親はじっと庭を見つめたきり動かなかった。

 あれから2年の時間が経ったのだが、この家では一秒も時計の針が動いていない。

 両親はこれからどう生きるのだろうか、帰りの電車の中で冷え切った冬の空を見ながら、Fの自死が生み出した、逆縁の不幸に心が痛んだ。

 

新天地を求めて

 開業したてのホテルは、東京にあるアイデア社長で知られる大手事務機器販売会社の資本によって建てられ、いままでにない斬新なサービスを提供するという触れ込みだった。

 3月に社員教育が始まり、3ヶ月後の6月には開業するというハードスケジュールで、なれないスタッフのせいもあり、現場では混乱が続いた。

 正太は、フロントスタッフとしてカウンターに入り、接客業をスタートした。

 10月には、東京オリンピックが開かれ、その関係で来日した外国人観光客が北海道にも流れてきた。正太も急場仕込みのいい加減な英会話を駆使して、忙しく接待する。

 北海道の観光シーズンは、一年を通じて8割が夏期で、一割が2月の雪祭り、残りの1割がその他のシーズンだった。夏期の3ヶ月は猛烈に忙しく、休みが取れない上に残業続きになるが、ピークを過ぎると海の潮が引くように、閑古鳥が鳴くシーズンオフに入る。

 広いロビーは終日人影がまばらで、大きなツアーの団体予約が入らない限り、いっそのこと休業にしたほうがましなのではないか、と思えるほど閑散としていた。

 仕事に慣れるに従って、生涯を通じて働きがいがある仕事か、素朴な疑問にとらわれるようになり、その気持ちは次第に膨らんでいった。

 しかし、いまさら大学に再挑戦する気持ちにもならない。

 そんな自分をだましだまししながら、果たすべき仕事をほうりだすことはしなかったが、上司はどこか就労態度の異変に気づいていたのかもしれない。

 入社2年目の春に、人事異動があり自分で望んだわけでなかったが、正太はフロントワークから裏方の広報室に配属されることになった。

 異動による環境の変化がもたらしたことは、少なくなかった。

 もっとも影響をもたらしたのが、広報室の責任者である人物との出会いだった。

 それは結果的に、正太のこれから歩む道を決めることになる。

 その人物とは、ホテル開業にともない関連会社から出向していた広告のクリエイティブディレクターで、正太が新しく踏み込むことになった道が、広告制作の世界だった。

 その責任者であるディレクターから、正太はみっちりと広告のイロハについて指導を受けることになる。

 広告に関してまったく知識を持たない正太に、読むべき専門書を惜しみなく貸してくれて、分からないところは分かるまで根気よく教えてくれた。

 とくに、ディレクターの本来の仕事がコピーライターであったことから、国の内外の広告実例を手本に、キャッチフレーズやボディコピーを制作させ、それを添削するという実践的な指導を繰り返し行ってくれた。

 広告表現をつくることの難しさとおもしろさが分かってくるに従って、浪人時代にめざしていた映画の世界に通じることが多いのに気づき始めた。

 とくに、広告表現の答えはひとつではない、クリエイティブは作る人間のセンスが問われる仕事であり、その奥深さに引き込まれ、こんな世界があるのだという発見を正太にもたらすことになった。

 寸暇を惜しんで専門書を読み、知識を蓄え、教えを乞う密度の濃い時間が過ぎていった。

 しかし、それは漠然と閉塞感を抱きはじめていた毎日に射し込んだ、一筋の光にすがる思いで、飛びついた結果かもしれなかった。

 それでも、学ぶほどにクリエイティブの仕事は、正太が自分の将来を投影するに十分なほどの強い引力があった。

 人事異動から10ヶ月ほどたち、あるイベントのコピー制作をディレクターから任された。はじめて一人で考え、文章を作成することに正太は不思議な興奮を覚えた。

 答えは一つではない、幅広く発想し、対象に何を伝えればいいか、自分で考えて自由に作ってみなさい。出された条件はそれだけだった。

 正太が書き上げた文章に目を通したディレクターは「君はコピーの仕事のスタートラインに立てたね」と祝福してくれた。

 さらに「この文章をどのように新聞広告としてレイアウトするか、こんどはデザイナーに君から指示をだしてみなさい」と、ディレクションも任せてくれた。

 外部のプロダクションのデザイナーと打ち合わせを重ね、完成した新聞広告とポスターを見たとき、正太は広告の世界の一端をようやく掴むことができたような気がした。

「まだまだ勉強しなければならないことはたくさんあるけれど、基本は変わらない。僕から教えられることはもうそんなにはない。あとは自分で経験を積み重ねていくことだ。ただ、ひとつだけ、覚えていてほしいことがある。それは、他人と同じことをするな、ということだ」

 ディレクターから、ホテルの広報室を辞めて大手代理店の札幌支店に転職することをきいたのは、正太がコピーライターのスタートラインに立ったと言われてから2か月後のことだった。

 このまま北海道に残っても、あらたに広告制作の経験をつむことはできないと判断し、師と仰ぐディレクターとの別れをきっかけに、正太は東京へ戻る決心をした。

 半年後、誰に相談することなく独断で、ホテルを退職し、東京に戻って、新聞の募集欄で見つけた小さな広告制作会社に職を求めて再出発をした。

正太25歳の晩秋だった。

 

正太36

 昭和541979)年7月、36歳になった正太は、28歳で結婚した妻と、娘の三人家族で。親と同居してなんとか生活の基盤を造りつつあった。

 帰京して仕事を見つけた小さな広告制作プロダクションから、中堅の代理店に転職し、新聞や雑誌などの印刷媒体から、テレビコマーシャルの制作にも関わるようになり、正太は仕事の幅を広げていった。

 どのようなスポンサーの仕事をしているときでも、いつも心に置いていたのは「他人と同じことをするな」、という素朴で重い一言だった。

 1970年頃からはじまった高度経済成長の好景気に、広告業界は活気にあふれ、その勢いに押されるように、正太は36歳の10月に、数人の仕事仲間と広告制作会社を立ち上げた。

 仕事は後を絶たず多忙な毎日で、日曜祭日も返上して仕事に追われることが多く、家庭は妻に任せきりになる。

 妻にした女性は高校時代の同級生の妹で、家を空けがちな正太を見守り、不満があってもそれを外に出すようなことはしない忍耐強さがあった。

 正太はそれに甘えていることは分かっていたが、どこかで俺の稼ぎで生活が維持しているという、身勝手な自負で自分をゆるしていたところがあった。

 広告制作会社設立から一年目、6月の日曜日の午後、正太は久しぶりに休みが取れて、自宅で子ども相手に遊んでいた。母親が呼んでいると妻にいわれ、子どもとの遊びを中断してそちらに向かう。

 茶の間にいる母親が、ぽかんとした顔をして正太を見つめていた。

「なにかご用がおありですか」正太は剽軽に話しかける。

「いま、マーちゃんのお母さんから電話で、マーちゃんが亡くなったんですって」

「亡くなったってマーちゃんが?」

「亡くなってから一年経つんですって」

「だからどうしてなの、マーちゃん事故にでもあったの」

「病気ですって。それよりあなたは来週の土曜日、マーちゃんの家にきてほしいと言われたけれど、どう、いける?」

 18年前のFの時も唐突だったけれど、なんでこんなに人に死の知らせは、突然とどくのだろうか。

 それもマーちゃんが亡くなったのは一年前だという。

 

 マーちゃんに最後にあったのは、いつだったろうか。

 北海道から東京に帰ってきて、広告制作プロダクションに入社し、親の家に居候していたころだから、10年ほど前になる。

 隣町に一人で映画を観に行き、駅の改札をでたところで、偶然再会した。

 マーちゃんは、人混みをかき分けるように人なつっこい笑顔で「正ちゃん久しぶり。東京に帰ってきたんだって」と彼の方から先に気づいて話しかけてきた。

 相変わらず野球をやっているらしく、健康そうに日焼けしている。

「マーちゃんいまどこに住んでいるの」

「相変わらず同じ町で、信用金庫につとめている。野球部に所属して、野球の合間に仕事している毎日だ」と嬉しそうに近況を語ってくれた。

「それじゃまだ一人か?」

「うん、正ちゃんの方こそどうなの」などと言葉を交わして、別れようとしたとき「正ちゃん、正ちゃんちの前の小学校の校庭で倒れたところを助けてくれて本当にありがとう。感謝してもしきれない」と、正太に手を差し出し強く握った。

 数分に満たない立ち話で、お互いに人混みに紛れて別れたのが、マーちゃんに会った最後だった。

 Fの自死から18年たち、同じ小学校から中学校、高校といっしょに過ごした唯一の同級生が、亡くなった。スポーツ好きで陽気で、健康には自信のあったはずのマーちゃんがかかるような病気があるのか、正太には彼の死がどうしても信じられなかった。

 

 約束した土曜日は、梅雨の晴れ間の暑い日だった。正太は母親と連れだって、午後遅めの時間にマーちゃんの家を訪ねた。

 目抜き通りの商店街にあった自転車店は、10年ほど前にひとつ東京寄りの駅前に移転したそうで、マーちゃんと遊んだ懐かしい店に久しぶりにいけると思っていた正太はいささかがっかりした。

 一階が店舗で住まいは二階にある。

 マーちゃんの母親は、駅の改札から正太たちが出てくると、店先で手をふって迎えた。

 冷房の効いた部屋で、冷えた麦茶でのどを潤す。

「暑いなかようこそお越しくださいました。正太さんには、お忙しいところ本当にありがとうございました」

 正太と母親が、形どおりに挨拶を返すとマーちゃんの母親が、語り始めた。

 それによると、亡くなる一年半ほど前、なんとなく胃の周辺がしくしくする症状があったが、勤務先の信用金庫の定期健診で、軽い胃潰瘍と診断された。

 胃カメラで検査するほどではないということで、投薬を受けたところしばらくして症状が改善し、いつも通り、仕事や野球にせいを出していた。

 ところが半年経ったころ、こんどは背中や腰回りに痛みが起き始めた。

 最初のうちは野球のやり過ぎだ、いや酒の飲み過ぎだ、マーちゃんも年齢には勝てないなどと、いい整体があるとか、針治療がいいとか知人からすすめられ受療したりしていた。しかし、症状は思わしくなく、やがて胃の周辺に強い痛みがあり、そのうち夜、眠れないほどの激痛が腰を中心に背中全体に広がり始めた。

 仕事を休んでつぎつぎに病院を替えたが、どこも原因が分からず、大した治療をしてくれるわけでもなく、せいぜい胃腸薬や痛み止めを出してくれるだけだった。

 正式な病名が判明したのは、一年前の3月、最後にすがった病院で、末期の膵臓がんで余命は長くて3ヶ月という診断がくだされた。手術は不可能で、できることは痛みを和らげる鎮痛剤投与だけといわれた。

 鎮痛剤で痛みがおさまるとマーちゃんは、嘘のように元気になり父親と母親、兄弟、友人も希望をもったが、それはつかの間のことで、宣告された余命3ヶ月の通り一年前の6月の今日、亡くなった。まだ、幼稚園に通う前の子ども二人を遺して。

 マーちゃんの母親は、声は小さかったが、しっかりと思いをかみしめるように、また正太に報告するかのように、あまり感情を見せず話し終えた。

 壮絶な闘病生活については、詳しい話しを聞くこともためらわせるほどだった。

 

「正太君に、知らせようといったら、正太君に助けてもらった命を粗末にしたのに、いまさら会えない。元気になったら俺から話すから知らせないでほしいって、最後まで言い続けていました。もう最後の頃はやせて、やせて、お腹は腹水がたまって膨らんでしまって、友だちの見舞いも断っていたほどなの。そういうことで知らせられなくて、本当に正太君には申し訳ないと思っています」

「そうですか、マーちゃんはそういってましたか。僕がマーちゃんの命を救ったことになっているんですね」

 マーちゃんが日射病による高熱の後遺症で、正太の家の前にある小学校の校庭で倒れて、正太の家で介護してくれたと勘違いしていることを、あえてあらためることはしなかった。

 焼香をして、マーちゃんの家を辞したのは、西の山並みに太陽が沈みかけ、夕日が町を赤く染め始める時間だった。

「あら、ずいぶん長いことお邪魔してしまったみたい」

 駅のホームの時計を見て母親は、なにか言葉を見つけるように、そう言った。

 正太は、夕日に染まる山並みに視線を送りながら、

 "マーちゃんは、最後まで勘違いしたまま逝ってしまった。それでよかったのだろうか。60歳、70歳になって再会したときも、彼は僕に同じように感謝して、僕は同じようにそれは勘違いだったんだって、笑いながらいっただろうか"そう思いながら、話しの糸口を求めているような母親に、別の言葉をかけていた。

「マーちゃんのお母さん、少しやつれたみたいだったな」

「そうね、親より先になくなるのは、逆縁といって不幸なことだから。お母さんもずいぶんつらかったでしょう」

 正太は同じ言葉を、前にもいちど聞いたような気がした。

「マーちゃんはずっと、僕が命を助けたと思っていたんだ」

「そうね、でもそれでいいじゃない。日射病で倒れたとき、つきっきりでそばにいたから、そう信じたのでしょう。小学校の時からずっと仲良かったから」

 ホームに到着した電車は、正太が通学に使った当時の車両とは比べものにならないほど、スマートになっていた。

 車体の色も小豆色から鮮やかなオレンジ色だ。

 夕日が差し込む車内は空いていた。

 正太は、マーちゃんの死によって、小学校卒業まで住んでいた町と自分をつないでいた細い糸がさらに細くなり、電車がホームから離れていくにつれて、音もなく切れたように感じた。 

 正太は窓の外に目をやる。

 沿線に住宅は増えていたが、のどかな風景は正太とマーちゃん、そして史子と電車通学した当時とあまり変わっていないようにみえた。

 窓に映る自分の顔を見ながら、この町を離れてから20年以上の歳月が流れ、いちばん変わったのは、自分自身なのかもしれないと思った。

                             完               

 

それからの正太

高校生活

 小学校生活を過ごした町から、引っ越しをして、新しい町で新しい生活をスタートした正太は、高校生になり、大学受験を経て、社会人の道を歩くことになる。

 正太は、人並みにいくつかの転機を迎え、幾度かの挫折を、出会いと別れを味わってきた。それらは、誰もがくぐり抜けるなければならない時間であり、また前に進むために歩き続けなければならない、道だった。

 ただ、その道が平坦であったかどうかはそれぞれの思いようであり、また避ければすむことを、あえて避けずに歩き続けたことによってうまれた蹉跌もあった。

 前にも書いたが、正太の入学した私立学校は、中高一貫教育の男子校だった。

 中学三年が終了するとそのまま無試験で、エレベータ式に高校に上がり、二年になると文系、理系の進学コースを選ぶことになっている。つまり、中学受験は経験したが、高校受験は必要なかった。正太は、ちょっと得したような気分になったが、文系、理系のどっちを選ぶかとなると、理科と聞いただけでめまいを感じるほど不得手にしていたので、二者択一では、文系しかない。

 この私立学園は、高校二年終了までに、高校教育の単位を取得できるカリキュラムを組んでおり、高校三年の1年間は大学受験のためあてることになっている。

 そのために、三年生になると大学受験の準備で、野球部などの一部を除いて部活動は、事実上停止となってしまい、高校生活をフルに楽しもうと心に決めていた正太は、ともに時間をすごす同級生がいなくなった。

 誰もが、受験に追われ、模擬試験に一喜一憂し、塾通いを日常として、遅刻早退は当たり前で、学校に顔を出さない同級生も多かった。

 正太は、塾に通うことはしなかったが、模擬試験は親の目もあるので受けていた。

 どこの大学を受験するかという確たる考えもなく、模試の結果も思わしくないことから、開き直って、浪人覚悟で最後の高校生活を過ごすことにしていた。

 年が明け、形ばかりの3学期が始まると、受験本番の2月には、教室に顔をだす同級生はいっそうまばらになった。

 正太は、難関私立のひとつであるW大学の一学部のみを受験することにした。その学部を選んだ理由は、おぼろげながらではあるが、自分の将来やりたいことに近いかなという程度のことだった。もちろん、合格の自信などまったくない。

 同級生がつぎつぎに志望校や滑り止めに合格したということを知っても、とくに焦る気持ちもなかった。

 W大学の一次の筆記試験が終わった日、さあこれで浪人生活の準備をしようと、気持ちが吹っ切れたように帰宅すると、母親が「F君がK大の法学部に受かったんですって。いま、お母さんから電話がありました。あなたからもお祝いの電話をしておきなさい」

 母親はもう、正太の合格はとっくにあきらめていたので、同級生のK大合格をうらやむ気持ちすらないようにさばさばしている。

「へえ、あいつやったなあ。ところで今日の一次試験は模擬試験の延長みたいなもので、来年がんばりますから」とだけいうと二階の自室への階段を上る。

「まだ、結果はわからないのでしょう。F君みたいに受かっているかも」

「ない、ない」

 背中に母親の声を聞きながら、正太は右手を大きく振った。

 

 夕食前に正太は、Fに電話をする。

 受話器の向こうで、Fの母親の元気で機嫌の良さそうな声が響く。

 正太が名前をつげると、「あらあ、正太君。今日W大の試験どうでした」

 と、正太のことを気にしている様子だった。Fから聞いていたのだろう。

「まあ、僕はもうあきらめていますから。それよりF君おめでとうございます」

 と電話で話しつつ、正太の母親から聞いたときから、正直なところ、なぜFが難関のK大に合格できたのか、不思議な気持ちがした。

 

 決して、彼の能力が劣るというのではなく、入学試験の二三日前に教室で会ったときに「K大は僕の父親出身校で、なにがなんでも合格しろといわれているけれど、いまの成績では無理だって、先生もいってるし、実力がないのは誰よりも自分がいちばんよく分かっている。R大とかA大ならなんとかなりそうなんだけれど」と正太に気弱な面を見せていた。

「やってみなけりゃ分からない。当たって砕けろだろう」と励ましにもならない言葉をかけるのが正太のできる精一杯だった。

 こんな役に立ちそうもない励ましにも、「ありがとう。正太君にそういわれると気持ちが楽になる。君は、いいなあ。うらやましいほどあっけらかんとしていて、度胸があって。お互い浪人することになったら、いっしょに予備校へ通おうね」と、右の頬にいつものえくぼをつくって笑った。

 なにいってやがる、合格の可能性が少しでもあるから、心配なんだろう。こっち端っからなんにもないから、なんとでもいえるだけなのさ、と心の中でつぶやいた。

 そのFが第一志望校に受かったというのだから、Fには悪いと思ったが、意外な気持ちを隠せなかった。

「ああ、正太くん」いつの間にか電話は本人に換わっていた。

「よう、やったじゃないか」

 ちょっと声がうわずった。

「正太君にいわれて、当たって砕けただけだ。本当にありがとう、あの言葉で僕は、気持ちが座ったような気がする」

 そうか、本当に良かった、すこしでも自分が役に立ったことを素直によろこんだ。

「今週、お父さんとお母さんと、旅行に行くけれど、土曜日には家にいるから、どこかで会わない。正ちゃんがだめというのなら、電話を必ずしてくれないかな」

「おう!その頃は俺の浪人生活が始まっているだろうから、まあ、幸せいっぱいの君に会うのは、来年の受験後にしよう。必ず電話するからな」

 と、ほかのクラス仲間の受験結果などの話をしながら、電話を終えた。

 

 Fは大手の化学製品会社の役員をつとめる父親と、教育熱心な母親との間に生まれた一人っ子だった。

 中学一年の時に、同じクラスで母親同士がPTAの役員をしていた関係で親しくなり、Fはしばしば学校の帰りに正太の自宅に寄り道し、夕食をいっしょに食べることもあった。

 遊びにきた日の夜は、話しぶりが上品だとか、正太とは性格が正反対で気持ちの優しい子だとか、自分の子どもに遠慮もなく、母親はFを褒めちぎる。

 思わず、育ちの良さは、家庭できまるんだと、憎まれ口の一つも叩きたかったが、正太も彼の素直で透明な性格を好ましく思っていた。

 Fの自宅に遊びにいくこともあったが、そんな時に彼の母親は、「一人っ子で甘えん坊だから、正太君せいぜい鍛えてあげてください」と、いわれたものだ。

 そうしたつきあいも、中学校までで、高校に上がってからはごく普通の友人つきあいに変わっていった。それでも、受験を前に立ち話で、自信がないと本音をこぼしたのは、Fにとって中学時代の友だち意識が、正太が感じていたよりも深かったのかもしれない。

 

予期せぬ知らせ

 一次試験の合格発表は、見るまでもないと思っていたが、発表の帰りに予備校の入学手続きをするついでの気持ちで見に行くことにした。

 正太の受験番号は、なかった。

 予定通り、予備校の入学手続きをすませて、正太は帰宅した。

 週が明け、正太は、前の週の土曜日にFに電話する約束を忘れていたことを思い出した。

 あちらはK大の合格生、こちらは天下晴れての浪人生。

 電話を忘れていたというよりも、頭の隅っこに、大学合格をめざして、受験テクニックを習得するつまらない毎日がこれから一年間つづくことへの憂鬱さが、他人に思いをはせる余裕を奪い去っていた、というのが正しいだろう。

 週明けの月曜日、正太は、茶の間にある掘りこたつに座り、予備校からもらってきたガイダンスに目を通していた。

 家の中には正太と母親の二人だけだ。

 父親の書斎にある電話が鳴っている。

「正太、電話に出なさい」と二階から母親の声がする。

 正太は、ぬくぬくとした掘りこたつから、抜け出す気にならない。

「母さん出てよ」と大声を上げる。

「もう、しょうがないわね」とぶつぶつ言いながら、書斎のドアを開く音が聞こえた。

 一分も経たないうち、書斎から茶の間にスリッパの音をぱたぱたさせながら、母親が慌ただしく走ってきて、障子を開く。その顔は、目が大きく見開かれ、なにか見てならないものを見たときのような驚きに満ちていた。

「正太、大変よ。昨日、F君が亡くなったって」

 こたつ掛けを胸まで引き上げて、ガイダンスに目を通して正太は、母親の表情と言葉が、ひとつに重ならず、しばらくお互いに見つめ合ったままになった。

「電話は、M君のお母さんからで、自殺ですって」

 K大に合格して自殺するわけがない。

 正太は、固まったようにこたつから出ることができないでいた。

 するとまた電話が鳴った。

「きっとあなたの友達からでしょう。電話にでなさい」

 正太は、バネ仕掛けの人形のように、ぎこちなくこたつから飛び出すと、けたたましくなる電話の呼び鈴を目指した。

 受話器をとると、声の主は同級生のMだった。

 MFと正太の三人でよく遊んだ仲で、母親同士も仲が良かった。

「正太か。さっき俺のお袋から電話あったと思うけれど、どうしていいのか分からなくて。なあ、正太、聞いているのか」。

 Mの息づかいが荒く、ところどころ声がとぎれる。

「ああ、聞いている。あいつK大にうかって、なんでそんなことしなけりゃならないんだ」

「よくわからないけれど、先週の金曜日に大学から不合格通知がきて、Fはもう入学準備したり、親戚からお祝いもらったりして、すごく落ち込んでいたようなんだ」

「だって、本人が受かったっていっていたのに、なんでそんなことが起きるの?」

「だから、よくわからないっていってるじゃないか」

 もどかしさから、苛立った声になる。

「正太、いっしょにFの家にいかないか」

「いや、いま行っても迷惑になるだけだろう」

「そうだな、もう少し様子を見ることにするか。また、なにか分かったら電話する。正太のほうもなにかあったら俺に電話をしてくれ」

 電話は唐突に切れた。

 茶の間に戻ると、母親が心配というより、不安げに正太からの言葉を待っていた。

「まだ、なんにも分からないって。先週、合格祝いの電話で話したばかりだし、両親と旅行に行くって、すごくうれしそうだったのに、こんなの信じられない」

 正太は、こたつの上に広げた予備校の書類を無造作に封筒に入れて、二階の自室に向かった。

「正太、大丈夫?」

 母親の声は正太に気づかうように、不安に満ちていた。

「僕は大丈夫だよ」とりあえず、母親を安心させないと、煩わしいことになるという思いから、力強く返事する。

 

補欠8番目

 Fの通夜と葬儀に、正太はとうとう出席しなかった。

 しなかったと言うよりは、できなかったといったほうが正しいかもしれない。

 母親にいっしょに行こうと言われ、寸前までそのつもりでいたが、「母さん、僕はいかない」とそのまま、部屋にこもってしまった。

 母親は、「正太は本当に大丈夫ね」と念を押して、葬儀にむかった。

 親しい友人の死、それは正太にとって、身近な人の初めての死だった。

 病気でも事故でも、家族、親戚、友人をふくめて死という現実に直面したことがない。

 正太の心には、Fの死を受け入れがたい強い意志が働いていた。

 葬儀に出ることは、死を受け入れることになる。

 その心の準備が、できていなかった。

 そして、もうひとつ、土曜日に必ず電話するという約束を忘れたことが、いまになって重くのしかかってきていた。

 受験に失敗し、これから一年の浪人生活をどう送るかと、悩んでいる自分が、K大に合格したFとどんな会話を交わせばいいのか、その面倒くささがどこかで正太に電話を躊躇させたことを、忘れたことの言い訳にしている自分に気づいた。

 もし、約束通り電話していたら、日曜日に、Fは自殺を思いとどまったのではないか。

 受験前に、学校で二人で話したとき、「お互い浪人することになったら、いっしょに予備校へ通おう」と、いっていたではないか。

 もし、土曜日に電話して、不合格だったことを知ったら、「おう、お互いに頑張ろうな」などと、同じ浪人仲間として嬉しげに言葉をかけていたかもしれない。

 なぜ、電話しなかったのか。その悔やみは、誰に話しても分かってもらえないだろう。

 自分は、Fの死を受け入れる資格がない、葬儀に参列することはできない。

 葬儀から帰った母親は、言葉少なに「正太、両親よりも先になくなることは逆縁といってとても不幸なことです。

 F君のお母さんには、気の毒でかける言葉もありませんでした」とだけいうと、葬儀で耳にしたはずのなぜ自殺したのか、その状況も理由もいっさい口を閉ざして話すことはなかった。

 正太もあえて聞こうとはしなかった。

 

 半月ほどして、ある新聞にFの自死に関する特集記事が掲載されていた。

 内容は、受験戦争の犠牲というようなタイトルで、Fが死を選ぶまでの経緯とそれに関する識者の意見が紹介されているものだった。

 葬儀の後で、参列した何人かの同級生から電話をもらったが、その内容はあんなつらい葬式はなかったとか、なんで正太は、参列しなかったのかなどというもので、自殺の理由である不合格通知について、多くを知るものはいなかった。

 この記事で正太ははじめて、Fの自殺の理由を知った。

 記事によると、FK大に補欠合格しておりその順番は8番目だった。例年なら辞退する合格者がでるので、K大では補欠の100番目ぐらいまでは繰り上げ合格するとされていた。ところが、今回の受験では、補欠のうち正式な合格は7番目までだったため、Fは不合格になったというのだ。たった一番違いで、ふるい落とされたことで、親戚からも祝いを受け、友人知人にも合格を知らせ、得意絶頂の思いでいたときに受けた不合格通知の反動は、Fに死を選ばすほどの重圧になったのだろう。

 自殺した日曜日は、両親がたまたま所用で外出し、母親は息子をひとり残してきたことが気になり、用事を早めに切り上げて帰宅したのだが、すでにFはガスによって命を絶っていた。

 一人息子の死に、両親は強い衝撃を受けながら、受験に失敗をしても人生はいくらでもやり直しができるので、息子のような道は決して選ばないでほしいと訴えていた。

 正太は、Fの死がこのような記事によって白日の下にさらされたことに、激しい反発を覚えた。そして、Fの気持ちをどんなに忖度しても、まわりの人間が彼の死を受験の犠牲者などとレッテル貼りすることに、いささかも説得力がないと思った。

 大学受験に失敗したことで、歩むべき道を歩めなくなるという絶望感を死につなげた彼に、初めて憤りを感じた。

 合格したと勝手に思い込み、浮かれた自分を諫めた結果かもしれないが、人生の失敗なんてこれからいくつ重ねるか分からないのに、その入り口で、たった一回の蹉跌で命に幕引きするなんて、友人として許せない気持ちになった。

 だが、友人の死の現実をいつかは受け入れざるを得ないことは、正太にも分かっていた。そして、その死を次の受験まで背負っていくことを決めた。

 涙を流すのはまだ早い、受け入れがたいFの不在に対して、正太ができることは明日も生き続けることを決意することだけだった。

 

 始まった浪人生活の日常は、自由であり不自由、解放と拘束という矛盾した感情によって支配されていた。

 毎朝、判を押したように自宅を出て、電車で高田の馬場駅近くの予備校に向かい、午後2時頃授業が終わる。

 土曜や日曜日に設定されている定期的な模擬試験の日は、昼には解放される。

 その後、帰宅するまでの数時間を正太は、あることに当てることにした。

 予備校への通学に利用している中央線沿線、隣駅の国分寺、三鷹、吉祥寺、阿佐ヶ谷、中野、東中野、そして予備校のある高田の馬場駅には、名画上映館があった。

 正太は、名画座の上映スケジュール表を手にいれて、時間の許す限り昔の名画を観ることにしたのだ。

 もちろん、それには理由がある。

 昨年の受験でおぼろげながら、描いた将来やりたいことが、映画の世界にあることに気づき、それがはっきりとした目標となったのだ。

 そのためには、なによりも目を肥やしておくことだ。

 ロードショー館での映画鑑賞は、限られた小遣いでは無理だが、名画座の学割なら十分にもらっている小遣いで間に合う。上映時間をつかんでおけば、帰宅途中で寄り道しても、2時間から2時間半くらいですむから、夕食時には十分間に合う。

 また、小遣いをはたいては、古書店で映画評論などの小難しい雑誌のバックナンバーを買いもとめ、塾へ通う電車のなかで、むさぼるように読むことを日課とした。

 映画の歴史、映像編集(モンタージュ論)の技法、監督、プロデューサーの役割、そして何よりも映画批評については、観た映画、観ていない映画に限らず、興味深く読み込み、観た映画に関しては自分なりの批評をノートに記し、プロの批評と読み比べて、手法や視点を学ぼうとした。

 こんなことが、家族に知れたら受験勉強に力が入っていないと言われるのに決まっているから、正太は、受験勉強や模擬試験には真剣に取り組むことを忘れなかった。

 週に2本を目標に、一年52週で100本以上の映画を観ることを正太はめざした。

 それが、受験勉強という息が詰まるようなつまらない時間を、少しでも有意義にする方法だと、自分に言い聞かせるようにして。 

 

再びの受験

 受験する大学を決めるに当たって、前年と同じように正太はW大を第一にあげ、そしてFが受験したK大も受けると両親に告げた。

 その選択について、父親は何もいわなかったが、母親はW大学よりK大学のほうが、私はうれしいと機嫌よく賛成した。

 受験日は、K大が2月で、W大は前年と同じように3月になってからだった。

 K大は、筆記の一次試験をパスすると、論文の二次試験がある。

 W大のほうは、一次試験をパスすると、二次試験は面接となる。

 一次試験の受験科目は、両大学とも英語、国語、社会であった。

 K大の受験当日、私鉄駅から続くK大への坂道は、冬のコートを羽織った男女学生が、黒い帯のように上っていく。

 その光景を見ながら、これだけの受験生が挑戦するのでは、合格は並大抵のことではない。また、亡くなったFも同じような光景を眺めながら、この坂を上っただろうと思いをはせた。

 大学構内で、正太は同じように浪人をした同級生に会った。

 その内の数人が、Fがどうして自殺したのか納得できなくて受験することにした、と話しているのを耳にした。

 正太は、自分以外にもそうした思いを抱いている友人がいること知り、寒風の吹きすさぶ真っ青な空を見上げならが、Fの自死が同級生に与えた重さを受け止めていた。

 試験会場は、階段式に机がならぶ広い教室で、一つの机の二人の受験生が、両脇に一人ずつ座り、受験票をそれぞれ左右の隅に置く。

 筆記用具を取り出す音が収まると、詰め入りの制服を着たK大の学生が、試験用紙を階段を上りながらひとりひとりに配り始めた。

 試験官から受験中の注意の説明が終わると、定刻の900分に午前中の二科目、英語、国語の筆記試験がはじまった。そして昼休みをとってから、三科目目の歴史・社会で試験は終了する。

 K大の坂を下るときには、試験問題と解答の印刷物を正門近くで販売していたが、正太はまったく興味がなく、買い求めることもしなかった。

 一次試験の発表があったのは2月の末で、この冬でいちばん寒い日だった。正太の受験番号はあった。

 自宅に電話すると、母親が「とりあえずおめでとう。二次試験頑張ってね」と拍子抜けするほど冷静にうけとめていた。都内に出かけていた小さい方の姉が、先に発表会場にでかけパスしたことを確かめて、すでに電話で伝えていたのだ。

「模擬試験の成績から、K大なら大丈夫だと思っていました」と、もう合格が決まったような口ぶりの母親に、小さく反発したくなったが、一次試験をパスしたことで、正太は、一年前にFが歩んだ道を、確実にたどっていることをはっきりと自覚することができた。

 二次試験は1週間後で、試験会場は一次よりもさらに広い、講堂のようなところで実施された。

 その日も寒かった。

 受験番号が張られている長机の左右に一人ずつ座るのは、筆記試験の時と同じだ。

 違うのは、長机の上にマス目をきった原稿用紙が2枚、あらかじめ配られていたことだった。

 試験官が一段高い演壇上に設置した大きな黒板の前に立ち、おもむろに白い紙を広げる。

 そこには、二次試験の論文の表題である「日米安全保障条約と日本の将来について」と黒々と縦書きされている。

 制限時間は2時間であると告げられ、正太を含めた受験生は原稿用紙に向かう。

 安保条約は、3年前の高校2年の時に、国を揺るがせた大事件だった。

 国を二分して賛否が議論され、国会の前では連日のように学生や労働者のデモが繰り広げられ、T大の女学生がデモ隊と警備する警察官に巻き込まれ亡くなった。

 高校生であった正太たちも、米ソ冷戦のなかで、日本がアメリカと同盟を深める安保条約締結について勉強会を開くなど、将来、この条約によってどのような日本になるのか、そして自分たちの生活にどのような影響をもたらすかについて熱心に話し合った。

 同級生の何人かは、全国の高校生の団体である全高連に所属して、国会前でのデモにも参加していた。安保条約は、国会で強行採決され、翌年の3月に自然成立した。

 それとともに、正太たちの学校でもいつの間にか、熱い議論は沈静化していった。

 論文の表題に、正太にはあの高校2年で体験した1年が思い出された。

 日米安保条約には反対する立場で、サンフランシスコ講和条約の締結によって独立を獲得した日本が、安保条約という実質的な軍事同盟を米国と結ぶことによって、米国に従属することになる。米ソの冷戦下で、日本の安全保障をどう確保するかは、大きな課題であるが、先の太平洋戦争を体験し、平和憲法の下で国際社会における新しいあり方を目指すのが日本の責務であり、いたずらに一国に与することは得策とはいえない。アジアはまだ未成熟な地域であるが、日本の進むべき道はアジアの一国として、真の独立を果たし世界平和に貢献していくべきである。などと持論を、二枚の原稿用紙を目いっぱいに使って書き連ねた。政治や外交問題に深い知識を十分に持たないままであったが、正太は高校2年の当時、同級生たちと熱く語り合い、議論したときの思いに駆り立てられるように、鉛筆の先を走らせていった。

 

 一次試験の発表を小さい方の姉が勝手に見に行ったことに、文句を言ったことから、二次の発表ついては正太だけが見に行くことになった。

 正太の受験番号は、補欠の80番目ほどに見つけることができた。そして公衆電話から自宅に電話して、二次試験はだめだったとだけ伝えた。

 母親の、ため息ともつかない息づかいが、受話器の向こうから聞こえてきた。

 二次試験を仮にパスしていたとしても、正太はK大に入学するつもりはなかった。

 受験した目的は、Fが一年前に立った同じ場所、同じ試験会場で、試験を受け、発表をみて同じ経験をすることだった。

 目的を遂行できたことで、正太は十分満足していた。

 そもそも、試験を受けた学部について正太はまったく興味がなかったし、それが将来自分の生きる道に役立つとは、とうてい考えられなかった。

 

受験の果てに

 残る受験校は、W大だけになった。母親は、K大に合格できなかったことから、W大のほかに、今から願書を出して間に合う大学はないかと、姉や兄に相談をしはじめた。

 兄たちは、正太が行く気のない大学など受験しても意味がないのではないかと、反対してくれたが、母親としてはどこでもいいから大学に入ってほしい、というその気持ちだけだった。そうした気持ちを分からないこともなかったが、大学へいくことが目的となっている母親の期待にこたえるつもりはなかったし、W大に合格すれば、こうした親の心配も解消すると考えていた。 

 また、両親にはもちろん、姉や兄に打ち明けていなかったが、正太の頭の中に、もう一年浪人生活を送るという選択はなかった。

 受験に合格するためのテクニックを手に入れる予備校の授業を、これ以上続けることは、もうたくさんだった。

 むしろ、もし、大学へ行くことができなかったら、早々に社会に出て、仕事を通して実践的なことを身につけたいという思いが日ごと強くなっていた。

W大もK大同様、一次の筆記試験には合格した。

 しかし、二次の面接では不合格となり、正太はさすがに落ち込んだが、数日後、もう1年浪人してはどうかという、両親に勧めに対して、きっぱりと浪人をするつもりはなく、働く道を選びたいとだけ告げた。

 母親は大いに気落ちしていたが、父親はお前の選んだ道だ、後悔しないように、とだけ言葉少なに言っただけだった。

 それから2週間ほどたった土曜日、正太は突然、父母に茶の間に来るように呼ばれた。

 茶の間に入ると、こたつのテーブルの上に封筒がおいてある。

「中を見てみなさい」と、正太に封筒ごと差し出した両親の顔は、怒りに満ちていた。

 正太は、自分宛の封書が開かれていることを訝しく思いつつ、差出人を見た。

 そこには、K大の文字がはっきりと読み取れた。

 封筒の中の二つ折りの紙を取り出して目を通した。

 紙には補欠合格していたが、手続きされなかったため不合格とします。

 というような趣旨のことが書かれている。

 "ああ、これと同じような書類が、Fにも配達されたんだな"

 Fは補欠8番で手続きしていたにも関わらず不合格通知が届き、自分は補欠80番目あたりだったのに、手続きしていないために不合格となった。

 Fの場合とはことなり、手続きしていなかったので、よもやこうした通知が届くとは思わなかった。それにしても、Fが通知を受けた時期に比べるとなんで、こんなに遅くなったのだろうかと、不思議には思ったがまったく見当もつかなかった。

 文面をみながら、あらためてFが、同じような通知を見てどのように受け止めたのか、そしてどのような気持ちで、自死までの時間をすごしたのか、はじめてその心情に触れたような思いがした。

 予想もしていなかった一枚の紙によって、不合格だったと嘘をついたことに対するきびしいしっぺ返しを食った思いだった。

 しかし、いまさら言い訳のしようがない。

 これからの道を決めたのは自分自身だから、それは自分で責任をとればいいと身勝手に考えていたが、父母の期待を裏切ったことは事実であり、弁解の余地はない。

「正太、お前のことを心配していたお父さんの気持ちが分かりますか」

「嘘をついていてごめんなさい。でも、僕はK大にいくつもりははじめからありませんでした。だから、補欠でも、合格していても、受かっていなかったと言うつもりだったんです。本当にごめんなさい。お父さんお母さんに隠していたことは、自分勝手でした。それは本当に申し訳ないと思っています」

 ではなぜ受験をしたのか、という問い詰めがあるかと覚悟したが、Fのことが理由であることは、絶対に話すまいと決めていた。

「正太、あと1年頑張ってみませんか」と母。

「僕は、もう、受験勉強をするつもりはありません」

「分かった、正太、自分の道を歩むというなら、これからは人を頼らずに、しっかりと自分を見つめて生きていきなさい。私からは、それ以上いうことはない」

 表に出したい感情を抑えた父親の言葉は、怒鳴りつけられるよりも正太の心に、いっそう深く刺さり、自分のやったことの重大さに押しつぶされるような重圧を感じた。

 父親はそれから後、大学受験のことについて、口にすることは二度となかった。

 

引っ越し

消すことができない不満

 最高学年の6年生になって、正太の毎日は、それまでの小学校5年間の生活から180度変化した。とくに日曜ごとの塾の模擬試験と週二回の補習授業は、放課後や休日の楽しみを正太から取り上げ、めったに座ることのなかった子ども部屋の勉強机にへばりつく時間へと変わった。それでも、戸惑いと不満をいだいた新学期のころに比べると、本人に少しずつ自覚が芽生えてきたのか、勉強することに苦痛ではなく、楽しみを感じ始めていたのだ。

 それはそれ、勉強は6年生にふさわしい遊びだと、つねに楽観的な正太の性格が、いいように働いた結果だといえる。

 だから、この楽しみの先にはきっともっと大きな喜びがあると、信じていた。

 ただ一つだけ、どうしても消すことのできない不満があった。

 それは、塾で受ける模擬試験だった。

 通い始めた頃には、なにやら訳の分からないテストで、何度も鉛筆を投げ出したくなるような気持ちになったが、放課後の補習を受け続けているうちに、それなりに答えを書く要領のようなものが掴めてきた。

 テストの解答を、いつごろからまるで謎を解くように書けるようになったのか、あまり自覚はなかったが、補習を受け始めるときに、"模擬試験の準備"だと先生から言われたことが、その通りになったことだけはよく理解できた。

 しかし、「模擬試験を解くために補習を受けているのはわかった。じゃあ、普段の勉強って何のためにしているのだろう」と自問しても、そちらの答えは一向にわからない。

 正太の疑問に根気よく答えてくれる兄に聞いたが、「学んだことをどこまで理解できているか確かめるのがテストだけれど、模擬試験に出される問題は、合格、不合格の判定してふるいにかけることが目的だから、勉強したことの理解力を試す学校のテストとは、問題の出し方もちがってくるのさ」と、正太の理解力をこえた返事だった。

 兄は、高校三年で来年は、国立大学の受験を控えている。

 学校のテストは学んだことを理解しているのを確かめるためで、模擬試験はふるいにかけるためか、そうすると兄が受ける大学受験はそのふるいになるわけか。

「ふるいにかけるって、ふるいから落ちるのがいいの、それともふるいに残るのがいいの?」といつものように疑問をぶつける。

「ふるいに残る方がいいに決まっている」

「じゃあ、ふるいの目から落ちないようにするには、大きな粒になるといいわけだ」

「まあ、そういうことだね」

「大きな粒になるにはどうすればいいの」

「一生懸命勉強して、たくさん知識を蓄えること」

「蓄えるって、貯金をしなさいってことかな」

 兄は、これ以上話していると、正太の話がどこに飛ぶか分からないので、自分の机にむかってカシカシと鉛筆の音を立て始めた。

 "でも、たくさん勉強して知識を蓄えても、模擬試験の解き方を学ぶために補習を受けるのはどうしてなのか"という疑問は、いぜんとして謎だった。

 ただし、国語のテストなどでは、出題をよく読んで正しく理解しないと、答えがとんちんかんになってしまうなど、出題に引っかけがあったり、落とし穴が仕掛けられていることを、正太は少しずつではあるが、感じ始めていた。

 とはいっても、そうしないと正解の○がもらえないからであり、それが正太なりに理解している勉強する意味と一つになっていたわけではなかった。

 模擬試験で場数を踏むうちに、試験は試験でやり方があり、勉強は勉強でやり方があるのかなとも思い始めたが、勉強の後で学ぶ補習はやはり、問題を解くための訓練のようであり、満点を取るためのにやむを得ないことであるかもしれないが、もっとも大きな悩みは、それがひとつも楽しくはないということだった。


いそがしい夏休み

 夏休みも、それまでの小学校5年間とは比べものにならないほど忙しかった。

 学校での補習授業は休みになったが、その代わりに地元の塾へ行くことと、模擬試験の回数が増えたのだ。

 夏休みの宿題もやらなければならないので、大好きな川遊びや、山での木イチゴ採りなどは、どこをどう調整しても、時間の都合をつけることはできなかった。

「正ちゃん遊ぼ」

「ごめん、今忙しいからまた後で」

を繰り返しているうちに、友だちからの誘いは減り始め、ついには誰からも声がかからなくなった。

 都内での模擬試験には、マーちゃんだけでなく、ほかにも数人いっしょ行くようになった。夏休みの電車は空いていて楽ちんだったが、正太の住む町にくらべると都内は暑く、しかも試験会場には、たくさんの受験者が押し寄せて、時間ごとに入れ替えもあり、狭い塾内は子どもたちでごった返している。

 朝でかけてから、いくつもの試験を受け、時には別の会場にいったりすると、帰りは夕方になることもあった。

 町の駅のつくと、ひんやりとした空気が出迎えてくれるので、そんなとき正太はほっとする気分になった。

 つぎに都内に行くのはいつなんだろう、こんなこといつまで続けるのだろう、正太がそんな気持ちを抱き始めていることを、まるで知っていたかのように、夏の終わり頃になって、両親からびっくりするような話をきくことになる。

 夏休みも、あますところ二週間ほどになった日曜日。

 その日も正太が帰ってきたのは夕方になっていた。

 お風呂に入って、夕食を済ませると、兄と大きい姉の三人で模擬試験の解答あわせの復習をやる。

 もうすっかり習慣になっていて、正太もこれが終わらないと落ち着かない。

「正太、このところほとんど満点をとっているね」と姉がほめる。

「思い込みや早とちりもなくなってきたし、テストのやり方が分かってきたみたいだ」

と兄が、満足げに正太の坊主頭を撫でる。

 子ども部屋に、小さい方の姉がはいってきて、「正太、お父さんとお母さんから話があるから、茶の間に来るようにって」

「なんだろう」

「いってみればわかるでしょ」と姉はつづける。

「なにかごほうびでももらえるのかなあ」と正太。

「どうして?なにかほめられることしたの?お手伝いでもしたの?そんなわけないでしょ」と憎まれ口をきいて「お父さんお母さんが待っているから、とにかくいけばわかるから」とあごでしゃくるようにうながす。

 まったく、小さい方の姉は、いちいち腹が立つな、と声には出さずに、チェッと舌打ちをする。

「生意気に、なんで舌打ちするのよ。せっかく知らせしてあげたのに、いうなら、ありがとうでしょう」

 正太は、自分に浴びせる嫌みな言葉に背中を押されるように、父母のまつ茶の間にむかった。

「あっ、正太、こっちへいらっしゃい。お父さんから大切なお話があります」

 新学期になって、父親からの大切な話は、これで二度目だ。

 そんなこと過去に一回もなかったので、正太は身を小さくしてちゃぶ台の前に座った。

「6年生になってから正太は、とてもよく勉強をしているようで、このところ塾にもしっかり通っているし、模擬試験の点数も良くなっているようだ。今日は、正太にこれからのことで話しておきたいことがあります」

 正太は、背筋をまっすぐにして、正座した太ももに拳に握った両手をおいた。

「お兄さんが来年、大学の試験を受けることになっているのは知っているね」

 正太は、うなづきながらおぼえたことをすぐに使いたくなる性格で、"ふるいにかけられるのでしょ"と言いそうになった。

「正太にも、中学校に入る試験を受けてもらうことにしました」

 その言葉を聞いて、正太は、おどろいたように目を見開き、

「中学校に入るのに試験があるの」と珍妙な声を上げる。

 自分もまさかふるいにかけられことになるとは。

 そして、「じゃあ、同級生のみんなが試験をうけるの」

「そうじゃない。正太が試験をうけるのは、私立の中学校だ」

「......」正太が口を挟もうとすると、

「正太は、この町の中学校には行きません」

と、母親が正太の言おうとしたことに、ぴしりと先手を打つ。

 6年間いっしょに小学校生活を送ってきた同級生といっしょに、地元の中学校に進学することを、正太はいちども疑ったことがない。

 補習も塾も模擬試験もすべてその準備のためと信じてきた。それが、別の中学校で、おまけに「シリツ」っていったい全体どんな中学校なのか。

「お母さん、そんな言い方したら正太が混乱するだろう」

とがめるように父親は話を続けた。

「この町の中学校は公立といってだれもが試験を受けずに入学できるけれど、その私立学校は、電車で40分ほどの町にある学校で、試験があってそれに合格しなければ入学できません」

「公立なら試験なしでも入れるのに、なんでわざわざ試験を受けなければならないの、そんなの面倒じゃない。小さいお姉ちゃんだってこの町の中学校いっているし、なんで僕はいっちゃいけないの」

 正太の理屈が始まったと、両親は顔を見合わせる。

「大きいお姉さんと、お兄さんは二人とも、この町の中学校に行っていないでしょ。二人とも試験をうけて国立の付属中学校にいきました。正太には、将来のことを考えてお父さんとお母さんの選んだ中学校に行ってもらいたいの」と母親。

「でも、どんな中学校でもおなじでしょ」

 正太としては、同級生と離れるのが納得できないだけで、必死に抵抗を試みる。

「正太のいう通りだ。でも正太にはわかないことかもしれないけれど、私立学校にはそれぞれ教育方針があって、お父さんとしてはこんな中学校で勉強をしてもらいたいなという希望もある。そこへ正太に入学して勉強してもらいたいと思っている」

 正太は、父親の話しぶりから、その私立学校は地元の中学校とは何かが違うのだろうということは、おぼろげながらわかり始めていた。

 だが、正太の気持ちを前向きにしたのが、母親のつぎの一言だった。

「正太に行ってほしい中学校は、マーちゃんもいっしょに受験するのよ」

 毎週のように都内の塾が主催する模擬試験をうけにいっているマーちゃんも、いっしょにその中学校いくことになる。それだけで正太の気持ちはあっさりと陥落してしまった。

「わかった、マーちゃんといっしょに行く」

 声も晴れ晴れとしている。

「でも、試験に合格しないと入学できませんから、正太にはそのつもりでしっかり勉強しなければなりません」

 父親も母親も、ああ疲れたというか、ホッとしたように息を吐いた。

 正太には理屈で説明してもわからない、殺し文句を知っていたのは母親の方だった。

 ふたりは、正太にいつよその町の中学校は行くことを告げようかと、だいぶ迷っていた。

 新学期が始まってすぐに告げると、正太は友達に黙ってはいられない。

 いずれにしても避けられないことは分かっていたが、そうなることで友達のあいだにわだかまりが生まれないか、心配だった。

 兄や姉は、国立大学の附属中学校に進んだが、まだ戦後の混乱期で転校を繰り返し、ひとつの小学校に通っていた期間も短く、友達とのつながりは正太ほどではなかった。

 正太の場合は、同級生と6年いっしょの時間を過ごしており、母親も同級生の保護者とつきあいが深かった。だからこそ、正太の気持ちがどのように振れるかが気になっていた。

 だが、それも「マーちゃん」の一言でおさまり、いらぬ心配だったと、拍子抜けしてしまった。父親は、これでいいのかと思いつつ、頭の中でさらに面倒な問題を、正太にどう説明すればいいものか、思い巡らせていた。もちろん、正太はそんな父親の思いを知るよしもなかった。


電車通学

 夏休みは、あっという間に終わり、いつもの夏なら真っ黒に日焼けする正太は、新学期の教室でクラスメートと再会したとき、自分一人がクラスでおいてけぼり食ったような気がした。 

 模擬試験に通う都内は、まだ夏の暑さが色濃く残っていたが、このまちでは早くも秋の風に変わりつつある。小学校卒業まで、半年とすこしになった。

 正太と史子の補習授業は、夏休み明けからすぐに再開された。

 すべてが私立中学校に行くためであるとわかったことで、放課後の補習も、都内塾で模擬試験に対しても、正太が疑問をはさむことはなくなった。

 そうならそうと早く言ってくれればいいのに、と両親の思いなどそっちのけで、気分はすっかり前向きで、すっきりしている。

 ただ、ひとつだけ、試験のために勉強することについては、これがずっと続くのかと思うと、ゆううつな気分になった。

 そんなときにも、兄から「入学試験が終わって、中学校に入ればまた普通に勉強がはじまる。でも、中学校を卒業して高校に進学するときと、大学に進学するときにはまた入学試験を受けなければならない。それは、正太だけでなくみんなが通らなければならない道だ」と、強い言葉で励まされ、正太はしばらく我慢すればいいのだと、入学試験の先にある未知の世界に思いをはせるようになった。

 新しい年を迎えたが、兄と正太が受験を控えていることもあり、家の中はいつもの正月のようなのんびりとした雰囲気はなく、ピーンと張りつめたような空気が漂っていた。

 三が日が終わった最初の日曜日には、模擬試験があり都内にでかける。

 そのころになると、正太は布製の鞄のなかから参考書や、小さな紙の裏表に問題と解答を書き込み輪っかで止めたカード出しながら、電車の中でも時間を無駄にしないように予習、復習をするようになっていた。

 マーちゃんと問題を出し合ったり、分からないところを教え合ったりすることも多くなり、正太は自分でも気づかぬうちに、入学試験という初めての体験にむかって一直線に歩み始めていた。

 二月の終わりころの寒い日に行われた入学試験は、あっけないほど簡単に終わり、母親といっしょに面接をうけて、三日後には合格発表があった。

 正太もマーちゃんも無事に合格した。試験が終わったあとで、「なんであんな難しい模擬試験をしなければならなかったんだろう」と、思わず口にしたように、算数は計算、国語は読みと書きが中心の内容で、拍子抜けしてしまったほどだった。

 正太は、合格したが、国立大学入学をめざしていた兄は、不合格となり一年浪人することになった。

 母親は、私立大学も受けるようにと進めていたが、兄はどこまでも国立大学一本に絞って、それを貫き通した。

 大きい方の姉も国立大学を受験して一年間浪人生活を送ったこともあり、母親は姉兄そろって浪人するなんて恥ずかしいと、不機嫌になっていたが、父親は兄の気持ちをくみ取ったかのように、静かに見守っていた。

 小学校の卒業式の日、正太は、登校して式場に入ったときに、びっくりした。同級生は男女ほぼ全員が、男子は詰め入りの制服、女子はセーラー服を着ているのだ。

 地元の中学校に進学する同級生は、すでに中学校の制服を買っていてそれを着てたのだが、正太とマーちゃんは、まだ制服がない。

 そのために正太の服装は上は白いワイシャツに灰色のセーター、マーちゃんも似たような服装だった。

 史子はというと、おしゃれなよそいきなのか、上下が紺色の服で、頭の後ろにまとめた髪を真っ赤なリボンできりりとしばっている。

 背の高さもあって、正太とは違った意味で、目立っていた。

 式が終了して、最後のクラス会がひらかれた。50人いるクラスメートは全員が無事卒業できたことを、クラスの委員長が担任の先生に感謝の言葉をのべ、それぞれがこれからの中学生活への夢や小学校生活の思い出について語った。

 史子も、入学試験に無事受かり、別の私立中学校に通うことになったけれど、この1年間はとてもいい思い出になったと、短く感謝の気持ちを述べていた。

 正太は、みんなといっしょの中学校いけないけれど、これからも友達として仲良くしてほしいと心から思っている気持ちを伝えるのが精一杯だった。

 6年間の小学校生活は、上級生になった5年生と最上級生になった6年生が正太にとって、大きな変化の時でもあり、いつもの仲間と校門にさしかかったとき、通学のためにこの門をくぐることは二度とないのだという思いから、足跡をしるすかのように一歩一歩を力をいれて踏みしめるように歩いた。


 あたらしい中学生活は、電車通学になる。

 電車大好きの正太にとって、定期をもって毎日電車に乗れることは、夢のようであり、わくわく感はいやが上にもたかまる。

 中学校のある町まで、途中での乗り換え時間と駅から学校までの徒歩時間を合計すると、1時間は見なければならない。 

 それに合う電車はというと、朝7時40分発しかなく、乗り遅れるとつぎは20分後の8時ちょうどになり、それでは遅刻する可能性があった。

 小豆色の四両編成の電車は、正太のように都内の学校へ通う学生たちですし詰めになる。

 四両のうち、正太たちの乗れる三両は三等車で、最後尾の一両は特別料金を払わなければ乗れない二等車だった。

 連結器のところのドアのガラスには「二等車」と書かれている。

 だが、不思議なことに、この二等車の利用客はほとんどいなかった。

 正太も利用している客を見ることはまれで、ときたま沿線にある進駐軍の基地の米軍の将校の姿をみかける程度だった。

 すし詰めの車両から、連結器のドア越しに空っぽの二等車を見つめながら、口々になんであっちに乗れないのかとぼやく声がしきりだった。

 史子も、同じ電車で通学している。

 朝、電車に座りたい一心で、早めにホームに行く正太に、史子が声をかけてくる。

 補習授業で顔を合わせ始めたころは、あまり口をきくことをしなかったが、史子自身が自分の母親から仕入れたらしい正太のことを、あれこれと話しかけてくるので、はじめは煩わしく感じていたが、自然と打ち解けて勉強のことや、進学のこと、家庭のことなどをお互いに話し合うようになった。

 転入してくる前は、正太の住む町から5つめほど東京寄りの駅にある、私立の小学校に通っていたのだが、その私立学校の教育方針について、史子の母親がどうしても納得できなくて、5年生終了とともに退学させて、小学校に転入させたのだと、正太はなんとなく耳にしていた。

「アヤちゃんは、転校するのはいやじゃなかったの?」

「いやとか、いやじゃないとか、そんなこと考える時間もなかった」

「アヤちゃんのお母さんは、きびしい人なのかな」

「そうじゃなくて、私の通っている小学校のルールがきびしくて、なんていうのかしら、自由がなくて息が詰まるようなところがあったの」

 史子の大人びた話しぶりから、転入してしばらくしてうれしそうに、クラスメートの女子と話しているのを正太は思い出していた。

 きっと、前の小学校では味わえなかった体験ができることに喜びがあったのだろう。

「それじゃ転校してきてうれしかったんだ」

「そう、はじめて正太君たちのクラスに入ってきたとき、みんながなにが不思議なものを見るように私を見ていたけれど、その目が、とてもやさしくて、すごく安心したの。そのあと、クラスの男子も女子も私のこと特別扱いしないで、学校行くときに家にも朝、誘いに来てくれたし、そんな経験したことなかったからうれしくてうれしくて、その気持ちをお母さんに何度も伝えた。本当は、お母さんが転校しなさいといったのではなくて、私からお願いしたのよ。正太君といっしょに先生の補習を受けることになって、はじめはちょっと緊張したけれど、正太君は、お母さんから聞いていたとおりで、"強く正しくみんな仲良く"、ってこの小学校の教室に張ってある標語のようだなって、ごめんねこんないいかたして」

 正太は、そんな風に言われたことがなかったので、戸惑うとともに、同い年でありながら、自分の意志をしっかりともって考えていることに感心し、それまで多少なりとも史子に抱いていたよその子という印象は一瞬にして消えてしまった。

 正太は自分の母親がどんな風に自分のことを話したのか、いつか母親に確かめてみたいと思った。


 電車通学の沿線には、2カ所に進駐軍の駐留する大きな基地があり、その脇を通るときに見たこともないような大きな輸送機が、電車の屋根をかすめるように離着陸する。

 目の前に迫る巨大な飛行機をみるのことは好きだったが、電車のなかでは「日本は独立しても、駐留軍はなくならないな」という大人たちの会話をよく耳にした。

 小学校2年生のとき、サンフランシスコ講和条約が締結された日に校庭で、戦争に負け駐留軍に占領されていた日本が今日独立しました、という校長先生の言葉とともに児童と集まった父兄もいっせいに万歳三唱をしたことを思い出した。

 それなのに、なぜ独立したのに米軍の星のマークをつけた飛行機が、日本の空をこんなに飛び交っているのだろうか、独立してもまだ頼りないから、助けるためにいてくれるのだろうか、などと、勝手に想像するばかりだった。

 その基地をすぎると終点の駅に着き、そこから電車を乗り換えて一駅目に、正太の通う私立中学校がある。

 史子は、さらに先の駅に行くのだが、毎朝、すし詰め状態の電車から降りるのが精一杯で、声をかけたり、気づかう余裕はなかった。

 電車通学は、楽しくもありそして苦しくもあった。

 やがて、正太とマーちゃんの間にも、変化が生まれていた。

 正太は中学校に入ると同時に、母親にせがんで柔道部に入る許しをえて、マーちゃんはというと小学校時代から得意だった野球部に入った。

 朝は、同じ電車に乗るのだが、帰りは部活動の時間が違うので、滅多に同じ電車になることはなかった。柔道部に比べて、野球部の練習時間は長く、しかもほとんど休みがない。

 日曜日や祭日には、他校との対外試合もありマーちゃんは野球漬けの毎日になった。


突然の引っ越し

 電車通学生活が、間もなく一年過ぎようとする3月、兄が国立大学に合格した。

 大学は、正太が通う私立学校と同じ町にあり、駅前に伸びるまっすぐな道の両側に、広いキャンパスをかまえている。

 ただし、こちらの校舎は専門部とよばれ、それまでは別の町にある校舎に通わなければならない。

 兄が志望大学に通うようになったことで、しずかに引っ越しの計画が進められていた。

 正太は相変わらず蚊帳の外に置かれていたが、さすがにいつまでも秘密にしておけるわけもなく、兄の受験が近づいた、年の暮れに「来年の年末頃に、引っ越すことになった」と、父親から告げられた。

 その引っ越し先とは、正太が通う学校のある町で、土地も学校のそばと決められていた。

 冬休みの日曜日に、通学定期券を持っている正太は、父親に連れられて土地の契約をするのについて行った。

 契約が済み、支払いを済ませた後、その土地を見に行った。

 場所は、正太の中学校と同じ並びで、東寄りに200メートルほどのところだった。

 整地された土地には、看板がぽつんと立っており、周りは松林で南側には、小学校の校庭が広がっている。

 いま住んでいるまちに比べると、家らしい家がなく、お店もなければ、人通りもない。

 まるで生活の匂いがしない。

「さみしいね」と正太がつぶやくと、

「これから、この町は大きく発展するから楽しみがある」と父親は、背筋を伸ばして正太に言い聞かせるように語気を強めた。

 兄の大学入学とともに、家の建築も始まるなか、正太は中学二年を迎えた。

 引っ越すことは分かったが、それがいつなのか正太にはなかなか明かされない。

「正太は、おしゃべりだから、あっという間に町の隅々まで広がってしまうので、おまえには秘密です」と、小さい方の姉の憎まれ口はいつまでたっても止むことがない。

 正太は正太で、いわれていることがもっともだと思えるので、いい返すこともできない。

 マーちゃんの両親には、世話になったこともあり、母親から伝えられたのか、マーちゃんから「正ちゃん引っ越すんだって」ときかれたが、それがいつなのか、もちろんマーちゃんも知らなかった。

 その年の11月の末、正太の一家は引っ越した。

 最後の一日、家の前で家族6人で記念写真を撮った。父母を挟み、左右に学生帽に詰め入りの制服をきた兄と正太が座り、後ろには二人の姉が立っている。

 庭の柿の葉が落ち、実が色づいていた。

 10年間暮らした家は、正太だけでなく家族みんなの思い出がつまっていたが、そうした感傷に浸る時間もないほど慌ただしい引っ越しだった。

「なんだか、夜逃げならぬ昼逃げみたいだ」と小さい方の姉がつぶやいたけれど、誰も笑わななかった。

 引っ越し荷物を積んだトラックには、兄と父が同乗し、残った正太たちは電車で新しい家に向かった。

 引っ越しの当日は旗日で、電車は空いていた。

 電車に乗るときに、そういえば史子に引っ越しのことを伝えないままだったことを思い出したが、新しい家について荷物を整理しているうちに、いそがしさに紛れて忘れてしまった。