それからの正太
高校生活
小学校生活を過ごした町から、引っ越しをして、新しい町で新しい生活をスタートした正太は、高校生になり、大学受験を経て、社会人の道を歩くことになる。
正太は、人並みにいくつかの転機を迎え、幾度かの挫折を、出会いと別れを味わってきた。それらは、誰もがくぐり抜けるなければならない時間であり、また前に進むために歩き続けなければならない、道だった。
ただ、その道が平坦であったかどうかはそれぞれの思いようであり、また避ければすむことを、あえて避けずに歩き続けたことによってうまれた蹉跌もあった。
前にも書いたが、正太の入学した私立学校は、中高一貫教育の男子校だった。
中学三年が終了するとそのまま無試験で、エレベータ式に高校に上がり、二年になると文系、理系の進学コースを選ぶことになっている。つまり、中学受験は経験したが、高校受験は必要なかった。正太は、ちょっと得したような気分になったが、文系、理系のどっちを選ぶかとなると、理科と聞いただけでめまいを感じるほど不得手にしていたので、二者択一では、文系しかない。
この私立学園は、高校二年終了までに、高校教育の単位を取得できるカリキュラムを組んでおり、高校三年の1年間は大学受験のためあてることになっている。
そのために、三年生になると大学受験の準備で、野球部などの一部を除いて部活動は、事実上停止となってしまい、高校生活をフルに楽しもうと心に決めていた正太は、ともに時間をすごす同級生がいなくなった。
誰もが、受験に追われ、模擬試験に一喜一憂し、塾通いを日常として、遅刻早退は当たり前で、学校に顔を出さない同級生も多かった。
正太は、塾に通うことはしなかったが、模擬試験は親の目もあるので受けていた。
どこの大学を受験するかという確たる考えもなく、模試の結果も思わしくないことから、開き直って、浪人覚悟で最後の高校生活を過ごすことにしていた。
年が明け、形ばかりの3学期が始まると、受験本番の2月には、教室に顔をだす同級生はいっそうまばらになった。
正太は、難関私立のひとつであるW大学の一学部のみを受験することにした。その学部を選んだ理由は、おぼろげながらではあるが、自分の将来やりたいことに近いかなという程度のことだった。もちろん、合格の自信などまったくない。
同級生がつぎつぎに志望校や滑り止めに合格したということを知っても、とくに焦る気持ちもなかった。
W大学の一次の筆記試験が終わった日、さあこれで浪人生活の準備をしようと、気持ちが吹っ切れたように帰宅すると、母親が「F君がK大の法学部に受かったんですって。いま、お母さんから電話がありました。あなたからもお祝いの電話をしておきなさい」
母親はもう、正太の合格はとっくにあきらめていたので、同級生のK大合格をうらやむ気持ちすらないようにさばさばしている。
「へえ、あいつやったなあ。ところで今日の一次試験は模擬試験の延長みたいなもので、来年がんばりますから」とだけいうと二階の自室への階段を上る。
「まだ、結果はわからないのでしょう。F君みたいに受かっているかも」
「ない、ない」
背中に母親の声を聞きながら、正太は右手を大きく振った。
夕食前に正太は、Fに電話をする。
受話器の向こうで、Fの母親の元気で機嫌の良さそうな声が響く。
正太が名前をつげると、「あらあ、正太君。今日W大の試験どうでした」
と、正太のことを気にしている様子だった。Fから聞いていたのだろう。
「まあ、僕はもうあきらめていますから。それよりF君おめでとうございます」
と電話で話しつつ、正太の母親から聞いたときから、正直なところ、なぜFが難関のK大に合格できたのか、不思議な気持ちがした。
決して、彼の能力が劣るというのではなく、入学試験の二三日前に教室で会ったときに「K大は僕の父親出身校で、なにがなんでも合格しろといわれているけれど、いまの成績では無理だって、先生もいってるし、実力がないのは誰よりも自分がいちばんよく分かっている。R大とかA大ならなんとかなりそうなんだけれど」と正太に気弱な面を見せていた。
「やってみなけりゃ分からない。当たって砕けろだろう」と励ましにもならない言葉をかけるのが正太のできる精一杯だった。
こんな役に立ちそうもない励ましにも、「ありがとう。正太君にそういわれると気持ちが楽になる。君は、いいなあ。うらやましいほどあっけらかんとしていて、度胸があって。お互い浪人することになったら、いっしょに予備校へ通おうね」と、右の頬にいつものえくぼをつくって笑った。
なにいってやがる、合格の可能性が少しでもあるから、心配なんだろう。こっち端っからなんにもないから、なんとでもいえるだけなのさ、と心の中でつぶやいた。
そのFが第一志望校に受かったというのだから、Fには悪いと思ったが、意外な気持ちを隠せなかった。
「ああ、正太くん」いつの間にか電話は本人に換わっていた。
「よう、やったじゃないか」
ちょっと声がうわずった。
「正太君にいわれて、当たって砕けただけだ。本当にありがとう、あの言葉で僕は、気持ちが座ったような気がする」
そうか、本当に良かった、すこしでも自分が役に立ったことを素直によろこんだ。
「今週、お父さんとお母さんと、旅行に行くけれど、土曜日には家にいるから、どこかで会わない。正ちゃんがだめというのなら、電話を必ずしてくれないかな」
「おう!その頃は俺の浪人生活が始まっているだろうから、まあ、幸せいっぱいの君に会うのは、来年の受験後にしよう。必ず電話するからな」
と、ほかのクラス仲間の受験結果などの話をしながら、電話を終えた。
Fは大手の化学製品会社の役員をつとめる父親と、教育熱心な母親との間に生まれた一人っ子だった。
中学一年の時に、同じクラスで母親同士がPTAの役員をしていた関係で親しくなり、Fはしばしば学校の帰りに正太の自宅に寄り道し、夕食をいっしょに食べることもあった。
遊びにきた日の夜は、話しぶりが上品だとか、正太とは性格が正反対で気持ちの優しい子だとか、自分の子どもに遠慮もなく、母親はFを褒めちぎる。
思わず、育ちの良さは、家庭できまるんだと、憎まれ口の一つも叩きたかったが、正太も彼の素直で透明な性格を好ましく思っていた。
Fの自宅に遊びにいくこともあったが、そんな時に彼の母親は、「一人っ子で甘えん坊だから、正太君せいぜい鍛えてあげてください」と、いわれたものだ。
そうしたつきあいも、中学校までで、高校に上がってからはごく普通の友人つきあいに変わっていった。それでも、受験を前に立ち話で、自信がないと本音をこぼしたのは、Fにとって中学時代の友だち意識が、正太が感じていたよりも深かったのかもしれない。
予期せぬ知らせ
一次試験の合格発表は、見るまでもないと思っていたが、発表の帰りに予備校の入学手続きをするついでの気持ちで見に行くことにした。
正太の受験番号は、なかった。
予定通り、予備校の入学手続きをすませて、正太は帰宅した。
週が明け、正太は、前の週の土曜日にFに電話する約束を忘れていたことを思い出した。
あちらはK大の合格生、こちらは天下晴れての浪人生。
電話を忘れていたというよりも、頭の隅っこに、大学合格をめざして、受験テクニックを習得するつまらない毎日がこれから一年間つづくことへの憂鬱さが、他人に思いをはせる余裕を奪い去っていた、というのが正しいだろう。
週明けの月曜日、正太は、茶の間にある掘りこたつに座り、予備校からもらってきたガイダンスに目を通していた。
家の中には正太と母親の二人だけだ。
父親の書斎にある電話が鳴っている。
「正太、電話に出なさい」と二階から母親の声がする。
正太は、ぬくぬくとした掘りこたつから、抜け出す気にならない。
「母さん出てよ」と大声を上げる。
「もう、しょうがないわね」とぶつぶつ言いながら、書斎のドアを開く音が聞こえた。
一分も経たないうち、書斎から茶の間にスリッパの音をぱたぱたさせながら、母親が慌ただしく走ってきて、障子を開く。その顔は、目が大きく見開かれ、なにか見てならないものを見たときのような驚きに満ちていた。
「正太、大変よ。昨日、F君が亡くなったって」
こたつ掛けを胸まで引き上げて、ガイダンスに目を通して正太は、母親の表情と言葉が、ひとつに重ならず、しばらくお互いに見つめ合ったままになった。
「電話は、M君のお母さんからで、自殺ですって」
K大に合格して自殺するわけがない。
正太は、固まったようにこたつから出ることができないでいた。
するとまた電話が鳴った。
「きっとあなたの友達からでしょう。電話にでなさい」
正太は、バネ仕掛けの人形のように、ぎこちなくこたつから飛び出すと、けたたましくなる電話の呼び鈴を目指した。
受話器をとると、声の主は同級生のMだった。
MはFと正太の三人でよく遊んだ仲で、母親同士も仲が良かった。
「正太か。さっき俺のお袋から電話あったと思うけれど、どうしていいのか分からなくて。なあ、正太、聞いているのか」。
Mの息づかいが荒く、ところどころ声がとぎれる。
「ああ、聞いている。あいつK大にうかって、なんでそんなことしなけりゃならないんだ」
「よくわからないけれど、先週の金曜日に大学から不合格通知がきて、Fはもう入学準備したり、親戚からお祝いもらったりして、すごく落ち込んでいたようなんだ」
「だって、本人が受かったっていっていたのに、なんでそんなことが起きるの?」
「だから、よくわからないっていってるじゃないか」
もどかしさから、苛立った声になる。
「正太、いっしょにFの家にいかないか」
「いや、いま行っても迷惑になるだけだろう」
「そうだな、もう少し様子を見ることにするか。また、なにか分かったら電話する。正太のほうもなにかあったら俺に電話をしてくれ」
電話は唐突に切れた。
茶の間に戻ると、母親が心配というより、不安げに正太からの言葉を待っていた。
「まだ、なんにも分からないって。先週、合格祝いの電話で話したばかりだし、両親と旅行に行くって、すごくうれしそうだったのに、こんなの信じられない」
正太は、こたつの上に広げた予備校の書類を無造作に封筒に入れて、二階の自室に向かった。
「正太、大丈夫?」
母親の声は正太に気づかうように、不安に満ちていた。
「僕は大丈夫だよ」とりあえず、母親を安心させないと、煩わしいことになるという思いから、力強く返事する。
補欠8番目
Fの通夜と葬儀に、正太はとうとう出席しなかった。
しなかったと言うよりは、できなかったといったほうが正しいかもしれない。
母親にいっしょに行こうと言われ、寸前までそのつもりでいたが、「母さん、僕はいかない」とそのまま、部屋にこもってしまった。
母親は、「正太は本当に大丈夫ね」と念を押して、葬儀にむかった。
親しい友人の死、それは正太にとって、身近な人の初めての死だった。
病気でも事故でも、家族、親戚、友人をふくめて死という現実に直面したことがない。
正太の心には、Fの死を受け入れがたい強い意志が働いていた。
葬儀に出ることは、死を受け入れることになる。
その心の準備が、できていなかった。
そして、もうひとつ、土曜日に必ず電話するという約束を忘れたことが、いまになって重くのしかかってきていた。
受験に失敗し、これから一年の浪人生活をどう送るかと、悩んでいる自分が、K大に合格したFとどんな会話を交わせばいいのか、その面倒くささがどこかで正太に電話を躊躇させたことを、忘れたことの言い訳にしている自分に気づいた。
もし、約束通り電話していたら、日曜日に、Fは自殺を思いとどまったのではないか。
受験前に、学校で二人で話したとき、「お互い浪人することになったら、いっしょに予備校へ通おう」と、いっていたではないか。
もし、土曜日に電話して、不合格だったことを知ったら、「おう、お互いに頑張ろうな」などと、同じ浪人仲間として嬉しげに言葉をかけていたかもしれない。
なぜ、電話しなかったのか。その悔やみは、誰に話しても分かってもらえないだろう。
自分は、Fの死を受け入れる資格がない、葬儀に参列することはできない。
葬儀から帰った母親は、言葉少なに「正太、両親よりも先になくなることは逆縁といってとても不幸なことです。
F君のお母さんには、気の毒でかける言葉もありませんでした」とだけいうと、葬儀で耳にしたはずのなぜ自殺したのか、その状況も理由もいっさい口を閉ざして話すことはなかった。
正太もあえて聞こうとはしなかった。
半月ほどして、ある新聞にFの自死に関する特集記事が掲載されていた。
内容は、受験戦争の犠牲というようなタイトルで、Fが死を選ぶまでの経緯とそれに関する識者の意見が紹介されているものだった。
葬儀の後で、参列した何人かの同級生から電話をもらったが、その内容はあんなつらい葬式はなかったとか、なんで正太は、参列しなかったのかなどというもので、自殺の理由である不合格通知について、多くを知るものはいなかった。
この記事で正太ははじめて、Fの自殺の理由を知った。
記事によると、FはK大に補欠合格しておりその順番は8番目だった。例年なら辞退する合格者がでるので、K大では補欠の100番目ぐらいまでは繰り上げ合格するとされていた。ところが、今回の受験では、補欠のうち正式な合格は7番目までだったため、Fは不合格になったというのだ。たった一番違いで、ふるい落とされたことで、親戚からも祝いを受け、友人知人にも合格を知らせ、得意絶頂の思いでいたときに受けた不合格通知の反動は、Fに死を選ばすほどの重圧になったのだろう。
自殺した日曜日は、両親がたまたま所用で外出し、母親は息子をひとり残してきたことが気になり、用事を早めに切り上げて帰宅したのだが、すでにFはガスによって命を絶っていた。
一人息子の死に、両親は強い衝撃を受けながら、受験に失敗をしても人生はいくらでもやり直しができるので、息子のような道は決して選ばないでほしいと訴えていた。
正太は、Fの死がこのような記事によって白日の下にさらされたことに、激しい反発を覚えた。そして、Fの気持ちをどんなに忖度しても、まわりの人間が彼の死を受験の犠牲者などとレッテル貼りすることに、いささかも説得力がないと思った。
大学受験に失敗したことで、歩むべき道を歩めなくなるという絶望感を死につなげた彼に、初めて憤りを感じた。
合格したと勝手に思い込み、浮かれた自分を諫めた結果かもしれないが、人生の失敗なんてこれからいくつ重ねるか分からないのに、その入り口で、たった一回の蹉跌で命に幕引きするなんて、友人として許せない気持ちになった。
だが、友人の死の現実をいつかは受け入れざるを得ないことは、正太にも分かっていた。そして、その死を次の受験まで背負っていくことを決めた。
涙を流すのはまだ早い、受け入れがたいFの不在に対して、正太ができることは明日も生き続けることを決意することだけだった。
始まった浪人生活の日常は、自由であり不自由、解放と拘束という矛盾した感情によって支配されていた。
毎朝、判を押したように自宅を出て、電車で高田の馬場駅近くの予備校に向かい、午後2時頃授業が終わる。
土曜や日曜日に設定されている定期的な模擬試験の日は、昼には解放される。
その後、帰宅するまでの数時間を正太は、あることに当てることにした。
予備校への通学に利用している中央線沿線、隣駅の国分寺、三鷹、吉祥寺、阿佐ヶ谷、中野、東中野、そして予備校のある高田の馬場駅には、名画上映館があった。
正太は、名画座の上映スケジュール表を手にいれて、時間の許す限り昔の名画を観ることにしたのだ。
もちろん、それには理由がある。
昨年の受験でおぼろげながら、描いた将来やりたいことが、映画の世界にあることに気づき、それがはっきりとした目標となったのだ。
そのためには、なによりも目を肥やしておくことだ。
ロードショー館での映画鑑賞は、限られた小遣いでは無理だが、名画座の学割なら十分にもらっている小遣いで間に合う。上映時間をつかんでおけば、帰宅途中で寄り道しても、2時間から2時間半くらいですむから、夕食時には十分間に合う。
また、小遣いをはたいては、古書店で映画評論などの小難しい雑誌のバックナンバーを買いもとめ、塾へ通う電車のなかで、むさぼるように読むことを日課とした。
映画の歴史、映像編集(モンタージュ論)の技法、監督、プロデューサーの役割、そして何よりも映画批評については、観た映画、観ていない映画に限らず、興味深く読み込み、観た映画に関しては自分なりの批評をノートに記し、プロの批評と読み比べて、手法や視点を学ぼうとした。
こんなことが、家族に知れたら受験勉強に力が入っていないと言われるのに決まっているから、正太は、受験勉強や模擬試験には真剣に取り組むことを忘れなかった。
週に2本を目標に、一年52週で100本以上の映画を観ることを正太はめざした。
それが、受験勉強という息が詰まるようなつまらない時間を、少しでも有意義にする方法だと、自分に言い聞かせるようにして。
再びの受験
受験する大学を決めるに当たって、前年と同じように正太はW大を第一にあげ、そしてFが受験したK大も受けると両親に告げた。
その選択について、父親は何もいわなかったが、母親はW大学よりK大学のほうが、私はうれしいと機嫌よく賛成した。
受験日は、K大が2月で、W大は前年と同じように3月になってからだった。
K大は、筆記の一次試験をパスすると、論文の二次試験がある。
W大のほうは、一次試験をパスすると、二次試験は面接となる。
一次試験の受験科目は、両大学とも英語、国語、社会であった。
K大の受験当日、私鉄駅から続くK大への坂道は、冬のコートを羽織った男女学生が、黒い帯のように上っていく。
その光景を見ながら、これだけの受験生が挑戦するのでは、合格は並大抵のことではない。また、亡くなったFも同じような光景を眺めながら、この坂を上っただろうと思いをはせた。
大学構内で、正太は同じように浪人をした同級生に会った。
その内の数人が、Fがどうして自殺したのか納得できなくて受験することにした、と話しているのを耳にした。
正太は、自分以外にもそうした思いを抱いている友人がいること知り、寒風の吹きすさぶ真っ青な空を見上げならが、Fの自死が同級生に与えた重さを受け止めていた。
試験会場は、階段式に机がならぶ広い教室で、一つの机の二人の受験生が、両脇に一人ずつ座り、受験票をそれぞれ左右の隅に置く。
筆記用具を取り出す音が収まると、詰め入りの制服を着たK大の学生が、試験用紙を階段を上りながらひとりひとりに配り始めた。
試験官から受験中の注意の説明が終わると、定刻の9時00分に午前中の二科目、英語、国語の筆記試験がはじまった。そして昼休みをとってから、三科目目の歴史・社会で試験は終了する。
K大の坂を下るときには、試験問題と解答の印刷物を正門近くで販売していたが、正太はまったく興味がなく、買い求めることもしなかった。
一次試験の発表があったのは2月の末で、この冬でいちばん寒い日だった。正太の受験番号はあった。
自宅に電話すると、母親が「とりあえずおめでとう。二次試験頑張ってね」と拍子抜けするほど冷静にうけとめていた。都内に出かけていた小さい方の姉が、先に発表会場にでかけパスしたことを確かめて、すでに電話で伝えていたのだ。
「模擬試験の成績から、K大なら大丈夫だと思っていました」と、もう合格が決まったような口ぶりの母親に、小さく反発したくなったが、一次試験をパスしたことで、正太は、一年前にFが歩んだ道を、確実にたどっていることをはっきりと自覚することができた。
二次試験は1週間後で、試験会場は一次よりもさらに広い、講堂のようなところで実施された。
その日も寒かった。
受験番号が張られている長机の左右に一人ずつ座るのは、筆記試験の時と同じだ。
違うのは、長机の上にマス目をきった原稿用紙が2枚、あらかじめ配られていたことだった。
試験官が一段高い演壇上に設置した大きな黒板の前に立ち、おもむろに白い紙を広げる。
そこには、二次試験の論文の表題である「日米安全保障条約と日本の将来について」と黒々と縦書きされている。
制限時間は2時間であると告げられ、正太を含めた受験生は原稿用紙に向かう。
安保条約は、3年前の高校2年の時に、国を揺るがせた大事件だった。
国を二分して賛否が議論され、国会の前では連日のように学生や労働者のデモが繰り広げられ、T大の女学生がデモ隊と警備する警察官に巻き込まれ亡くなった。
高校生であった正太たちも、米ソ冷戦のなかで、日本がアメリカと同盟を深める安保条約締結について勉強会を開くなど、将来、この条約によってどのような日本になるのか、そして自分たちの生活にどのような影響をもたらすかについて熱心に話し合った。
同級生の何人かは、全国の高校生の団体である全高連に所属して、国会前でのデモにも参加していた。安保条約は、国会で強行採決され、翌年の3月に自然成立した。
それとともに、正太たちの学校でもいつの間にか、熱い議論は沈静化していった。
論文の表題に、正太にはあの高校2年で体験した1年が思い出された。
日米安保条約には反対する立場で、サンフランシスコ講和条約の締結によって独立を獲得した日本が、安保条約という実質的な軍事同盟を米国と結ぶことによって、米国に従属することになる。米ソの冷戦下で、日本の安全保障をどう確保するかは、大きな課題であるが、先の太平洋戦争を体験し、平和憲法の下で国際社会における新しいあり方を目指すのが日本の責務であり、いたずらに一国に与することは得策とはいえない。アジアはまだ未成熟な地域であるが、日本の進むべき道はアジアの一国として、真の独立を果たし世界平和に貢献していくべきである。などと持論を、二枚の原稿用紙を目いっぱいに使って書き連ねた。政治や外交問題に深い知識を十分に持たないままであったが、正太は高校2年の当時、同級生たちと熱く語り合い、議論したときの思いに駆り立てられるように、鉛筆の先を走らせていった。
一次試験の発表を小さい方の姉が勝手に見に行ったことに、文句を言ったことから、二次の発表ついては正太だけが見に行くことになった。
正太の受験番号は、補欠の80番目ほどに見つけることができた。そして公衆電話から自宅に電話して、二次試験はだめだったとだけ伝えた。
母親の、ため息ともつかない息づかいが、受話器の向こうから聞こえてきた。
二次試験を仮にパスしていたとしても、正太はK大に入学するつもりはなかった。
受験した目的は、Fが一年前に立った同じ場所、同じ試験会場で、試験を受け、発表をみて同じ経験をすることだった。
目的を遂行できたことで、正太は十分満足していた。
そもそも、試験を受けた学部について正太はまったく興味がなかったし、それが将来自分の生きる道に役立つとは、とうてい考えられなかった。
受験の果てに
残る受験校は、W大だけになった。母親は、K大に合格できなかったことから、W大のほかに、今から願書を出して間に合う大学はないかと、姉や兄に相談をしはじめた。
兄たちは、正太が行く気のない大学など受験しても意味がないのではないかと、反対してくれたが、母親としてはどこでもいいから大学に入ってほしい、というその気持ちだけだった。そうした気持ちを分からないこともなかったが、大学へいくことが目的となっている母親の期待にこたえるつもりはなかったし、W大に合格すれば、こうした親の心配も解消すると考えていた。
また、両親にはもちろん、姉や兄に打ち明けていなかったが、正太の頭の中に、もう一年浪人生活を送るという選択はなかった。
受験に合格するためのテクニックを手に入れる予備校の授業を、これ以上続けることは、もうたくさんだった。
むしろ、もし、大学へ行くことができなかったら、早々に社会に出て、仕事を通して実践的なことを身につけたいという思いが日ごと強くなっていた。
W大もK大同様、一次の筆記試験には合格した。
しかし、二次の面接では不合格となり、正太はさすがに落ち込んだが、数日後、もう1年浪人してはどうかという、両親に勧めに対して、きっぱりと浪人をするつもりはなく、働く道を選びたいとだけ告げた。
母親は大いに気落ちしていたが、父親はお前の選んだ道だ、後悔しないように、とだけ言葉少なに言っただけだった。
それから2週間ほどたった土曜日、正太は突然、父母に茶の間に来るように呼ばれた。
茶の間に入ると、こたつのテーブルの上に封筒がおいてある。
「中を見てみなさい」と、正太に封筒ごと差し出した両親の顔は、怒りに満ちていた。
正太は、自分宛の封書が開かれていることを訝しく思いつつ、差出人を見た。
そこには、K大の文字がはっきりと読み取れた。
封筒の中の二つ折りの紙を取り出して目を通した。
紙には補欠合格していたが、手続きされなかったため不合格とします。
というような趣旨のことが書かれている。
"ああ、これと同じような書類が、Fにも配達されたんだな"
Fは補欠8番で手続きしていたにも関わらず不合格通知が届き、自分は補欠80番目あたりだったのに、手続きしていないために不合格となった。
Fの場合とはことなり、手続きしていなかったので、よもやこうした通知が届くとは思わなかった。それにしても、Fが通知を受けた時期に比べるとなんで、こんなに遅くなったのだろうかと、不思議には思ったがまったく見当もつかなかった。
文面をみながら、あらためてFが、同じような通知を見てどのように受け止めたのか、そしてどのような気持ちで、自死までの時間をすごしたのか、はじめてその心情に触れたような思いがした。
予想もしていなかった一枚の紙によって、不合格だったと嘘をついたことに対するきびしいしっぺ返しを食った思いだった。
しかし、いまさら言い訳のしようがない。
これからの道を決めたのは自分自身だから、それは自分で責任をとればいいと身勝手に考えていたが、父母の期待を裏切ったことは事実であり、弁解の余地はない。
「正太、お前のことを心配していたお父さんの気持ちが分かりますか」
「嘘をついていてごめんなさい。でも、僕はK大にいくつもりははじめからありませんでした。だから、補欠でも、合格していても、受かっていなかったと言うつもりだったんです。本当にごめんなさい。お父さんお母さんに隠していたことは、自分勝手でした。それは本当に申し訳ないと思っています」
ではなぜ受験をしたのか、という問い詰めがあるかと覚悟したが、Fのことが理由であることは、絶対に話すまいと決めていた。
「正太、あと1年頑張ってみませんか」と母。
「僕は、もう、受験勉強をするつもりはありません」
「分かった、正太、自分の道を歩むというなら、これからは人を頼らずに、しっかりと自分を見つめて生きていきなさい。私からは、それ以上いうことはない」
表に出したい感情を抑えた父親の言葉は、怒鳴りつけられるよりも正太の心に、いっそう深く刺さり、自分のやったことの重大さに押しつぶされるような重圧を感じた。
父親はそれから後、大学受験のことについて、口にすることは二度となかった。
2015年7月24日 07:24
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