2010年12月

花咲くお風呂

お風呂がバスルームに


 正太の家にはお風呂があった。

 近所でお風呂のある家は珍しく、お風呂がない家では、隣近所でお風呂のあるうちにもらい湯したり、銭湯にいくのが普通だった。

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 正太の家のお風呂は、引っ越してきた当時は湯船が古びた桧だったのを、二年後に改装したのだった。  壁から床は白タイル、湯船は縁が青いタイルで、中は白だった。桧の時と比べると、見違えるほどど豪華で父親は、「風呂場がバスルームになった」と横文字を使ってたいそうご満悦だった。それを聞いた正太も正太で、「どうしてお風呂のがバスになったの」と車のバスと勘違いして訳もわからないまま無邪気にはしゃぐばかり。

 「正太、友達にそんなこというとバカにされるから、絶対に外では言っちゃだめ」と、小さい姉に釘をさされても、「うちお風呂がバスになった」という正太の口を封じることは、もはやできなかった。

 お風呂の完成日には、恥ずかしいからいやだという母親を無理矢理水風呂に入れて、写真を撮り大阪の親戚に送るのだなどと、父親はカメラを取り出してまたひと騒ぎ。

 湯船は扇形をしていて洗い場は広く、兄弟4人で入っても十分よゆうがある。

 姉たちは、母親が手を離せないときに、正太をお風呂に入れて、といわれて仕方なくいっしょに入ることはあったが、正太は湯船でおならをするからという理由で滅多に入らない。

 兄は、いっしょに入ると、湯船に沈んで潜水遊びを教えてくれたり、シャボンの箱に手ぬぐいをかぶせて、口をつけて息を送ってはぶくぶくと泡を吹き出すなど、いろいろと風呂遊びを教えてくれた。

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 風呂当番

 4年生になった春から、正太は家のことを手伝うようになった。もちろん自分からそうすると言ったわけでもなく、母親がそろそろ正太も家のお手伝いをするようにということで、風呂当番を任せられるようになった。

 「学校の当番もちゃんとできないのにお風呂なん沸かせっこない」と例によって小さい方の姉が、憎まれ口をきいたが、「だからこそ、役割を決めて責任を持ってやらせるようにしなければ、正太はちゃんとできますね」と母親のいつになくきつい言葉に、正太はしっかりと頷いた。

 風呂釜は風呂場の外にあった。

 釜は銅製でずんぐりとした円筒状をしており、中は上下二重構造になっている。上には上がり湯用のタンクがあり、下が風呂の湯沸かし用になっている。

 正太は風呂を沸かす前に必ず確かめなければならないことがある。第一番目が、湯船に水を満たすこと、忘れると空炊きになって風呂釜を傷めてしまう原因になる。

 これだけでも責任は重大だった。

 二番目に上がり湯のタンクに水を満たすこと、これはタンクについている専用の蛇口をひねっておけばいいのだが、そのままにしておくとせっかくの上がり湯が使っているうちに冷たい水でさめてしまうので、その日に使うぶんを入れたら、蛇口を閉めておかなければならない。主に、父親や姉たちが頭を洗うときに使うので、坊主頭の正太にはあんまり関係がなかった。

 お湯を沸かす燃料は、薪だった。

 炭をうっている店から、ひと月おきぐらいに薪の束が配達された。薪の束をしっかりと巻いている針金をはずして、その日に使うぶんを風呂窯のところに運んでおく。 

 新聞紙をグシャグシャにもんで柔らかくして、釜にくべる。その上に裏山でいくらでもひろえるヒバの木の枯れ葉を、こんもりと山のようにしておき、新聞紙の下の方からマッチで火をつける。すぐにヒバの枯れ葉が、パチパチと音を立て始めるので、そうしたら細目の木枝をそっとくべていきそこに薪を乗せていく。乾いてる薪ならすぐに燃えるが、外においてある薪は雨などに濡れ湿気ていると、くすぶって煙が外にまでもれてくる。

 こうすると薪に火がつきやすいと、裏山のヒバの枯れ葉を使うように教えてくれたのも、細い木の枝を積み重ねるようにくべるように手取り足取り教えてくれたのも、兄だった。やってみると確かに、一発で火がつき、あとは火が消えないように気をつけながら、お湯加減をみながら沸き上がるのを待つだけだった。


冬の風呂たき

 なんといっても寒い冬の風呂たきはうれしかった。

 釜の中の赤い火をみているだけでも、気持ちがぬくくなる。夏は、なんとか釜から遠のいていたいと思うが、

 冬は、風呂を沸かす時間がくるのが待ち遠しい。

 正太の住むまちは、東京でも山間にあるので、冬になると猛烈な寒さになった。都心では雨というときには、かならずと言っていいほど雪になる。裏山は南向きだが、一山超えた北向きの山では、降った雪がななかな溶けずに、ずっと残っている。

 そのあたりの山あいの田んぼは、冬ともなると全面が凍って、天然のスケートリンクになり、ゴム長靴の下に竹を細く切って ひもで結び、スケート靴がわりにして子どもたちは、滑っていた。  大人は、北の斜面につもった雪で、スキーを楽しんでいる。

 正太は、電車で西に5つほどいった駅にある、天然氷のスケート場に遊びに行くので、スケート靴をもっていたが、田んぼのスケートリンクでは、手すりががないので、どうしても怖くてなかなか滑ることができなかった。しかも、みんなが長靴で滑っているのに、ちゃんとしたスケート靴ははいているとかえって恥ずかしく、入場料は無料だけれど、スケート靴で滑る勇気はなかった。

 「お父さんが、今日は早く帰るといっていたから、お風呂を早めに焚いておいて」

 と母親にいわれ、夕飯前から顔を照らず真っ赤な火に、頬を赤く染めて、その日の夕方も風呂釜の前に座っていた 。

 いつものように、火おこしをして、薪がしっかり燃え始めたところで、正太は本をとりだした。  

 冬は、風呂を沸かすにも時間がかかるので、釜のところに座る場所をこしらえて、好きなマンガや図書館で借りた本をもっていって、読むことにしている。

 「正太、まちがって本を釜にくべないでね」

 母親から、冗談とも本気ともとれるような注意をうける。

 以前に、庭でたき火をしていて、うっかりマンガの本を読み終わったと思って燃やしてしまい、わんわん泣き叫んだことがあり、その時から母親は、正太のおっちょこちょいぶりを心配している。

 早く帰った父親といっしょに風呂に入る。

 父親の背中を流し「正太は力があるから、背中を流してもらうと気持ちがいい。湯加減もちょうどいいし、正太はよく家のことを手伝っているのでえらい」

 父親のほめられて、正太はうれしかったけれど、照れくさかった。

 「あんまり長湯していると、のぼせますよ。でたらよくふかないと風邪引くから注意してください」 

 風呂の外から、母親の声が聞こえるのもいつものことだった。

 暖まったあとは、もう寝るだけ。

 子ども部屋の自分のベッドにいくと、お風呂後の正太は、いつもあっと言う間に寝ついてしまう。

 「正太は、すぐにねられてうらやましい」

 「何にもしないで、動き回っているし、なんといっても悩みがない少年だもの」

 と兄や姉たちは、ぐっすりと寝込んでしまった、正太の鼻をつまんだり、耳をひっぱたりしている。

 夜寝るのが早い正太は、目覚めるのも早い。

 兄弟の誰よりも早く目覚め、父親の食事の準備をする母親といっしょに起きてしまう。冬の外はまだ真っ暗だ。

 「正太、お風呂場にいってごらん」

 正太は、母親に促されて、台所のおくの風呂場の引き戸を開いた。

 中はまだうす暗い。引き戸の横にあるスイッチをパチンとあげる。

 風呂場がパッと明るくなった。

 「わーきれい」。正太は思わず声をあげた。

 風呂場のガラス戸というガラス戸に、真っ白い氷の花が咲き乱れている。

 母親がいつの間にか正太の後ろにきて、いっしょに窓に咲いた氷の花をみている。

 外の寒さで、風呂場の湯気が窓ガラスに凍り付き、さまざまな花模様になっているのだ。大きい花、小さい花、中には太い茎のまわりに開いているように見える花模様もある。どれもこれも真っ白だが、それぞれに不思議なほど花の形を描いている。

 「お母さん、これは菊みたいだ、こっちはダリア、チューリップもある、あっ、バラだ」

 正太は、自分が知っている限りの花の名前を大きな声をあげならが指さしていく。

 花を爪でひっかいてみると、細かい雪のように削れ落ちる。 

 「きれいな花模様は、正太がわかした湯気でできたのだから、正太がいちばんにみる資格があるでしょう。だから早く起きてこないかとまっていたのよ」

 「お兄ちゃんたちも起こしてこようか」

 「ほら、もう溶けてきたでしょ。部屋の温度があがると、すぐに消えてしまうから、正太一人で楽しみなさい。これからも寒い毎日がつづくから、何度でもみられます」

 母親いうとおり、見始めたときに比べると、もう花は あちこちで溶け始めている。

 正太は母親がいった通り、それから何度も花咲くお風呂の景色に出会うことができた。

 

  

 

 


自転車2号

いいことは...。

 いいことは、いつも突然にやってくる。

 それは、正太の父親の口ぐせだった。

 正太もその言葉が大好きだった。

 まだ早いと言われ続けていた月ぎめの小遣いも、予定より早くもらえるようになったし。 

 せがんでいたけれどなかななか買ってきてもらえなかった、少年雑誌「少年」も、父親が買ってきてくれたのは、ある日突然だった。

 そういえば、父親の職場見学をして、サラリーマンという仕事を確かめることができたのも、何の予告もなくやってきた。

 思い出しても数え切れないほど、いいことは突然やってきた。

 小学校4年生になって、正太はの毎日はすこしずつだけれど、忙しくなってきた。

 3年生から通いだした絵の教室に加えて、最近は習字の手習いに塾にもいっている。絵の教室は家から山の裾沿いに西の方へ歩いて20分ほど。習字の手習いは、駅の線路沿いの花屋の二階にあり、歩いて6分ほどだった。

 それ以外にも、英語の教室にも通い始めた。

 母親よりも父親の方が、これからは英語がしゃべれるようになっていないとならない、というこだわりがあったからだ。

 町役場の前の坂を下りた途中にある教室には、正太の同級生も何人か通ってくるなど、けっこうな人気だった。

 それぞれ正太の足で通うのに時間がかかるわけではないが、それはそこ正太には正太なりのいいぶんがあった。

 いわく、学校で遅くなると、急いでいかなければならないから、「ボク、自転車がほしい」となる。

 正太の家には、自転車が一台あった。

 もちろん大人用で、重い。自転車の製造会社はミヤタだった。

 無骨で頑丈な一般的な自転車に比べるとハンドルやサドルはスマートで、色もほかは黒一色なのに、淡い緑色でサドルは茶色い革製でおしゃれだった。

 主に母親の買い物用であったが、兄や姉も市内の友だちの家に行くときや、もちろん父親も映画を観に行くときに乗っていった。

 正太には、まだ乗れない。

 第一、玄関の下にある石段が急なので、自転車を道路におろすことすらできない。

 大人用の自転車に乗るには、三角乗りという特別な技を身につけなければならない。大人用の自転車の前輪と後輪の間の三角フレームに、器用に右足を差し込みペダルを踏み、左足でもう一方のペダルを踏んで、バランスをとって前へ進むのだ。

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 大人の自転車に三角乗りして、放課後に野球をしにきたりする同級生が正太は、うらやましくてしかたなかったが、その三角乗りがどうしてもできない。

 かといって、子ども用自転車というのは、自転車屋にも売っていなかったし、まちでも滅多にみかけない。

「正太は、三角乗りもできないのに、子ども用自転車なんてぜいたく、せいたく」と例によって小さい方の姉が、声をあげて反対する。

 「でも」

 「はいはい、でもなんですか?早く答えてごらん」

 ますます憎たらしい。

 「でも、ボクだって自転車乗りたいもん」

 「だったら三角乗りをおぼえればいいじゃない」

 正太ができないことを知っていて、さらに嫌みたらしくいいつのる。

 「お姉ちゃん、いい加減にしないさい」

 母親が止めなければ、果てしない言い合いがつづくことになる。

 「お母さんは正太に甘いから、正太はつけあがるのよ」

 「でも、正太の自転車に乗りたいというきもちも、大切にしてあげないとね」


マーちゃんのお父さん

 マーちゃんと言うのは、正太の友達で本名は雅昭という。

 正太が、小学校から帰ってきて家の前までくると、そのマーちゃんの父親が、玄関下の石段の前で、正太の方に背を向けてしゃがみ込んでいる。なんで後ろ姿をみただけでマーちゃんの父親だとわかるかというと、その服装と頭にかぶっている帽子だった。

 見慣れた灰色の上下と同じ色の帽子は、自転車屋の制服だった。

 「おじさんこんにちは」正太は後ろから声をかけた。

 「おっ、正太か、お帰り」

 太い黒縁のめがねの奥で、優しい目が笑っている。

 「おじさん、なにしてるんですか」

 「うん、おじさんは自転車屋だから、自転車を運んできて、いま調整しているところだ」

 よくみるとそこには、フレームが青い一台の小型の自転車がある。

 マーちゃんの父親の手には、青いペンキのついた刷毛が握られている。

 「上に行ってお母さんに、ただいまをいってからここへ下りてきてごらん。それまでには、きれいに色を塗ってしあげておくから」

 正太は、その自転車が自分の自転車であることを知って、飛び上がるように石段をかけあがり、勝手口にいそぐ。引き戸をあけるやいなや、「お母さん下に、マーちゃんのお父さんが自転車を持ってきてくれた」と大声で叫んだ。

 「そうよ、前から古い自転車でいいから子ども用のがあったらって、お願いしていたら、ちょうどいいのが見つかったって、さっき持ってきてくださったの」

 正太は、ランドセルを床に投げるようにして、玄関下に戻る。

 やっぱり、いいことはいつも突然やってくる。

 青い自転車は、もうすみずみまでペンキが塗られ、まるで新品のようだった。

 「ペンキが乾くには今日一日かかるから、乗るのは明日からだな。ブレーキやペダルは新しくしてあるし、錆もきれいに落として油をしっかりさしてあるから、大切に使えばまだまだ十分乗れる」

 マーちゃんの父親は、手につていたペンキなどの汚れをふきながら、正太にいった。


練習開始


 正太は、自転車に乗るのは生まれた初めてだった。

 乗れるようになるまでは、同級生などにみられないように朝早く、大願寺の庭に自転車をもっていって練習することにした。

 足は、かろうじて地面に着くけれど、いざペダルを踏むとなるとバランスがとれずに、前輪がゆらゆらと揺れて、ちょっと油断すると自転車全体が傾き、どちらかの足を着こうとしても、そのまま滑って自転車ごとひっくり返ってしまう。

 一日目は、その繰り返しで終わった。

 学校から帰ってからも練習したいが、同級生の目が気になるので、正太に練習を躊躇させた。

 「お兄ちゃんお願いがあるんだけれど」

 「宿題は自分でやること、お風呂の当番は正太の仕事」

 「そんなのわかってる。お願いというのは自転車の乗り方を教えてほしいの」

 「なんだ、そんなことか。よし、特別に教えてあげよう」

 ということで、正太はその翌日の土曜日に、朝早くから今度は小学校の校庭に自転車をもっていった。

 早朝の校庭には、誰もいない。

 「正太、自転車にまたいでごらん。後ろの荷台をおさえててあげるから、そのままこいでごらん」

 正太は言われるままに、サドルにまたぐ。

 後ろの荷台を支えてくれているので、多少ふらふらするけれどなんとか安定している。

 「ゆっくり押していくから、正太はペダルをこぐんだよわかった?」

 「うん、それじゃあ押してみて」

 兄が荷台に手をおいてゆっくりを前に押し出す。それにあわせて正太もペダルをこぐ。しかし、1メートルも行かないうちに、自転車は蛇行してそのままタイヤが横滑りしてしまった。

 「まだ手を離したらだめだよ、お兄ちゃん」

 「でも、手を離さないといつまでたっても、乗れるようにならないよ」

 「だからぁ、ボクがいいっていうまではなさないで」

 「よし、わかった」

 今度は、少し長く荷台をつかんだまま、いっしょに兄は自転車と走る。

 「離すよ、いいかい」

 「まだまだまだ、もう、いいよ」

 といった瞬間、自転車はまた蛇行して横滑りした。正太はなんとか右足をついて自転車を支える。

 「いいって言う前にはなしたでしょう」

 と正太のほっぺたが膨らむ。

 「正太、教えてもらうんだから、そんなに怒ったらだめだ。いいかい、お兄ちゃんがしっかり荷台をつかんでいるから安心して、正太は前を向いてしっかりペダルをこぐことだけを考えてごらん。わかった?」

 正太は必死だった。兄に注意されてからは、なんど滑ったり転んだりしても、前を向いてひたすらペダルをこいだ。

 もう何回繰り返したか分からないほどになったそのとき、正太の自転車はまっすぐに走り、走り、走り校庭の真ん中から端まで、走りきった。

 「お兄ちゃん、できた」

 止まった瞬間に自転車は倒れたけれど、正太は立ち上がって、大きな声で叫ぶ。

 「正太、もう自分一人で乗れるはずだ。やってごらん」

 兄は両手を口に当てて、大きな声でいった。

 兄のひとことに励まされるように、正太は今度はひとりでその場からペダルをこいだ。最初にはふらふらしていたけれど、やがてしっかりとまっすぐ進むようになり、兄のところまで帰ってきた。

 「すごいぞ。正太、もう自由に乗れるね」

 「うん、お兄ちゃんありがとう。僕、自転車に乗れるようになった」

 自転車に乗れるようになって、正太はまたひとつ上級生に仲間入りができたように思えた。

 

 正太の自転車の後輪の泥除けには、正太の名前と2号という数字が白いペンキでかかれている。マーちゃんの父親が、ペンキが乾いた翌日にやってきて、「正太のうちには自転車がもう一台あるから、この自転車は2号ということだ」といいながら書いてくれたものだった。