2010年10月

おだちん

末っ子

 正太は4人兄弟の末っ子である。

 自分は末っ子で損をしていると、つねづね母親や父親に訴えているけれど真剣にとりあってはもらえない。

 一番上が長女で、正太とは8歳離れている。

 二番目は長男で、同じく6歳離れている。

 三番目の小さい方の姉とは、4歳離れている。

 正太にとってなにが損をしているかというと、お小遣いの金額であった。

 正太以外の兄弟は、月々決まったお小遣いをもらっているが、正太だけは決まっていない。

 なにか欲しいとき、たとえば漫画の本を買いたいときとか、紙芝居をみたいときなんかに、ゆるしが出ると必要なお金を母親からもらえる。

 もちろん、いつもいつもゆるしが出るわけでなく、出ないことの方が多い。

 姉や兄は、毎月25日になると父親の前に正座して、封筒に入ったお小遣いをもらうことになっている。

 正太は、いっしょに正座はするがもちろん封筒すらもらえない。

 「正太は、5年生になるまで我慢しなさい」

 それが母親からの決まり文句だった。

 「私だって、まとまったお小遣いをもらえるようになったのは5年生のときからですからね」と小さい方の姉が釘をさす。

 そんなことはわかっているけれど、封筒の中のまとまったお小遣いが、正太にはことのほかうらやましかった。

 自分のお金を自分の好きに使えることが、まるで月世界にいくほど特別のことに思えた。

 一番上の姉は、地元の中学校には通わず、電車で1時間ほどのところにある国立大学の付属中学校を卒業し、いまは都立高校に通っている。

 兄も姉と同じ中学校に通っている。

 毎日朝早く起き、大きな鞄を抱えて父親とあまり変わらない時間に家を出る。

 小さい方の姉は、地元の中学校に通っている。

 毎月姉や兄がまとまった小遣いを貰うのをみるたびに正太は、早く5年生になりたいと願っていた。

 正太が許しを得てもらえる一日のお小遣いは、5円ときめられていた。

 5円で楽しめるものといえば、お菓子以外では紙芝居しかなかった。

 漫画の本などは、とても5円では足りないので、買ってもらうには、我慢して我慢して母親が認めたときだけである。

 しかし兄や姉は、自分の小遣いで欲しいときに、自分の判断で買うことができる。

 「正太にまとめてお小遣いを上げると、いっぺんに使ってしまうでしょう。お金はお父さんが一生懸命働いて会社からいただくものです。だから、お金の大切さがわかるようになるまで我慢しなさい」

 「お金の大切さは僕にだってわかるよ。無駄なものを買わないようにするし、お姉ちゃんやお兄ちゃんみたいに、いっぺんに貰わないと大切さだってわからないでしょう、おかあさん」

 「ほら、また正太の屁理屈がはじまった。だめなものはだめです。それが決まりです、あきらめなさい」と、小さい方の姉の言葉がチクチクと正太の気持ちを刺す。

 「お金の大切さは、どうしたらわかるの」正太はやり返す。

 「自分で働いてかせぐことね」と姉。

 「お姉ちゃんは働いていないじゃないか」やり返すけれど「だから、お姉ちゃんは5年生まで我慢しました」とやり返されて正太は「それじゃ、おかあさん僕働くよ」とさらに粘りを見せる。

 「どこに勤めるというの、正太みたいな子ども雇ってくれるところなんかあるはずないでしょう」

 「だから、毎朝家の前の道、掃除するし、お買い物もいく」

 「そんなの当たり前。大きいお姉ちゃんもお兄ちゃんも、正太と同じ歳のころにはしてました。ねえ、おかあさん」

 「そうね、正太が一生懸命お手伝いしてくれるなら、ちょっと考えてみようかな」

 「おかあさん、正太を特別扱いするのはずるい」と今度は姉が反発する。

 「さあ、どうかしら。正太がいつまでつづくか楽しみね」

 正太の喜ぶ顔を見ながら、母親と姉は顔を見合っていた。


二軒の肉屋

 正太の家からまちなかの商店街に行くには、駅の方へでなければならない。

 八百屋と豆腐屋は大願寺の前の坂道にあったが、肉屋、魚屋は駅前の商店街にしかないからだ。

 正太が、買い物を頼まれることは、めったにないのでお手伝いするといっても、そんなに回数があるわけではない。

 「今日は、買い物なにかない」と母親の目を見ながらきいたところで「そうねえ、お母さんがさっき買い物すませてしまったし、なにか頼むことあったかしらね」などと軽くあしらわれてしまうことがほとんどだった。

 だからお小遣いを稼ぐチャンスも限れていた。

 「正太、正太、ちょっとお買い物お願いできる?」

 そんな声に、正太はどんなに好きなマンガを読んでいても、あっと言う間に母親の元に馳せ参じた。

 「ちょっとお肉の小間切れを買い忘れたから、買ってきてくれる」

 「小間切れだね、いいよ。どっちの肉屋さん?」

 「そうね、香鳥でもいいし肉松でもいいわ」

 「でも、香鳥のほうが安いんでしょう」

 「そんなこと子どもが気にしなくてもいいの。小間切れなら、どっちのお肉屋さんでも同じです」

 正太は、知っていた。駅の商店街には肉屋が二軒あり、父親のお給料日前には香鳥、お給料が出たら肉松でお肉を買っていることを。

 今日は、まだ月初めだから、肉松かなとは思ったけれど、など気を回している。

 香鳥は電車の線路をわたって、天ぷら屋の黒塀を左にいった先にある。肉松はさらに駅の方に歩き、駅前の太い通りを横切った向こう側の商店街にあった。

 香鳥はどちらかと言えばコロッケやカツがおいしく、肉松の肉は、まちなかの料亭などに卸すほど上等だった。

 店の構えも肉松の方が大きかった。

 「豚の小間切れを100グラム」といわれ、買い物袋と100円玉を一個渡された。

 正太は走った。気になるのは肉の値段である。

 香鳥の前を通り過ぎて、はしりにはしり、肉松の店先に急ぐ。

 ガラスケースの上から、肉末の親父さんが小さな客に気づいて乗り出してくる。

 「ご注文は?」

 「豚の小間切れ100グラム」

 「ほいきた、豚の小間切れ100グラム」

 親父さんは、注文を繰り返すと、手早く経木の皮を広げ、豚肉を乗せて秤に置く。

 「ちょっとおまけして、100と5グラムで75円」

 正太は、やったと思いつつポケットの100円玉を背伸びして親父さんに手渡す。

 経木の端の方をピッと割きそれで手際よくくるくると包むと、乗り出すようにしておつりと品物を正太の持っている買い物袋に入れてくれる。

 「毎度ありがとうございます。気をつけて帰りなさいよ」

 

お駄賃の先払い

 正太が香鳥を通り過ぎたのには、理由があった。

 香鳥のある通りには、香鳥以外にお店がない。それに対して駅近くの商店街には、いろいろな店がある。

 なかでも正太の目当ては、肉松の二軒隣にあるアイスクリームを売る駄菓子屋だった。

 正太は、お店の中に入ると、奥の方に座っているおばさんに小さな声で「アイスクリームください」と声をかけた。

 おばさんは、空色をして細長い筒のふたを取り、手にしたスプーンのようなものを中に入れて、アイスクリームをすくいとると、もう片方のてにもっている白い最中の皮の中に移しその上から、もう一枚の最中の皮でふたをする。

 「はい、アイスクリーム10円」

 正太は25円のおつりから10円を払って、アイスクリームのつまった白い最中を受け取った。

 駄菓子屋の店先で食べようかと思ったが、母親に頼まれていた買い物を思い出し、食べながら帰ることにした。

 商店街を出て、広い駅前の道路を渡る。

 ちょうど電車が着いたのか、駅の建物の方からぞろぞろと人が出てくる。

 正太は、アイスクリームの甘さと冷たさと香りに夢中で、人がそばにきたのにも気づかなかった。

 「おやぁ、正太じゃなーい」

 声をかけられて正太は、心臓がきゅんと縮むほどどきっとした。

 声の主はいちばん苦手にしている、小さい方の姉だ。

 「アイスクリームなんか食べちゃって、それって買い食いじゃないかな」

 声は、魔法使いのおばあさんのように不気味でそして、悪意に満ちている。

 「あ、お姉ちゃんどうして、駅の方にいるの」

 「あらぁ、お姉ちゃんが駅からでてくるとは思ってなったのようねぇ」と、わざとらしく語尾をのばす。

 「だって、学校に行っていたんじゃないの?」と正太もなんとかやり返す。

 「いま夏休みでしょう。友達と隣の駅まで映画を見に行っていたのよ、それより正太、そっちの買い物袋、お母さんに買い物頼まれたんじゃないの?お母さんが、アイスクリーム食べていいっていったの?」

 もう、万事休すだった。

 そこで正太は思わず「お姉ちゃんもアイスクリーム食べる?」と食べかけの最中を差し出した。小さい方の姉にも食べさせてしまえば、という気持ちがないわけではなかったが、正太はなんとか急場をしのぎたい気持ちがあった。

 「正太、私を買収しようというの、その手には乗らないからね」と捨てぜりふを残すと、姉はとっとと足を早めて家に向かってしまった。

 買収という言葉の意味は分からなかったけれど、とんでもない悪いことをしたような後ろめたさを感じたが、正太はもう取り返しのつかないことを言ってしまったと、その場に立ち尽くしたまま手にしたアイスクリームが溶けるにまかせていた。


小遣い帳

 行きは元気に走ったが、帰りはとぼとぼとと、できる限りゆっくりと時間をかけた。少しでも家につく時間が遅くなればいいと思ったが、どっちにしても帰らなければならないことに変わりない。正太はあれこれいいわけを考えながら、小さな脳味噌でそれでも精一杯の理屈を組み立てた。

 台所の引き戸を開けると、腕組みをした小さい姉がたって待ちかまえていた。

 その後ろでは母親が背中をむけて、夕飯の支度をしている。 

 「ほら、お母さん、私をアイスクリームで買収しようとした正太少年のお帰りです」 

 これ以上ないというほど、嫌みたっぷりの態度だった。

 「ボク、買い物をお手伝いしたおだちんを先にもらっただけだよ」

 これが正太が精一杯考えた、いいわけだった。

 「ほう、そうですか。お買い物したら、おだちんもらえるということを自分で決めているんだ。お買い物が終わって、お母さんにちゃんとお釣りを渡して、それからどうするかを決めるのはお母さんの役割で、正太が勝手におだちんをもらっていいなんていつ決めたの?」

 正太は、ますます自分の立場が悪くなったと感じた。

 「正太、お姉ちゃんのいうことが正しいでしょう。アイスクリームが食べたかったらお母さんにちゃんとお願いしなさい。おだちんの先払いなんて勝手なことを言ってはいけません、わかりましたか」

 「はい、お母さんごめんなさい」

 正太は素直に謝るしかなかった。

 それにしても、何で今日に限って、駅前で小さい姉にあったのだろうかと、まだ正太はその偶然を悔やんでいた。

 「でもお母さん、お肉屋さんで75円のお肉買って、おつりが15円じゃあおかしいでしょう。正太はきっとお肉が85円だったと、言い訳するつもりだったんじゃない」

 あっと、正太は思った。

 そういわれればそうだ。早かれ遅かれ、嘘をつかなければならなかったんだと、正太はその瞬間、背筋がゾクゾクと寒くなった。

 「お母さんは、正太は正直にアイスクリームに10円使ったといったと思うわ。ねっ、正太」

 「うん」と弱々しくうなづく。

 「お母さんは正太にあまいんだから。私を買収しようとしたんだから、正太はこの世の中でいちばんずるい少年です」 

 なんと言われても、正太はじっと我慢するしかない。

 「お姉ちゃん、もうそれくらいにしておきなさい。正太は十分こたえているから」

 その日の夜、正太は父母に呼ばれた。

 最初は、お釣りで勝手に買い食いしたこと、そして小さい方の姉を買収しようとしたことについて、しっかりとしかられたが、その後で二人から思いがけない提案があった。

 「ちょっと早いけれど、今月から正太にも、毎月決まったお小遣いを上げることにしました」

 「お小遣いの額は、200円です。そのうち、40円はお父さんが買ってきてくれる少年雑誌に払いなさい。のこりの160円で、毎月正太の責任で使いなさい。わかりましたか」

 その月の父親の給料日に、正太は兄弟みんなと正座して、茶色の封筒に入ったお小遣いを初めてもらった。

 翌日、正太がさっそく買ったものは、小遣い帳だった。

 最初の一行には、お小遣いをもらった日付と200円、そして小遣い帳の代金20円を差し引いた180円が、残高のところに記入された。


正太のお父さん その3

女優 北原三枝

 正太は、子ども部屋でマンガ雑誌を読んでいた。

 茶の間では、夕食の後かたづけも終わって、正太以外の家族が、ラジオ放送を聞いている。

 ときどき笑い声が聞こえるので、落語でも聞いているのだろう。

 正太は、父親が買ってきてくれた雑誌「少年」に釘付けになっている。

 月に一回の楽しみで、この雑誌で一ヶ月は楽しまなければならない。

 全部読んでしまいたいけれど、そうすると楽しみがすぐ終わってしまう。

 でも、楽しいことはすぐにでも楽しみたい、それがいまの正太の悩みだった。

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 雑誌「少年」にはマンガ以外にも付録やプレゼントのついたクイズなどが、盛りだくさんだったけれど、クイズに応募するにははがき代もかかるし、母親にそれをねだっても、「どうせ当たらないからムダ、ムダ」という小さい方の姉の憎々しい言い方が頭に浮かんで、とたんに気持ちが萎えてしまう。

 「やってみなければわからないだろう」と正太が言い返しても、「いままで一回だって当たったことないでしょう」とやり返されて、それで一巻の終わりだった。

 なにやら、茶の間の方で、一段と大きな声があがったので何事かと正太は、子ども部屋を飛び出し、台所を抜けて茶の間の障子を開けた。

 「どうしたの?」正太は一段高くなっている茶の間に上がり込んで、ちゃぶ台の周りに集まっている家族の輪に加わった。

 ちゃぶ台の上に一枚の写真があった。

 正太は目を凝らして写真を見る。

 「あっ、お父さんだ」

 正太は最初に父親に気づいた。

 その次に、父親の左となりにいる女性に気づいた。

 女性は、前髪がくるっと巻いていて、服装はがま口先生のような襟のある上着で、スカート姿だった。スカートから伸びる二本の足は細く長く斜めになっていて、足先には黒っぽい靴を履いている。白黒写真だから色はわからない。

 でも、色白のその女性は、目がきらきらとしており、日本人なのに日本人ではないような、正太にとってはじめて見る美しい女性だった。

 「お父さんの隣に座っているこの女の人はだれ?」

 正太の声はうわずっている。

 「北原三枝という女優さん」

 北原三枝という女優さんの顔をあらためて見たとき、「ノンちゃん雲に乗る」鰐淵晴子より、「紅孔雀」の高千穂ひづるより、角衛獅子の美空ひばりより、お姫様女優の千原しのぶより、誰よりも美しいとおもった。

 正太の美しい女性の基準がいっきに崩壊してしまった。

 顔立ちはまるで外人のようで、特におでこでくるっと巻いている髪の毛がとてもおしゃれだった。

 「正太、正太どうしたの、目が開いたままよ。大丈夫?気を失っているんじゃないの。まったく、きれいな女優さんをみたぐらいで、いちいち驚かないの」

 小さい方の姉が、いつものように正太の気持ちに、めざとく気づいてからかう。

 「だって、ボク、こんなきれいな人見たことないもの」

 「バカだね。お姉ちゃんだってきれいでしょ。正太の大好きなお母さんだってきれいじゃない。女優さんなんて、夢の夢の存在、どんなにきれいでもスターは遠い存在だから意味があるの、わかった?」

 わからない、どんなにいわれてもわからない。

 正太は、父親の隣に座っている女優に目を奪われ、上の空になっていた。

 「お父さん、正太にあまり見せると、夜眠れなくなるといけないから早くしまって」

 母親までが笑いながら、写真を父親に返す。

 

 お父さんが映画に出た?

 「お父さん、なんで女優さんといっしょにいるの?」

 正太は、のどがからからに渇いている。

 こんなきれい女の人といっしょに写真に写っていることが、正太にとっては天にも昇るような気持ちだった。

 「お父さん映画にでたの?」

 「ほら、お父さん早く説明しておかないと、明日には町中で、お父さんが映画に出たことになってしまうから」

 大きい姉が、笑いながら父親をうながす。

 「正太、この前お父さんの勤める会社にきただろう。あのとき、会社の入り口をみてどう思った」

 「かっこいいと思った。ガラス張りで、なんていうかものすごくモダンな感じがした」

 「えっ、正太、モダンなんて言葉知ってるの?」

 「だって、マンガで読んだもん」

 「ふーん、どういう意味か知っているの?」

 「そんなの、モダンはモダンでしょ」

 「お姉ちゃんもいじわるしないの。そうお父さんの会社の入り口はモダンだったね」

 母親が助け船をだす。

 「映画会社から、お父さんの会社の入り口を撮影に使わせてほしいってお願いがあったんだって」

 兄が説明する。

 「撮影の日は、役者さんや監督やカメラマンなど、30人ほどの人がきて、大変だった。入り口付近での撮影がほとんどだったけれど、町を歩く人が立ち止まって見ているので、その整理で大騒ぎになって、やはりきれいな女優さんは人気がすごかった」

 「お父さん、えーと北原三枝って本物はどんなだった?」

 「どんなって、うーんきれいな人だったよ」

 「お話ししたの?」

 「ああ、この記念写真を撮ったときに言葉をかわしたかな」

 「どんな声してた、きれいな声してた?」

 「どうだったかな、なにしろ緊張してたから」

 「お父さん、女優さんの隣にいるちょっと口が曲がった人は誰?」

  正太は、写真を指さしながら聞く。

 「これは監督の川島雄三さんという人だ。すごく有名な監督だそうだ」

 「監督の隣はだれ?」

 「それは、お父さんの会社の支店長さんです」と母親。

 「そうか、この後ろにいる、かっこいい人は?」

 「それは、三橋達也」と小さい方の姉が得意そうにいう。

 「お姉ちゃんは、二枚目に詳しいね」

 「生意気言わないの。三橋達也はいますごい人気なんだから。子どもの映画ばかり見ている正太には、縁がないでしょ」

 その映画の題名は、「愛のお荷物」だった。

 正太が、その映画を観ることはなかった。

 その日の夜、正太は北原三枝の顔を思い浮かべて、あんなにきれいな人が、この世の中にいることを不思議に思いつつぐっすりと眠った。