2010年8月

あんま釣り

川遊び

 川は泳ぐためにある、と正太は思っていない。

 川は夏休みの遊び場である。泳げるようになるのは、そこに水が流れており、その流れにうまく乗れないと遊べないから、身につけるだけである。

 泳げないと川遊びの仲間に入れてもらえないので、子どもたちは必死になって見よう見まねで泳ぎを覚える。

 どんなにうまく、そして早く泳げたとしてもプールのように早さを競うこともない。流れに身をまかせて、おぼれない程度に楽しく過ごせればそれでいいのだ。

 そもそも、正太のまちにはプールなんてものはどこにもなかった。

 だから泳ぎを競うこともなかった。

 

 ところで川遊びにはいろいろある。

 金槌でないかぎりさまざまな川遊びを楽しめる。

 それこそ、朝から晩まで。

 いちばんの冒険が、大きな浮き輪につかまっての川下りだろう。

 大きな浮き輪といっても、まちのおもちゃさんなどで手に入るものではない。

 それは、アメリカの駐留軍から払い下げられた、大型輸送機のタイヤのチューブでできている。

 とてつもなく太く、表面がつるつるしている。

 色は緑がかった灰色で、ところどこにパンクを修理した跡がある。

 チューブの回りには、細いロープが網のように巻き付けてある。チューブのまわりに正太たちがとりついて、このロープを手でつかんで、流れに身を任せるのだ。

 もちろん子どもたちだけで遊ぶことはできない。

 いつも、大人や遊びなれた中学生がいっしょだ

 小学校の下級生が、チューブに乗るときには、真ん中に入れてみんなで面倒を見なければならない。流れはまっすぐではない。蛇行する川は浅いところや深み、急な流れやゆったりとした淵もある。

 正太たちは、チューブのロープをつかみながら、急な流れに身を任せて、ぐんぐんと川を下る。とくに淵のところは足もつかず恐怖心が募る。しかも、淵は大きくえぐられて深みなっており、岩場のほうに流されたものは淵の岩にぶつからないように手や足で押し戻さなければならない。

 淵をやり過ごすときには、みんなで力をあわせて、大きな声で励ましあう。


つり名人

 太いチューブでの川下りは、いつもいつも楽しめるわけではない。たまたま同級生に親がチューブの浮き輪を持ってきて、さらにたまたま同級生が正太を誘ってくれるという幸運がないと、楽しむことはできない。仲間に入れてもらえなかったとき、正太は普段から友達を大切にしておかなければならないな、と思うのだった。

 いちばん人気の川遊びから漏れたからといって、まだ楽しみはいろいろある。

 川遊びには名人がいる。泳ぎの名人、飛び込みの名人、潜りの名人、そして釣りの名人だ。

 同級生にも、それぞれの名人がいたが、釣りの名人はなんといっても、川のそばに住んでいるふくチャンだと正太は思っている。

 ふくチャンの父親は、織物の染色工場で働く職人で、町でも有名な鮎釣りの名人だった。

 そんな父親について小さい頃から川に親しんできたふくチャンは、背丈こそそんなに大きくないが、運動神経抜群ですばしっこい。

 そんなふくチャンは、夏になると釣りばかりしていたこともあって、泳ぎの方はあんまり得意ではなかった。同級生がチューブにぶら下がって川下りしているときにも、ふくチャンは川に釣り糸を垂らし、まるでチューブ下りには無関心だった。

 ふくチャンとは1、2年生のときに同じクラスだったが、その後はクラスが変わって、通学路が違う事もあってほとんど言葉を交わす機会がなかった。

 フクちゃんとの再会は川だった。

 正太は、その日も昼ご飯がわりのトマトをもって、川にいったが、いつもの仲間の姿がない。誰かいないかと見つけていた視線の先に、川の中に立っているひとりの小柄な小学生がいた。その子が、手にしている細く長い釣り竿をあげるたび夏の強い光に銀色に輝く魚がつぎつぎにつり上がってくる。

 魚釣りをした事がない正太にとって、それは魔法のような不思議な景色だった。

 そしてやがてその小学生が、2年生まで同じクラスにたふくチャンだと言うことに気づいた。

 ふくチャンの名字は福田といった。でも同級生はみんなふくチャンとよんでいた。

 「ふくチャン、なに釣ってるの?」

 正太は、川の中に入ってふくチャンのそばまで行って声をかけた。

 「なんだ、正チャンか。ハヤだよ」

 顔をちょっとだけ正太の方に向けて、すぐにまた釣り竿の先に目線を送る。

 ふくチャンが竿を軽く引くと、また銀色の魚が糸の先で踊っている。

 同級生がまるで大人のように魚を釣り上げるのを、まぶしく見つめていた。

 「正チャンもやってみる?」

 思いがけない一言に、正太の心はうれしさと期待が、夏雲のようにもくもくとわき上がる

 「できるかな、ボクやったことないし」

 「誰だってできるさ」

 といいながらふくチャンは、竿をもったまま河原にあがる。正太も後をついていく。冷えた足の裏に焼けた石が熱い。

 「正チャンは初めてだから、あんま釣りからはじめるといいよ」


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 ふくチャンは自分の荷物をおいてあるところにいくと、一本の短い竹竿を取り出した。

 「ボクの竿は、長くてなれるまで難しいから、この竿でやるといい」 

 ふくチャンが正太に手渡してくれた竿は、長さが正太ほどの背丈しかない。ごつごつとした節のある竹で、先の方は心細いほど細くなっている。

 「仕掛けは、いまボクがつくってあげるから」といいつつ、ふくチャンは木箱からいろいろと取り出すと慣れた手つきで糸を竿に結びつけ、はさみで糸を切ったり、その先に針を結んだりてきぱきと準備をする。

 正太は、ふくチャンの器用な指先をじっと見つめていた。

 「正チャン、竿の先についている長い糸はミチ糸、このミチ糸についているこの鉛がおもり、そしておもりの先についているのがハリスで、ハリスの先っぽについているのが釣り針だ」

 フクちゃんは短い竿の手元を握り、釣り針のさきを親指と人差し指で挟みながら、正太に説明する。

 ふくチャンの話していることを正太は、まったく理解できないでいた。

 それよりなにより、学校ではどちらかといえば目立たない影の薄いふくチャンが、こんな難しい言葉をどこで覚えたのだろうか、と感心することばかりだった。

 「この釣り針の先につけるのは、サシという餌だ」

 ふくチャンは、腰につけている小さな木箱のふたをずらして、中から小さくて白いぐにゅぐにゅ動くものを取り出す。それは正太の家の便所でよく見かけるウジ虫と同じ形をしていた

 「それってウジ虫でしょ」正太は思わず声をあげてしまった。

 「便所のウジ虫じゃなくて、釣りの餌用に売っているんだ」

 ふくチャンは正太の声に反発するように、言い返す。

 「これを釣り針に刺して正チャンいいかい、こうして竿を下に向けて」

 ふくチャンは河原からちょっと水に入って、流れにそって竿先を下に向けた。

 「ほら、釣り糸が流れいくだろう。そうしたらこうして前に歩きながら竿を前後にゆっくりと動かしていく。このかっこうが、あんまさんが杖をついている姿ににているので、あんま釣りというんだ」

 すると、ふくチャンが竿を軽くあげた。

 「ほら釣れた、なっ簡単だろう。誰だって釣れるよ」

 正太は糸の先に光る魚を、まるで手品でも見るように瞬きもせずに見つめていた。

 ふくチャンはそれが当然というように、釣った魚を腰にぶら下げている網の中にいれる。

 釣りのことをなにも知らない正太のために、ふくチャンは先手をうつように、びくの中を見せてくれた。

 びくの底は卵形のブリキがついていて、中には無数の魚が元気に泳いでる。

 「ふくチャン!これ全部自分でつったのか」

 「そうだよ。さ、正チャンもやってみな」

 ふくチャンは手にした竿を正太に渡すと、自分の竿をとりに河原に上がる。

 正太は、見よう見まねでふくチャンがしていたように、流れに糸を流した。

 「正チャン、餌はついているかい。餌がついていないと魚は釣れないから、竿をあげてみて」

 竿をあげると、針にはなにもついていない。

 ふくチャンは、自分の餌箱からサシをとりだして、正太に手渡す。

 「自分でつけてみて。針先をサシのとんがっていない方から刺すんだ。とんがっている方は頭だから、そっちから刺すとサシはすぐに死んでしまうからね」

 正太はふくチャンが先生のように思えた。

 何でこんなに釣りのことを何でも知っているのだろう。

 正太はくにゅくにゅとうごめく白い小さな虫を言われたとおりに、なんとか針に刺した。

 足を洗う流れに乗せるように、正太は再び糸をおろして、ゆっくりと前に歩きながら竿を前後に動かす。

 「正チャン、ゆっくり川の中の石にそうように糸を流してみて。おもりが川の底をはうようにするんだ。おもりが浮き上がると魚は釣れないから」

 正太は川底に見える石の間に竿先がふれるようにする。

 そのときだった、竿を握る手にいままでいちどもあじわったことがない、ぶるぶるという奇妙な動きを感じた。

 「ふくチャンなんか、手にぶるぶるっってきた」

 「正チャンそれは魚のあたりだ。竿あげてみな」

 正太はおそるおそる竿をあげる。すると竿がぐんと重くなっていた。さらに竿を持ち上げると、流れの中から銀色の魚がぴょんと跳ね上がる。

 「正チャンやったね」

 ふくチャンは、うれしそうに笑った。

 正太は、なぜ魚が釣れたのか分からなかったが、ふくチャンは間違いなく釣りの名人だと思った。

 初めて釣りをする自分が、たった一回で、川の中にいる手では捕まえることができない魚を、釣り上げることができたのだから。

 翌日、正太は母親にねだって、ふくチャンの貸してくれた釣り竿と糸や針、そして餌箱、魚籠を釣り具屋さんで買ってもらい、自分で仕掛けをつくり、あんま釣りに夢中になった。

 その夏の終わりまで、ふくチャンが釣りをしているそばには、いつも正太の姿があった。


井戸さらえ

大願寺前の坂道

 8月のお盆の日曜日というのに朝早くから、大願寺前の坂道に町内の人が大勢繰り出していた。

 大人たちに混じって子どもたちも、なにをするでもなくあたりをうろうろしている。

 正太は、同級生のかっちゃんの父親である、おけやおじさんの脇に立って大人たちの話に聞き耳を立ている。

 かっちゃんの父親は、家業のおけ屋を営んでいたが、仕事をするのは週に二日ほどで、普段は電車で20分ほどのところの町にある、アメリカ駐留軍の基地で働いていた。上下ともカーキ色の服を着て、頭には同じ色の帽子をかぶっている。

 仕事に出かけるときと同じ服装で近所の人と熱心に話し込んでいる。

 「今年は、ことのほか梅雨が長かったから、水の汚れはどうなのか」とか、「水の量がいつもの年よりも多いようなので、かい出すのに時間がいるな」とか「そろそろ神主さんもくるころだろう」とか、立ち話が続いていた。

 「正チャン、井戸さらえみるの初めてか?」

 といつの間にかそばにきていたかっちゃんが、正太に聞く。

 「井戸さらえってなに?」

 「そうか、正太のうちは水道だから知らないか」

と、かっちゃんの父親が、大きな口から真っ白い大きな歯をのぞかせながら言った。

 「井戸さらえというのは、井戸の大掃除のことだ」

 「井戸の大掃除ですか」正太はびっくりして思わず聞き返す。

 「豆腐屋の裏に、大きな井戸があるだろう。あの井戸の水をこれから、みんなできれいにするんだ」とかっちゃんが説明が続く。

 「もうすぐ始まるから、子どもたちも手伝ってくれ」

 「そうだ、夏休みで遊んでばかりじゃだめだ。たまには大人たちの手伝いもしろ」と、大人たちが笑いながら子どもたちに声をかける。

 「手伝ってくれた子どもにはお駄賃あげるぞ」

 井戸さらえとお駄賃、こんな魅力的な組み合わせはない。

 正太はいの一番に手をあげた。

 「よし、正太には桶で井戸からくみ出した水を運んでもらおう」

 子どもたちは、正太に続いて次々に手をあげる。

 町内のほかのおじさんたちは、地下足袋を履き、パッチ姿で頭にははちまきをきりりと締めて勇ましい。

 女たちは、女たちでみんな白い割烹着を身につけ、頭には手ぬぐいはかぶっている。

 ざわざわとしたにぎわいが、かっちゃんの父親の大きな声でしんと静まる。

 「今日の手順について説明しておきます。井戸の中にはわしとケンジロウさんが入ります」

 ケンジロウさんと呼ばれたおじさんが一歩前に出て、軽く頭を下げる。豆腐屋のおじさんの名前がケンジロウさんあることを正太は初めて知った。

 「神主さんは、もうすぐおいでなると思いますが、お祓いが済み次第、すぐに作業にとりかかります。まあ、いつもの通りなら、お昼頃には水の汲み上げた終わって、昼飯の後、掃除して小石を敷き終わるのが、3時頃でしょう。くれぐれも事故を起こさないように、慎重にやりましょう。それではお願いします」

 かっちゃんのおじさんの言葉に、回りのおじさんおばさんが「お願いします」と声を合わせた。 


長屋の人々

 大願寺の坂に沿うように二軒の長屋があり、坂道に面した一軒には豆腐屋と八百屋そして桶屋などお店が入ってる。もう一軒はその裏に平行するように建っている。間に通路があり、真ん中の広場にその井戸があった。4本柱に支えられたどっしりとした屋根がつけられていて、天井の梁につけられた滑車から太いロープが下がっていてる。井戸の周囲は黒光りする石が敷き詰められていた。

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 子どもたちの遊び場にもなっていたが、長屋二軒の生活を支える井戸でなので、子どもたちが井戸にいたずらしないように、大人たちが常々口やかましく注意していた。

 正太は、豆腐屋のおばさんから、うちの豆腐がおいしいのは、この井戸水のおかげと聞かされていたので、井戸がとても大事なものであることは、よくわかっていた。

 大きな井戸で、上からのぞくと自分の顔が底の水面にうつり、大きな声で叫ぶと、こだまするように響く。

 長屋に人たちは、大人も子どもの井戸の回りをいつもきれいにしていた。

 その井戸に今日は、注連縄が張られまるでお祭りの準備をしているようだった。

 神主さんのお祓いが終わると、かっちゃんのおじさんとケンジロウさんが、家に帰り、しばらくすると、真っ白いふんどし締め、頭には鉢巻をして戻ってきた。

 二人とも、がっしりとした体格で、ふんどし姿が勇ましく、正太はこれからなにかすごいことが始まるなという、期待で頭も心臓も否応なしに膨らんだ。

 ほかのおじさんやおばさんは、手に手にバケツや桶を持っている井戸の回りを取り囲んでいる。

 かっちゃんのおじさんとケンジロウが、井戸におろした木製のはしごで井戸の底におりる。

 先に入ったかっちゃんのおじさんは、小さなろうそくをもっている。

 「ろうそくで、井戸の底にガスがたまっていないかどうか確かめるんだ」正太の耳元でかっちゃんが囁くように話す。

 「井戸の底のガスを吸うと父ちゃんが死んじまうからな」こともなげにいうかっちゃんの言葉に正太は、ぶるっと身震いする。

 そしてかっちゃんは大人の世界の事を何でも知っているんだと、感心した。

 「ウオー冷たくて気持ちいいぞ」井戸の底から響いてくるかっちゃんのおじさんの声を合図に、いっせいに井戸の中にひもでつられたバケツがおろされる。

 そして、水を一杯にしたバケツがつぎつぎに引き上げれてきた。

 バケツの水は、子どもたちがもっている小さめのバケツに入れ替えられ、そのバケツを子どもたちは、よっこらしょっと持ち上げ、電車の線路脇にある石を敷き詰めた下水道まで運び流し込んでいく。

 井戸の水は冷たい。飲みたくなるほどきれいだが、今日は飲んではいけないとあらかじめ注意さていた。

 汲めどもつきないほど、バケツは何度も何度もおろされ、正太たち子どもは、一生懸命手伝いをする。終わればお駄賃が待っている。今日は、川遊びも満願寺の庭での野球もまったく関心がない。

 豆腐屋は、大願寺の坂に面して玄関があり、店は裏側にあった。一日中、陽がさすことのない、狭い路地に面してお店がある。正太は母親から、どんなまちでも一番早起きは豆腐屋さんだとつねづね聞かされていた。

 兄が学校の友達とキャンプなどにいくとき、万が一夜中に困ったことがあったら豆腐屋さんに助を求めなさいとよく言っていた。

 だから豆腐屋のおばさんはいつも眠そうな顔しているのかと、正太はおつかいで豆腐を買いに行ったときに、本人に面と向かって言ったことがあり、あとで母親から大きなげんこつをもらった。

 井戸の中から次々に水が汲み上げられてくる。その水を子どもたちのバケツに移しかえる。子どもたちは重いバケツをそれでも、必死になって電車の線路脇の水路に流す。

 最初の頃の水は濁りがあったが、繰り返すうちにだんだん澄んできた。運ぶときに手足にかかる井戸水は冷たくて気持ちがいい。はしゃぎながらも子どもたちは、大人の仕事を手伝うということに、大きなよろこびを感じていた。

 正太もその一人だった。

 長屋のおじさんもおばさんも子どもたちも、みんな心一つにして、井戸をさらう。正太は、長屋に住んでいる人たちがまるで一つの家族のような気がしていた。

 「かっちゃんは、こんな大きな家族がいて幸せだね」と正太。

 「ああ、正太だってこうしていっしょに手伝っているから家族と同じだ」とかっちゃんが大きな声で答える。

 「そうだ。正太も長屋のみんなのために、手伝ってくれているのだから、家族と同じようなもんだ」

 その声に、ほかの大人たちも笑顔でこたえている。

 予定通り3時頃には井戸さらえは無事に終わった。正太たちこどもはお駄賃にお菓子などをもらった。だが、正太にとっては、あの大きな長屋の家族になれたということが最高のお駄賃だった。そして、その日の絵日記に、井戸さらえする長屋の大人たちと子どもたちをことをしっかりと書き残した。