2009年6月

トマトと海水パンツ

夏の朝
 夏休みの正太は、とりわけ早起きだ。
 父親が会社にいくために家を出るのが6時20分なので、大人達は朝5時を回った頃には決まって起きていた。
 台所は、子ども部屋の隣なので、母親が朝食をこしらえる音が、聞こえてくる。
 普段なら、そんな音にも目が覚めることはないが、夏休みは特別だ。
   第一、冬ならまだ真っ暗なのに、外はすっかり明るくなって、早く外においでと呼んでいるようにも思える。
 正太はえいやっ、とタオルの上掛けを蹴飛ばして、造りつけのベッドから飛び降りた。
 台所の引き戸を開けるともう、父親は食卓についている。
 大きなテーブル型の食卓で、6人分の抽斗がついていて、そのなかにはそれぞれの茶碗と箸がセットになって入っており、6脚の丸椅子がテーブルを囲んでいる。
 正太の、「おはよう」と元気な声が響く。
 父親は、「うん」とだけ返事をしてじっと新聞を読みながら、箸を動かしていた。
「おかあさん、今日は宿題がおわったら、川に行っていいでしょう。昨日、友達と約束したから」
「今日は、ではなくて、今日も、でしょう」
「だって、日記に書くことつくらないと困っちゃうモン」
「はい、はい、ともかく宿題がちゃんと終わったらね」
「やったぁ」
 正太は、今日の予定ができたことに満足して、父親の隣の自分の席に座った。
「ボクもごはんちょうだい」
 父親は、新聞を閉じると、出かける支度を始めた。
 毎朝、6時40分に発車する直通の東京行きに乗る。
 正太は、大きな声で「ボクが、お父さんを駅まで送っていく」と叫ぶや否や、急いで食事をすませ、子ども部屋に戻ると寝間着を脱ぎ捨てて、白いランニングシャツと短いズボンにはきかえる。ちゃんとベルトもした。
 外は夏の日が差していたが、まだ暑さは感じない。
 玄関で待っていると、きちんとネクタイをしめ、背広を着込んだ父親が母親に見送られて出てくる。
「駅までボクが鞄持つ」
「正太に持てるかな」
 正太は、父親の革の鞄を持ったが、あまりの重さに思わず落としそうになった。
「正太には無理だろう、今日は特に書類がいっぱいだから」
「大丈夫、持てる」
 危なっかしい足取りで、石段を下りる。駅までは歩いて10分位だ。
 正太は頭の中でその距離を測ってみた。
 どこまで行けるか分からないけれど、といいつつ、結局、階段を下り終わったところで、正太は父親に鞄を戻した。
「もっと軽いときに持ってもらうから。さっ、駅に急ぐぞ」
 駅までの道はいつも学校への行く道の途中で、右に折れて小さな坂を下りる。 
 右手に地方事務所の建物を見ながら、角を二つ曲がるとやがて踏切にでる。その踏切から、駅のホームが望めた。父親の乗る予定の電車はすでにホームに入線している。
 直通で東京まで行く電車はこの一本だけで、都心へ向かう通勤、通学でいつも込んでいる。
「お父さん急がないと電車が出ちゃう」
「正太はいつも心配するけれど、電車は時間通りにでるから、まだたっぷり時間はある」
「でも、座るところがなくなるでしょう」
「大丈夫、夏休みだから学生も利用しないので、いつでも座れる」
 踏切を渡り、少し歩いて天ぷら屋黒い塀の角を曲がり、くねくねと蛇行した道を進めば駅はすぐだ。
 駅舎は三階建てのコンクリート造りで、改札を抜けると下り階があり、ホームの下をくぐり抜ける通路に続いている。
 父親は、改札を抜けるときに定期券を示しながら、改札の駅員と朝の挨拶を交わしていた。
 ホームに向かう階段を下りるときに、振り向いた父親が手を振った。
 正太もそれにこたえる。姿が見えなくなってからしばらく改札口にいたが、駆け込む乗客が増えてきたので、正太は駅舎を後にした。
 帰りの踏切で、駅のホームを見るとすでに電車は出た後だった。
 今日は、この夏いちばんの暑さだと、ラジオの天気予報が告げている。
「宿題が終わったら、川に行くのはいいけれど、ちゃんと帽子をかぶって、それから川にはつかりっぱなしではだめよ。一時間遊んだら、20分は休みなさい。わかりましたか」
 母親の注意は、いつも同じだった。
「うん。わかった」
 素っ気なく答える。気持ちはもう川の中だった。
 友達との約束では、11時頃公民館の広場に集合ということになっている。
 そう言うときの正太は、宿題をするにも気合いが入っている。
 いつもなら、だらだらとノートを開いたり、鉛筆ばかりを削ったり、ノートのすみっこにパラパラ漫画を描いてみたりと、立ったり座ったりなかなか集中できない。
 だが、宿題が終わればとびきりの楽しみがある時、お尻はしっかりと椅子にくっついて、離れることはない。
「できた、いってきます」
 その日の分の宿題を済ませると、電光石火のように正太は、飛び出していく。
 手には、少し大きめの手ぬぐいと真っ赤なトマトが入った網の袋、頭には帽子である。
「正太、帰りの時間は4時ですよ。わかりましたか」
「はーい」
 声だけ残してもう、石段を駆け下りている。

公民館前の広場

 そこからは、父親を朝送った道を走る。天ぷら屋の角を曲がらずにまっすぐ進むと、大きな街道にぶつかる。その角に、公民館の広場がある。
 正太は、いちばん乗りだった。
 公民館は、青みがかった白いペンキ塗りの木造洋館造りで、二階建てだった。この町唯一の大きなホールがあり、歌謡ショーや落語の演芸会などが開かれる。
 門の脇には。大きな樫の木があり、その下の木陰で正太はみんなの集合をまつ。
 公民館の玄関の上に丸い時計があり、長い針が11時5分前を指していた。
 やがて、正太と約束をした友達がお互いに誘い合って集まる。クラスの仲間で顔はしれているが、中には別のクラスの者もいる。
 誘ってきた友達が、仲間に紹介していっしょに川へ行くことへの同意を求めた。
 誰一人反対する者はいない。川で遊ぶには人数を多いほど楽しいからだ。それに、川に行くといくつかのグループがきており、同じ学校ならいいが、違う学校のグループなどとなにかとぶつかることもある。そんなときに人数が物を言うことも少なくない。
 正太はどちらかと言えば、遊び本意でグループ同士のいさかいには興味がなかった。
 川に行くには、同級生同士だけではいけない。必ず年長者が同行した。
 その年長者が、リーダーになって年下をきちんと見てくれる。
 年長者は、正太の友達の兄で、小学校では喧嘩がつよいということで有名だった。
 その兄を知っていると言うだけで、正太は何度も喧嘩に巻き込まれずにすんでいた。
 そう言うのを虎の威を借る狐というのだ、と兄や姉たちはいっていたが、虎だろうと狐だろうと、ともかく喧嘩で痛い目にあうよりはましだと、正太は意に介さなかった。
 川へ行く仲間の人数は、総勢で10人になった。
 正太は、まだ4年生だったから、年長の6年生と5年生の後に続いて、列の中程について歩いた。
「今日は、釜の淵で泳ぐから、みんな勝手に遊ばないように」
 年長から厳しい一言が、列の前から聞こえた。
 正太は、ぶるっと武者震いがきた。
 釜の淵とは、川がおおきく蛇行しているところにある高い断崖だった。
 その断崖の底が、何年もかけて激しい流れで削られ、深い淵になっており、それがお釜の外側のように下に行くほど丸みをまし、奥深く切り込んでいるというのだ。
 ちょうどお釜の底に当たる部分は、光も届かず流れが複雑に変化して、渦を巻き、底まで行くと、自分が川底に向いているのかそれとも上に向いているのか分からなくなるという、伝説の難所だった。
 正太達4年生は、この淵で一人で遊ぶことは許されない不文律があった。なかには、そのタブーを破って、大きな岩の上から、淵をめがけて飛び込む4年生もいたが、勇気があるというよりも、愚か者という称号を受けるのがおちだった。
 正太は、釜の淵を遠くから眺めることがあっても、いまだに岩にとりついたことすらはない。それが今日、はじめて許されるのか、それだけでもおしっこしたくなるほど緊張した。
 一行は、街道を西に向かい、町役場の前から大きな坂を南に下る。
 長い坂で、下りきったところに橋が架かっており、その橋を渡ると川向こうのもう一本の街道に出られる。
 川に下りるには、橋の手前にある染色工場の脇の道を入っていく。
 染色工場は、赤い煉瓦をくみ上げた煙突がシンボルで、正太はこの煙突をスケッチしたことがある。町の主な産業が織物で、この工場ではその織物の生地を染めていた。
 工場の近くを流れる小川には、いつも群青色した水が流れていて、そのまま本流に注いでいた。群青色の水は、本流と混ざりいつしか薄くなって分からなくなる。
 染色工場のところから、釜の淵の禍々しい岩の断崖が遠望できる。すでに、断崖にとりついている者の姿が小さな粒のようにみえる。そして、中には断崖から淵をめがけて飛び降りている者もいる。
 やがて、河原にでる。
 大小の石がごろごろしており、運動靴の足裏が痛い。
 他の者はみんなゴム草履を履いている。正太もそうしたいのだが、母親は、ゴム草履はけがのもとです、といってなかなか許してくれなかった。
「ここに荷物をまとめておいて、準備体操をするぞ」
 と言いつつ年長者がズボンを脱ぎ始めると、それを合図全員がシャツを脱いだり、半ズボンを脱ぎ始める。
 ズボンの下には、真っ赤や真っ白の六尺ふんどしを締めていた。
 ところが正太だけが、青地で左右に白いタテ線の入った海水パンツだった。
 正太の海水パンツ姿は今日が初めてではなかったが、ふんどし姿の仲間から浮いているようで、恥ずかしかった。低学年の二年生はふんどしもなにも身につけておらず、生まれたままの姿で、小さいものが股のあいだにちょこんと飛び出ている。
「おっ、正太は海水パンツか、かっこいいな」 
 年長者のその言葉に都会の子ども、という視線が回りから消えた。
 年長者の命令一下、自然に輪ができて、誰いうでもなくラジオ体操のメロディを口ずさみながら、体を動かす。
 日本全国を巡回して放送するNHKのラジオ体操が、その町にきたのは昨年の夏のことだった。当初の予定では、正太の通う小学校のグランドで市民が集まって開催されることになっていたが、あいにく当日は朝から雨で、急遽正太達の学校の講堂に場所を移した。
 狭い講堂なので、参加できたのは小学生が中心だった。
 講堂は二階にあり、小学生が指導員にあわせて跳んだり跳ねたりすると、講堂の床が大きな音をたて、古い建物全体が音を立てて揺れたほどだった。
 低学年ではラジオ体操がまだ、憶えられない者もいて、見よう、見まねでなんとかごまかしている。
「準備体操が終わったら、いきなり川に入らないこと。足から入って、手や足、つぎに胸や頭に水をかけながら、ゆっくり入るように」
 まるで大人のようなしゃべり方で、年長者は手本を示していく。
 正太は、そっとトマトの入った袋を、川の流れに入れて、袋についているひもを大きめの石に結んだ。他の仲間もそれに習う。
 正太はトマト、同じようにトマトを持って気いる友達もいれば、太いキュウリのものもいた。
 これが、川で一日遊ぶ食料だった。
 川で冷やしておいて。昼になったらみんなで食べるのだ。
 正太は、キュウリも好きだったが、何よりもトマトに目がなかった。
 大きなトマトを一個と、ちょっとこぶりを一個、網の入れ物は、幕張で潮干狩りをしたときに沢山採れたアサリを入れてきたものだった。清流の冷たい水に、トマトの入った網の入れ物が浮いている。
「盗む奴がいるから、みんないっしょにおいておくように」
 年長者の気配りの言葉が終わると待ちきれないように、子どもたちは川に足を入れ、じゃばじゃばと流れを目指す。

釜の淵
 釜の淵へ渡るには、少し上流の浅瀬を横切らなければならない。
 大人達は、深い流れに飛び込んでそのまま抜き手を切って、岩の断崖に向かって泳いでいく。淵の所々に岩の突起があり、そこに手をかけてよいしょっ、とばかりに、岩にとりついて登っていく。
 正太達に、そんな力もないし第一勇気がない。
 川の流れは、淵のような所にくると突然急になり、体の自由を奪われるような恐怖感がある。しかも、釜の淵の下は、吸い込まれたら最後、上も下もわからなくなるといわれているのだから、未知の恐怖は、夜一人で便所にいく時の恐怖とは比較にならない。
 年長者は、先に立って歩きやすいところを足で探りながら、時々振り向きみんなが、きちんと列をつくって渡っているかを確かめる。
 低学年は、正太達の前を歩き、正太達の後ろには5年生がしんがりを務めていた。
 10人が無事に渡りきるまで、数分のことだったが、水の力と川底の変化は、一時も油断ができない。対岸へ渡りきることで、もし流されたらどうしようかという思いから解放されると、決まって帰りのことが心配になった。同じ所を戻るとして、そのころは水かさがふえていないだろうか。行きと同じ所をわたれるだろうか、考えても仕方ないことに、頭を悩ます正太だった。
 そんなもやもやした気分も、釜の淵の黒々とした断崖を見上げると、威圧感におされて、消し飛んでいた。
 年長者は、それぞれ身軽に岩を上り始める。
 断崖は、てっぺんまで15メートルはあるだろうか。上には松が根を張って、ふとい幹が天につきでており、さらに高く見える。
 すでに何人もの小学生や中学生が、流れに向かって断崖にもたれたり、いくぶん平らの所を見つけて腰をおろして、いつ飛び込もうかと身構えていた。
 突然一人が立ち上がって足から飛び込む。大きな水しぶきとともに流れに消えた。
 正太は水に落ちたときの音に、びっくりした。
 飛び込んだのは、別の小学生グループを率いる中学生だった。
 なかなか水から出てこない。ずんと深く潜ったようだ。
 すると、飛び込んだところから、10メートルほど下流から、ぽっこりと顔が出る。
 断崖に残っていたグループの仲間が、おーっという声をあげた。
 いつの間にか、正太のグループの年長者が、とりついていた岩からすっくと立ち上がり、無言で両足を蹴る。ぽーんと、体が弧を描きながら飛び出した。
 断崖の下でぐずぐずしている正太達は、年長者のその美しい飛び込みに、一瞬体が固まってしまう。両手をまっすぐにして、水面を切るように飛び込む姿を、正太は鳥の図鑑で観たカワセミのようだと思った。
 足からよりも頭から飛び込むほうが、数倍の勇気がいる。
 断崖に残っていた別のグループの仲間は、言葉にならない。
 崖下の正太達は、勝ち誇ったようにウォーと雄叫びをあげた。
 その後、二つのグループがまるで競うように、つぎつぎに崖に上っては、飛び込みを繰り返し始める。正太も断崖を登ることはできるのだが、いざ、流れをみるとあまりにも高くて足がすくみ、どうしても飛び込むことができなかった。
 下からどんどん子どもたちが登ってきては、とりつかれたように飛び込んでいく。それも、正太の立っているところより上の方から。
「おい、邪魔だからどきな」
 別のグループの年長者が、上の方から正太にどくように声をかける。
「正太、一度飛び込めば、もう大丈夫だから、やってみな」
 正太のグループの年長者が、横から声をかける。
 正太は、つばを小指の先につけて、耳の穴に突っ込む。さっきから何度も繰り返していたことだ。そのつばさえ出なくなっていた。
 気持ちは、もう飛び込む準備ができている。だが、どうしても体が前にいかない。
「おい、邪魔だからどけ」。上から声が落ちてくる。
「うるさい、ちょっと待ってやれよ。正太ははじめてだから」
 正太は、その声に押されるように、目を固く閉じて両足を前に踏み出した。 
 水面までわずか1メートルもない。足が、水に着く。体がずぼっと沈む。流れが厚い壁のようになって体を川底に引きこむ。
 正太を恐怖が襲う。水が怖いとはじめて感じた。大きな力が、全身をつつみどこか遠くへ引っ張っていく。
 もがく、足を蹴る、手をばたつかせる。水の中では手が、すごく重く感じられた。
 閉じていた目を開く。目の前を流れる水は青緑色だった。体は流れに持って行かれる。
 さらに足を蹴った。その時、自分が釜の淵から、だいぶ下流の浅瀬にいることがようやく飲み込めた。安堵の気持ちが広がる。そして、わずか数秒の冒険が終わった。
 正太は水から立ち上がった。
 すると、なんと、海水パンツのバックルが飛び込んだ拍子にはずれて、海水パンツが足下まで下がり、正太の股の間から、縮こまった小さい突起が飛び出していた。
 岩の上に座っていた仲間が指さして笑っている。大きな声で笑っている。正太は、必死になって海水パンツをたくし上げるが水を吸ったパンツはなかなか上がらない。気持ちも焦っているのでなおさらだ。
 「正太、よくやった。これで釜の淵の仲間になれたぞ」
 いつの間にか、年長者がそばにきて、正太の肩を叩く。同時に回りから笑い声が消えた。
 釜の淵は、正太達小学生にとって肝試しの場であり、男になる場でもあった。
 バックルをはめ直し、正太はまた流れを渡り、断崖にとりつき、水面をめがけて飛び込んだ。何度も、何度も。そして、少しずつ高さを上げていった。 
 その後も海水パンツのバックルが、何回かはずれたが、正太には飛び込んだ瞬間にズレ落ちるパンツを手で掴む余裕も生まれていた。
 その日が釜の淵飛び込み初体験の同級生も、正太と同じように無事やり遂げた。 
 昼になると、サイレンが鳴る。それが、合図のように正太達は川から上がった。
 仲間の何人かは、昼飯を食べるために家に向かった。
 残った者は、流れに冷やしておいたトマトやキュウリを食べる。
 トマトは、表面はいくぶん赤くなっているが全体は、まだ薄い緑色をしている。
 がぶりと一気に歯で噛むと、口の中に日向臭い、青臭いトマト独特の匂いが広がる。川の水でほどよく冷えた果肉が、昼間の暑さを忘れさせる。
 正太は大きいトマトだけを食べて、小さいトマトは3時のおやつにと残した。 
「これから一休みするから、その間は川に入らないように」
 年長者は、泳ぐときもいっしょ、休むときもいっしょというルールを決めていて、いつもそれを守る。
 正太は、少しも疲れていないので、もっと釜の淵からの飛び込みをしたかったが、母親から「年上の人の言うこと聞くように」と、うるさいほど言われているので、決まりを守ることにした。
 ここで言うことをきいておかないと、つぎの川行きの時に、罰として誘われなくなることが、正太にはなによりも怖かった。
 強い日差しの下で、焼けた河原の石に体を横たえて甲羅干しをする。川の水は冷たく、冷えた体に夏の日差しで熱くなった石が気持ちいい。
 夏休みも8月になり、天気のいい日にはいつも河原にきているので、それぞれに日焼けしている。
 ふんどし姿の仲間は、お尻から太ももの上の方まで、こんがりと色づいている。
 海水パンツの正太といえば、へそ下から太ももにかけてちょうどパンツのあとが白くのこっている。風呂にはいるとそれがことさら目立ち、正太は母親にふんどしを買ってとねだったこともあるが、「海水パンツのほうが、かっこいいでしょう」といっていっこうに取り合ってくれなかった。
 一度だけ、兄のふんどしを締めてみたが、しっかりと締められなかったせいか、ふんどしの股のところから、袋の一部が飛び出しているのをみて、正太はその方が恥ずかしいと感じたので、もっと大きくなってからにしようと気持ちを切り替えた。
 仰向けになると、空には白い雲が真っ青な夏の空に、ぽつんぽつんと浮いている。
 山の稜線の向こうからは、入道雲が生きているかのように、もくもくとわき上がっている。
 太陽は雲にかかることなく、かっと照りつけている。
 まぶしい光を見つめながら、正太はひとり心に秘めていることをこれから実行しようと思っていた。
 釜の淵の断崖の下から水面までわずか1メートルほどの水面に足から落ちたというのでは、飛び込んだとはいえない。それでも、ずいぶんと勇気のいることだったが、釜の淵の上から、足を蹴って頭から水面に飛び込まない限り、下級生のままで夏休みを終わることになる。
 年長者や慣れている同級生の何人かは、断崖の中腹から足で蹴って、できる限り遠くへ飛び出し、水面に頭から突っ込んでいる。
 見るたびに、なんとしてもそちら側に仲間入りしたくてならなかった。
 去年は、足から落ちることもできなかった。今年はそれができた。頭から飛び込むのは来年の夏休みでもいいかもしれないが、あと1年待つのは長すぎるように正太には思えた。
 せっかく今日、みんなに励まされて、足から飛び込むことができたのだから、頭からだってできるはずだ。
 正太は太陽の光の中に、断崖の上から一気に川の水面をめがけて、うつくしく弧を描いて飛び込む自分の姿を描いてみた。
 「みんな、そろそろいいぞ」 
 年長者の一声で、待っていましたとばかりに起きあがる。
 そして、再び釜の淵のある対岸を目指して、川を渡った。
 正太は、心に秘めた決心で、口数が少なくなっていた。
 川の流れも、なぜか穏やかなような気がする。水を切るようにずんずんと向こう岸に向かって歩いていく。
 一度、足から飛び込んだ後も、なんとか高さを上げようと思ったが、ほんのわずかに過ぎかなった。頭から飛び込むとなったら、そうはいかない。
 全員が川を渡りきり、釜の淵の崖下に並び、上を見る。
 何度みても、高い。中腹が大人のお腹のように前にせり出し、下は淵向かって沈み込んでいる。ずっと変わらない姿で川の流れをうけとめてきたその断崖に、正太は立ち向かおうと、両手に小さな拳をつくった。
 頭から飛び込む自信のあるものは、例によって岩の上の方によじ登っていく。
 足から組みは、下の方を蟹の横ばい状態で進む。
 正太の順番がきた。迷わず上を目指す。
 先に行っていた頭から飛び込み組みが、あれっという顔をして正太をみる。
 年長者がすかさず「正太、やるのか」と声をかける。
 正太は、小さく頷く。
「おい、あけてやれ」
 年長者が、他のものに命令した。
 何人かは、それにこたえるように立ち上がると、勢いよく蹴り出して頭から淵の流れに飛び込んでいったり、脇にどいたりした。
 正太は、その場に立って、あらためてその高さに驚いた。
 足がすくむというレベルではない、ぺたりとお尻を落としてしまった。
 海水パンツの上からとがった岩がお尻にささる。
「足から飛び込んでもいいぞ」
 頭から組は、正太の気持ちを読んだように口々にいう。
 正太は、そんな言葉も耳に入らない。頭が真っ白で、水面を見つめる目は瞬き一つできない。顔が強ばって、唇は寒くもないのに紫色に変わっていた。
「正太、俺の飛び込むのをみていろ。腰を浮かして、足はそんなに蹴らなくて大丈夫だ。いいかよく見ているんだぞ」
 年長者が、ゆっくり立ち上がった。そして、手を前にすると、腰を少しかがめて次に腰を伸ばした。すると、体が宙に浮くように飛び出す。手は前でしっかりと合わさり、そのまま流れに突っ込んでいく。
 いつも下から見上げるようにしか、見ていなかった飛び込みの姿を上から眺めるのははじめてだったので、正太はまるで自分が飛び込んだような錯覚を憶えた。 
 飛び込んだばかりの年長者が、水面に顔を出して「正太、足から飛び込んだときにも一度できたら後は、何度でもできただろう。頭から飛び込むのも同じだ」
 顔についた水を手でぬぐいながら、その手で飛び込むように誘う。
 それでも正太の尻は岩にくっついて、いっこうに離れようとはしなかった。
 正太は太陽の光の中で見た、自分の飛び込みの瞬間を思い浮かべようとした。
 しかし、思い出せなかった。回りから早く行け、頑張れ、あとがつまっているなどと騒がしい声ばかりが聞こえる。
 断崖に登ってから、もう何分経ったろうか。数分だったのか、数十分だったのか、正太には時間すら分からなくなっていた。
 このまま夕方になって、今日は帰ろうということにならないかとまで思った。
 トマトを食べた後で、心に決めたことはなんだったんだろう。
 夏は来年もある。釜の淵もなくなることはない。今年はここまでということにしておこうか。そう思いつつ、正太は断崖の下を見て、それから空を仰いだ。
 太陽は、かっと照りつけ正太の目を射る。
 正太は、岩から離れてゆっくりと腕を開き、足を軽く曲げると今度はすっと立ち上がるとように膝を伸ばした。
 正太の体は、川面に向かって落ちていった。
 あわてて手を前に合わせる。しかし、体は頭からではなく、アゴから胸にかけてばしっと音ともに着水した。跳び箱を跳び損ねて、胸から落ちたときの痛み以上のしびれるような衝撃だった。何がおきたのか、正太には見当がつかなかった。
 痛みを気にしている内に、とんでもないことが起きていたことに、正太はまだ気づかなかった。
 少し落ち着いて、背の立つあたりで立ち上がったら、海水パンツが脱げてすっぽんぽんの姿になっていた。
 足から飛び込んだときには、かろうじて足首で止まっていたが、頭から飛び込んだ時には、そのまま脱げて流れてしまったのだ。アゴと胸は、真っ赤になっている。
 見ていた年長者をはじめ仲間がいっせいに潜って、海水パンツを探しにかかった。
 その間、正太は少しでも深いところに移動した。
 海水パンツは、散々探したが流されてしまったのか、それとも釜の淵の奥深くに沈んでしまったのか、とうとう出てこなかった。
 脱いでおいたズボンをはき、ようやく身繕いした正太に、年長者から「よく飛び込んだ。もうこれからは何度でもできるようになる」と、賞賛の言葉をかけられたが、正太は、海水パンツを流してしまったことをどう母親に説明したらいいものか、そのことで頭がいっぱいだった。
 海水パンツもなくなったので、正太はそのまま川から上がり、みんなが遊び終わるまでまってから、家路についた。家に帰ってから、海水パンツだけでなく、残ったトマトもそのまま流れにおいてきたことを思い出した。

検便騒動

空豆大
 正太の苦手は、手の指10本、足の指10本を使っても数え切れないほどあるが、なかでも回虫検査のための検便は、特別だった。
 検便は、マッチ箱にその日の朝の便をとって入れ、紙袋などに組と名前を書いて学校に持って行く。持ってきた袋は、クラスごと置かれているダンボール箱に入れていくのだが、今のようにビニール袋がなく、てんでに紙袋に入れてあるだけだから、検便回収の朝は、どこのクラスも色んなうんこの混ざった匂いが、教室から廊下まで満ちあふれてしまう。
 マッチ箱にいれる便の量は、前日、先生から「空豆大位」と目安を言われているのだが、そんなことはお構いなしに、びっしりと入れて来る児童が少なくない。
 あまり入りすぎて、マッチ箱からはみ出しているものもある。
 正太にとって、空豆大という大きさが掴みきれないことが一つの悩みだった。
 それにうんこと空豆がどんなつながりがあるのか分からない。
 母親に空豆大ってどんな大きさかと聞き、実際に空豆を見せてもらったが、その大きさに合わせるためにどうしたらうまくいくのか、それがまた苦手の理由になった。
 ある時には、便所で気張って出てきたうんこを、お尻拭くための新聞紙で一度受け止め、それをマッチ棒につけてなんとか空豆大にしようとしたが、固くてどうにもならない。
 その内、うっかりぽろっと便器に落としてしまった。
 汲み取り式の便所だから、うんこは便壺にぽちゃんと音を立てて消えてしまった。
 仕方なくて、もう一回気張ったが、なぜか次が出てこない。必死になって気張っても、お尻の穴は言うこときかない。このままでは、検便を持って行けないと思うと、宿題を忘れたとき以上に悲しくなり、ついにはトイレで泣きだしてしまった。
 その経験が、尾を引いて、検便の日になると肝心なものが、出ないのではないかという心配と緊張のあまり、ますます思うようにうんこが出てこなくなった。
 できることなら、たっぷり出たときにとっておいて、いざというときに持って行けるようになったいいのにと思ったりもした。
 
 検便の朝、正太は必死だ。母親のその内出るから待っていなさい、という言葉も慰めにはならない。かといって、便所が一つしかないので、家族6人で朝は奪い合いになる。
 一人でいつまでも独占していることは許されない。
 「お母さん、正太の検便は外でやらして」と、姉たちの声が、便所の扉を通して聞こえる。
 どたどたと足踏みする音も、響いてくる。
 正太の肛門は、ますます固く縮まっていく。
 結局、いったん外に出て、兄姉達がそれぞれ中学校、高校へと出かけた後になって、まるで嘘のようにたくさん出た。
 なんとか事なきを得たのだが、それ以来、正太の検便事件として記録された。
 マッチ箱の入った紙袋をランドセルの中に入れるわけにもいかず、手にぶら下げて学校まで行かなければならない。
 そんな朝は、男も女もみんな何故か無口で、手にはてんでんに紙袋をぶら下げている。
 おしゃべりな正太も、その朝、散々苦労してやっとマッチ箱に入れたうんこのことを、誰にも悟られたくない気分だった。
 誘い合わせいく、いつもの友達も、なぜか元気がない。
 正太は、自分と同じように苦労したのか、それともうまく取れなかったのかと思ったが、ちゃんと紙袋を手に持っている。お互いに目があったが、どこかほっとした気分で、視線を交わす。いつもはしゃいでいる同じクラスの女子も、なぜか静かだ。
 正太は、なんでこんなに苦労して、うんこを学校に持って行かなければならないのか、理由は分かっていてもどこか納得できない気分があった。
 
回虫退治
 回虫の恐ろしさは、震え上がるほど怖く、夜眠れないほど身にしみているつもりだった。
 回虫は白いミミズのようであったり、ギザギザがついた細い昆布のようであったり形は様々だ。
 回虫は卵がお腹の中で孵って、それが成長する。
 その卵はどこから来るかというと、野菜だった。農家では、野菜の肥料に人糞をまいていたので、その野菜をよく洗わないで食べることで、卵が体内に入ってしまうわけだ。
 だから、化学肥料になってからは、回虫もすっかり陰をひそめてしまった。
 回虫の恐ろしさを、学校での説明会で聞いたが、正太にはとてつもない恐怖だった。
 成長した回虫が心臓に入り込んで穴をあけてしまい、人の命を奪う。鼻の穴から出てくる、ギョウ虫という回虫は、お尻の穴からはい出てくるなどなど。大嫌いなお化け映画の方がもっとましだと思えるほど、身の毛もよだつような話だった。
 だから、検便をしなければならない、というところまでは理解できた。
 便の中に回虫の卵がいたら、クスリを飲まなければならない。
 検便の結果が出ると、クラスで卵が見つかった児童に、クスリが渡される。クスリをもらうということは、放っておくと、心臓に穴があいたり、鼻の穴からにょろっと出てきたり、お尻の穴からはい出てくる恐怖と向き合うことになる。
 去年の検便で、正太も、クスリをもらった。体の中に回虫の卵がいるということが分かった。足が震えた。いつ鼻の穴から出てくるのか、心臓は大丈夫か、この前お尻の穴がかゆかったけれど、ギョウ虫が外にはい出ようとしていたのではないか。回虫のクスリをその場で飲みたかったほどだった。
 先生から、飲み方の注意を受けたが、上の空だった。
 いますぐ学校を休みにして、早く家に帰ってクスリを飲んだ方がいいのではないか。
 クラスのほとんどがクスリをもらった。ということは、みんな自分と同じ恐怖を感じているのだと、正太は思った。
 その日の下校は、登校時と同じようにみんな静かだった。家に帰ったらどこへ遊びに行くかかという約束を交わすこともしない。なんといっても、クスリを飲むという大仕事が先だ。「クスリを飲むときの注意をお母さん、お父さんによく読んでもらって正しく飲むように」という先生の話が、頭の中で何度も響き渡っている。お腹の中の回虫を退治するためにクスリを飲む、という初めての体験が帰宅とともにはじまるのだ。
 母親に、クスリの入った袋を渡す。母親といえば、正太の不安をよそにまるで腹痛のクスリを扱うかのように、受け取った袋をその辺にポイと置く。
 「お母さん、そのクスリ飲まなくちゃいけないのでしょ」
 正太は、今すぐにでも忌々しいお腹の中の回虫どもを退治したかった。
 「お薬は、食事をしてからということになっているの。だから、正太はおやつを食べたらそれまで宿題をするか、遊びに行ってらっしゃい」
 宿題も、遊びもどうでも良かった。おやつも欲しくなかった。だいたい、みんな今日はお腹の中の回虫騒ぎでそれどころではないはずだ。遊んでいたってつまらない。何していても、回虫がいるかと思うと、それだけで気分が乗らない。
 子ども部屋に引っ込んだ正太は、それっきり夕方まで部屋から一歩も出なかった。
 兄弟がそれぞれ学校から帰ってきたが、気分はすぐれない。
 兄は心配して、母親に原因を聞いた後、正太の所へきた。
 「回虫の卵がいるので心配しているんだって」
 「だって、お兄ちゃん、回虫は鼻の穴からでてきたり、心臓に入り込んで心臓を食べちゃうって。だから早くクスリ飲みたいのにお母さんが、夕方まで待ちなさいって」
 「正太、回虫は怖くない。しかもまだ卵だから、いきなり成虫になるわけないし。クスリは飲めばすぐにそとにでてしまうから大丈夫だよ」
 何でも知っている兄の一言で、少しは気が晴れたが、ともかくあのクスリを飲まないことには安心できない。
 その時がきた。
 夕飯後に、正太は母親から呼ばれて、クスリを飲んだ。
 子ども部屋に帰ると、回虫の卵が無事外にでますようにと、なんどもお腹のあたりをなでまわしながら念じた。
 動かないでじっとしていよう。いつもなら一時もじっとしていない正太が、あんまり大人しいので、「いつも回虫がいると、正太が大人しくていいね」などと姉たちが冷やかす。
 一日中、回虫事件で、気持ちが休まることがなく、正太はついうとうとして、うたた寝をした。
 
とんぼのめがね
 「正太、寝間着に着替えて寝なさい」
 母親に揺り起こされて、ぼんやりと目を覚ました正太は、びっくりしたように大きな声を上げる。母親も。すでに帰宅していた父親も、兄弟も正太のまわりに集まる。
 「正太、どうした、また寝ぼけたの?」異口同音のみんなが言葉をかける。
 「真っ黄色だ、電灯もお母さんの割烹着も、家じゅうが真っ黄色だ」
 正太は、実はびっくりしたというよりも、世界中がすべて真っ黄色に見えたことに、感動していた。
 お兄ちゃんの顔も真っ黄色だよ。お姉ちゃんも、すごいよ、みんなみんな黄色く見える。わーすごい、すごい」
 正太は部屋を走り回る、窓を開けて外視る、外は真っ暗なので、黄色くみえるのは外灯の光ぐらいだった。
 「正太、それは回虫のクスリのせいよ」と母親。
 「副作用だな」と父親。
 「フクサヨウってなあに?」
 「クスリが悪さしたんだ」
 「回虫のクスリが悪さするの」
 「でも、すぐにおさまるから心配しないで」
 正太は、フクサヨウをもっと楽しみたかった。お祭りの縁日で売っている黄色いセロファン紙でつくった眼鏡をかけた気分だった。
 「お兄ちゃん、色眼鏡かけたみたいだ」
 「正太は、本当になんでも楽しいんだね。さっきまで、回虫の卵がいるって、あんなにしょげ返っていたのに」
 「だって、なんにもしていないのに、みんな真っ黄色にみえるんだよ。トンボの眼鏡みたいだよ」
 「そうか、トンボの眼鏡か」
 家族はみんな大きな声で笑い、そして、夜は更けていった。
 朝がきた。正太は、そっと目を開く。どうか、黄色い眼鏡が消えていませんようにと。
 しかし、正太の期待は裏切られ、目は普通に戻っていた。
 
 その日、登校してから正太はトンボの眼鏡になったことをみんなに話したが、黄色く見えた友達もいればそうならなかった友達もいて、あまり盛り上がらなかった。
 それが去年の出来事で、今年はどうなるか、正太は、検便は苦手だけれど、あの黄色い世界には、もう一回戻ってみたかった。
 だが、そのためにはクスリを飲まなければならない。クスリを飲むためには、お腹の中に回虫の卵がいなければならない。正太は、どっちがいいかといえば、やはり回虫の卵がいないほうがいいと、いまは思い始めていた。
 
 起立! 礼!
 当番のかけ声で、がたがたと椅子を引きながら、正太達は一斉に立ち上がり、担任の先生を迎えた。
 「おはよう!今日は検便の日です。みんな忘れずにもってきましたか」
 「はいっ」全員の声が、教室に響き渡る。
 「はい、先生」
 手を挙げて、女児の一人が立ち上がった。
 「はい、佳子さん」
 先生は、手を挙げた女生徒の名前を呼ぶ。
 「一也のお母さんから、一也君は今日、検便がでなかったので、お休みするという連絡がありました」
 その時、教室は大きな笑いに包まれた。が、いつもなら誰よりも大きな声で笑う正太は一也の気持ちを考えると、なぜか笑う気にはなれなかった。

エスカレーター

動く階段
 正太が、エスカレーターに生まれて初めて乗ったのは、9歳のときだった。場所は、東京駅の大丸デパート。八重洲口の改札を出ると、左側にガラスの壁があり、ガラス越しにエスカレーターが空間に浮くように見えていた。
 足下からつぎつぎに平らな状態で出ては、階段へと変化していくそのスピードにどうやって乗り移ればいいのか、緊張感でたじろぐ。横に一緒にいた父親の歩調に合わせて、思い切って足を前に出す。金属の階段がまだ平らで、少し動くと次第に段差が生まれる。階段の切れ目につま先がかからず、右足が先に乗り、つま先が前に引っ張られる。
 左足はまだ後ろに残っている、また割き状態になるまえに、遅れた左足がなんとか、右足と揃って鉄の階段の真ん中に乗れた。
 「そうだ、簡単だろう」。父親の声は、よくできたという賞賛に聞こえた。
 かろうじて右手が手すりに届いた。硬く赤いその手すりは、温かみがあり、いままで触れたことのあるどんな感触とも異なっていた。
 「今度は降りる番だよ」
 父親の手をしっかり握り締める。
 階段は容赦なく前へ進み、やがて平板になっていく。
 また緊張感が襲ってくる。自分の足元が平板になっていくときに、前に出した右足がまだ動いている部分に触れた。やがて、平らになった階段は吸い込まれるように消えていく、つま先が境目にそのまま残る、追いかけるように左足が送り込まれてくる。
 両足が、銀色をした鉄の床に揃う。父親が固まっている自分を軽く前に押した。そこからは自力で歩きなさいというように。
 一歩前に進むと、そこからは自然と歩くことができた。動く階段はいままでにない経験であり、歩く動作に移った瞬間に、つんのめるように思わずたたらを踏むことになった。
 反射的に父親の手を握り返した。
 動く階段に初めて乗ったときの怖れと気後れは、ずっと後まで記憶に残った。
 「ほら、もう大丈夫だから立ち止まらずに歩きなさい」
 振り向くと次々に動く階段が人間を運んでくる。
 正太は、急いでエスカレーターから離れた。
 今まで自分を動かしていた力がふっと消え去り、自分の足で歩いている。
 エスカレーターから解放されたとき生まれた力の空白が、運動感覚とうまく合致せず、異空間にまぎこんだようなふわふわとした不安定さが、しばらく残った。
 正太は、エスカレーターから少し離れたところに立ち次々に上ってくる階段を見つめた。

正太の疑問
 果てしなく続いてくる階段はどこから来るのだろう、階段が尽きることはないのだろうか、その一点に疑問が固まっていく。
 父親に聞こうと思ったが、普段からなぜ?と聞くと自分で考えてごらんと返事されることは分かっているので、あれこれ想像してみることがいつからか習慣となっていた。
 考えてみた結論は、紙テープのように巻いた階段がどこかにしまってあって、それを上りに向かって巻き上げているのだということだった。
 その考えに、正太がすぐ納得できたわけではない。
 なぜなら鉄の塊の階段をどこにどうやって巻き込んでいるのだろうか、という点がひとつ。そして、もうひとつは、巻き上げた階段はどうやって巻き戻すのだろうかの2点だった。
 発想の元になったのは、幻灯機のフイルムを巻いている輪だった。上から下にフイルムを巻きとることで、シーツでこしらえたスクリーンに映る映画を見ることができる。映画が終わると、下から上に逆に巻き戻す。
 同じように夏休み小学校の校庭で開かれる映画会、校庭には太い柱が建てられ、そこに白い布スクリーンが張られる。スクリーンの反対側には、4本の丸太を組み、板を敷いた櫓の上に、映写機がでんと置かれている。映写機の上下には、大きな輪があり、上の輪にぎっしりと巻かれているフイルムがシャラシャラと音を立てながら、下の輪へと巻き取られていく。
 映画が終わると、逆に上の輪に巻き取っていく。
 ただし、今度は映写機を通さず下の輪から一気に巻き取る。
 あれだ、きっとそうだ、間違いない。正太は、自分で考え見つけ出した答えに納得した。
 あとは確かめるだけだ。先生はいつも言っている。答えを書いたら、間違っていないか何度も確かめることと。
 しかし、エスカレーターを巻き戻す時間は、お客がみんな帰った夜中になるから、自分の目で確かめることはできない。正太は、そうなったら自分の考えた答えを、父親でも先生にでも聞けばいいのだとそのときは考えていた。
 正太にとってラッキーだったのは、思いもかけず答えを確かめるチャンスが巡ってきたことだった。

謎が解けた
 この前、エスカレータに初めて乗ったデパートにまた行く機会が訪れたのだ。
 その日、正太は土曜日の学校が終わってから、母親に連れられて、二時間かけて東京駅についた。そこで、仕事を終わった父親と待ち合わせしたのだ。母親が、和服を買うというので、父親はその間、邪魔になる正太を連れてデパート中を見学し始めた。正太にとって、デパートは遊園地以上に魅力に溢れていた。
 正太が暮らしているまちは、東京の西の山間にある。都心に出るには、途中の大きな駅での乗換えが必要だった。乗換駅までの電車は4両連結で、床は木製でオイルを塗ってあるように黒光りしている。乗り換えた電車は10両連結で、床は灰色でつるつるした見たこともない素材だった。電車が都心に進むにつれて、高いビルが見えてくる。駅に人もいっぱいいる。
 母親はときどき窓の外の風景を指差して、あれがなになに、あっちがなになにと建物について説明するが、流れるように去っていく建物群に目を奪われていて、耳にはなにも入らない。突然、窓の外に大きな池が見えてきた。
 何でこんなところに大きな池があるの」思わず母親に問いかけた。
「ここは昔のお濠のあと」
「お濠って?」
「江戸時代に、お城を守るためにつくったのよ」
「だからお濠って?」
「池のようなものよ、敵が攻めてきたときにお城の中に入れないようにするの」
「お城はどこにあるの?」
「ここからは見えないけれど、そのうち連れて行ってあげる」
 そんな会話を交わしているうちに、終点の東京駅へ。ホームに降り立って、驚いたのは流れる人の群れだった。
 父親は約束していた場所にすでに着いて待っていた。
「正太、おなかは空いていないか」
 父親の言葉に、思わず生唾を飲み込む。どうせお父さんと会ってから何か食べるから、お昼ご飯は簡単にしておきましょうね、という母親にいわれて出された、おにぎりを一個だけ食べたきりで、電車に揺られたのでおなかは十分に空いていた。
 父親は、明治生まれで正太は、父親が36歳のときの子どもで、干支で三回り違いだった。
 寡黙で、怒ると怖かったが、いつもは穏やかでやさしかった。
 ただし、母親には厳しい言葉を浴びせることが少なくなかった。
 時に激高すると、ちゃぶ台をひっくり返すこともあり、正太は、飛び散った料理やご飯をみると、父の怒りに対してではなく、散乱した食べ物に物悲しさを感じて、目から意味もなく涙が流れてきた。
 そんなことは滅多になかったが、ちゃぶ台での一家揃って食事するときに、正太は、いつもなんとなく気持ちに引き締まるもの感じた。
 東京都心のデパートの食堂は、建物のいちばん上にある。屋内でいちばん広いところいえば、通っていた小学校の講堂ぐらいだが、その何倍もある。入り口で食券を買って、ずんずんなかに歩いていく両親の後を追いかける。
 昼時をはずしているので、客の姿は少ない。あいているテーブルが寒々しさを感じさせた。食券を買い求める前に、大きなショウウインドのなかの見たこともない料理から、何を選んでいいものかわらず、まごまごしているうちに、「正太はお子様ランチでしょ」、という母親の一言で、決まった。
 それは、青い車の形をした陶器製のうつわで、後の座席に、トマト色をしたご飯、小ぶりなハンバーグ、その上には目玉焼き、前の座席には、パイナップルとりんごの果物とキャラメルの箱が載っている。
 正太が座席について、数分するとショウウインドで見たとおりの、陶器製の車を濃紺の制服に身を包んだお姉さんが、運んできてくれた。
 食堂の窓からは、林立するビルが見える。正太の住んでいるまちでいちばん高い建物といえば、3階建ての駅舎だけで、小学校の校舎は二階建てだった。
 食事が終わったあと、窓際まで言ってみたが、遠くは見えても下のほうは見えなかったので、高さがどれほどのものかは分からなかった。
 父親に手を引かれて、前に乗ったエスカレーターに乗り、上の階を目指す。
 今日こそ、エスカレーターの鉄の階段がどこにどうやってしまわれているのか確かめたい。
 ところが、その疑問に対する答えを、間もなく正太自身の目で確かめることになる。
「電車が込む前に、帰ろうか」
「そうですね」
 そんな父母の会話が、正太の楽しい時間に終止符を打つのはいつものことだ。
 正太は、おもちゃ売り場にいたが、父母がそこに迎えに来たのはもう夕方近かった。父母は、正太の手を引いて、エレベーターに向かった。
 下りはいつもエレベーターを利用する。
 その理由は、エスカレーターは上り専用しかなかったからだ。
 1階に着く。正太は東京駅に向かう人並みにもまれる父母の間に挟まるようにして大丸デパートを出た。そして、振り返った。
 そこで見たのは、ガラス越しに見える例のエスカレーターだった。
 なんと、エスカレーターに乗っている客は、みんな下向きなっている。正太はもう一度確かめた、そのエスカレーターは来たときに正太自身が父の手をしっかりと握って登ったそのものに間違いないことを。
 正太はうなずいた、そして納得した、のぼりのエスカレーターが上に完全に巻き上げられたので、明日のために、下のほうに巻き戻しているのだと。
 でも、確かめたこの事実を、正太は自分だけの秘密にして、誰にも話すことはなかった。
 自分が見たこの劇的なエスカレーターの逆回転を人に教えるには、もったいなすぎる気がしたのだった。