2010年9月

正太のお父さん その2


東京へ

 いつものように土曜日は半ドンで、お弁当の時間もなく、お昼に授業が終わると正太は、家路についた。

 お腹もすいているし友達と遊ぶにしても、昼ご飯を食べてから大願寺の庭か校庭へ行けば誰かしらいて、仲間に入れておもらえる。

 台所の入り口の引き戸を開けると、母親がよそ行きのかっこうをして正太の帰りを待っていた。

 「正太、いそいで着替えなさい。これからお父さんの会社に行きます。お昼ご飯はちょっと我慢しなさい。向こうについてからお父さんといっしょに三越デパートで食べますからね」 

 正太はポカンとしている。

 「ほら急いで急いで。電車に間に合わなくなります」

 正太は用意してあった、服に着替える。靴も学校に行くときにいつもはいているゴム製のズックから、布製のちょっとおしゃれな靴にはきかえる。

 「ぼく、東京へ行くことなんにも聞いてないよ、おかあさん」

 「そんなこと、正太に朝いったら学校中に知れわたってしまうでしょう。だから黙っていました」

 有無を言わせぬ母親の話しぶりに押されたわけではないいけれど、正太の頭はもうすでに、東京、お父さん、三越デパートで昼ご飯、とまるで夢のような世界にきっちりと切り替わっていた。それからあっと言う間に家を後にした。

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 電車はもう駅のホームで待っていた。

 急いで切符を買い、ホーム下の地下道を足早に抜けて、ホームの電車に飛び乗った。

 車掌の笛の音で扉が閉まって4両の電車はゆっくりを動き始める。

 「ああ、間に合ってよかった」

 誰に言うでもなく母親が安堵したように一言。

 「この電車に乗れないと、次は何時?」

 「30分後でしょう。乗り換えの便も悪いので、この電車に絶対に乗るようにとお父さんからいわれていたの」

 正太は、電車に乗ると靴を脱いで、窓に向かって座席に座る。

 電車の窓から正太が通う小学校が線路越しに見える。グラウンドでは、子どもたちがドッジボールや野球をしている。

 30分ほどで乗換駅に着き、待つことなくすぐに、東京行きの電車がきた。

 空いていて、正太と母親はゆっくりと座れた。

 正太と言えば、相変わらず窓に向かって座って外をじっと眺めている。

 電車は4両から10両になり、窓は3段階に開く新しい車両だった。

 3段の窓のうち二段を押し上げて開け、窓に枠に肘をおくようにして、外の風を浴びながらじっと座っている。

 乗換駅から線路沿いの風景は大きく変わった。それまでは畑などが多かったけれど、いまはたくさんの家々が、どこまでも広がっている。

 新宿駅に着く。ホームもたくさんあり、周りの建物は正太のまちとは比べものにならないほど大きくて高い。

 ホームでは大勢にの人が、あわただしく動いている。

 新宿を出てしばらくすると、目の前に大きな池が見えてきた。そこは視界が開けて水面に対岸の建物などが映っている。

 正太はこの風景が大好きだった。

 以前にも母親に連れられて、東京駅までに行ったときに、この池が大昔、お城があったころに、できたお濠の名残である事を教えてもらった。

 「お母さん、これは池じゃなくてお濠なんだよね」。

 正太は自分の知識を確かめるように話した。

 母親はうなづく変わりに「正太、もうすぐ神田につくから、靴を履きなさい」とだけいう。

 「えっ東京駅まで行かないの?」

 「お父さんの会社は神田駅から行きます。帰りは東京駅から乗りますからね」

 正太が初めて下りた神田駅のホームは高架になっており、改札をでると煉瓦で造られたアーチをくぐり外に出る。駅の線路沿いに粗末な家が並んでいる。中にはトタン屋根にただ板を打ち付けたような今にも倒れそうな家もある。そこがみんな飲み屋や闇市の店になっている。

 まだ太陽が高いのに、飲み屋でお酒を飲んでいる客も見かける。

 そこが闇市であることを、正太は後で父親から聞いた。

 いろいろな人々が、ぞろぞろと歩き回り、その不気味さに母親の手を握る正太の手に力が入る。


お父さんの会社

 食べ物やほこりっぽい臭いがまざったごちゃごちゃとした通りを抜けると、広い道路にでる。突然車の警笛の音が響き、目の前を大きな乗用車が走り抜ける。

 「正太はここは車が多いから、お母さんの手を離してはいけませんよ」

 言われなくても、正太は離すものかと必死だった。

 広い交差点で信号が変わるのを待って向こう側へわたる。

 「ほら正太、ここがお父さんの勤める会社。正太もよく知っているマークがついているでしょう」

 「本当だ、お父さんの着ている洋服の襟についている記章と同じだ」

 正太は、見上げた建物の壁についている看板のいちばん上に、見慣れたマークをみつけて大きな声で叫んだ。

 建物の入り口は、とても変わっていた。

 隣の建物と比べても、そこだけが別の世界のように輝いて見える。

 入り口全体は厚いガラスのようなもので覆われていて大きな筒を半分に切ったような形で建物から道路側にせり出している。ガラスは、よく見ると一つ一つが四角で、それが集まっている。まるで図鑑で見たトンボの目のようだった。入り口の扉も半円にあわせるように、丸みがあって、取っ手を軽く引くと左右に開いた。天井もすべてガラスで覆われているので、中はとても明るい。

 扉は反対側にもあって、人が出入りしている。

 中にはいるとさらにもう一つスリガラスをはめた扉がある。母親がゆっくりと開くと、その先は広場のようになっおり、すぐ右側に長いカウンターがあって女性が一人すっと立ち上がった。

 「あ、いらっしゃい。正太さんでしょう、お待ちしていました。課長にすぐ連絡します。そちらのソファーでお待ちください」

 呆気にとられて正太は、その声の主をみた。

 正太の家にきたことのある女性だった。

 でも、青い上っ張りのようなものを着ているので、とっさにはわからなかった。

 「正太さん、お姉さんのこと覚えている?」

 電話をすませると、その女性は、カウンターの向こうから出てきて正太の前で腰を屈める。

 「・・・」正太は、かろうじてうなづいた。・

 「ああ、よかった、正太さんのおうちではお世話になりました。お母さんもよくいらっしゃいました。いま、課長が下りてきますから」

 正太の母親にきちんと挨拶すると、二人をソファーへと案内する。

 ここがお父さんが勤める会社なんだ。正太はようやく落ち着いてから、周りを見回してみる。天井は高いし、広場の奥には幅の広い階段があって、そこを忙しそうに人が上り下りしている。

 「正太。正太がこの間、八百屋さんや魚屋さん、おけやさんはどんな仕事しているかわかるけれど、サラリーマンは何をしてるのかわからないって言ってたでしょ。だからお父さんに相談して、いちどお父さんがどんなところで働いているか正太に見せてあげようと言うことになって、今日きたのよ、わかった?」

 「うん、ここでお父さんは働いているんだね」

 大きな建物と言えば、学校と映画館ぐらいしか知らない正太にとって、父親の勤める会社の中を見ることは、まったく未知の世界だった。

 厚いガラスでできた入り口、中に入れば広く天井が高い。学校の校舎の中にもないような、幅が広くゆったりとした階段。天井からぶら下がる大きな傘のついた電灯。など、何もかも初めて見る世界だった。

 「お父さんだ」

 階段から下りてくる父親を見つけて正太は長いすから立ち上がった。


一枚の写真

 「正太、お父さんの勤めている会社をこれから見せてあげよう。今日は半ドンでもう社員もいないから、ちょっと二階に上がってみよう。お母さんはここで待っていなさい」

 正太は父親に手を引かれて、広い階段を上り二階にいく。

 階段を上りきると、広い通路があり、階段はさらに上に続いている。

 通路を進むと左右にいくつもの扉があり、父親はその一番近い扉を開く。

 「さ、入ってごらん。ここがお父さんの仕事場、経理部だ。社員はもうほとんど仕事が終わって帰ったけれど、忙しいときは、ここでそろばんをはじく音や電話の音がしてそれはにぎやかだ」

 「お父さんの机はどこ?」

 正太の言葉に、父親は部屋の奥に向かって歩く。

 整然と並んでいる机の間を、抜けるように進む父親の後を正太もついていく。

 窓側の一段と大きな席の前で立ち止まり、「ここがお父さんの席だ。椅子に座ってもいいよ」

 正太は、背もたれと肘掛けのついた木製の椅子によじ登るようにして座った。

 ビロードの座席が、ごわごわしている。

 背もたれに体をあずけると、目の前のテーブルの上に敷いてあるガラスに、天井の電灯が映る。

 机の前には、二列にくっついた木製の机が延びている。

 机の上には黒い電話やオレンジ色をした紙製の籠がおいていある。

 きちんと片づいており、それ以外のものはなにもない。 

 「お父さん、みんな机の上がきれいだね」

 「正太、お父さんたちの経理の仕事は、会社の重要なことが多いから、仕事が終わったら書類はみんな金庫にしまうか、鍵のかかる引き出しにきちんとしまっておくきまりになっている。だから机の上には、なにも残さない」

 正太は父親の机をみた。敷いたガラスの下には緑色の敷物があり、ガラスとの間には、いくつかメモのような紙が挟まっている。

 その中に、正太は家族の写真があるのに気づいた。家の前の庭で、正月にみんなでそろって撮った写真だった。撮った写真はすべて写真帳に貼ってあるのに、そういえばこの写真は見たことがない。

 正太は、写真のことを父親に聞こうと思ったが、父親はもういいだろうと言う感じで、正太に椅子から降りるように促した。


 姉と兄

 その日帰宅して、夜寝るとき、子供部屋で正太は作り付けのベッドのに入ってから、まだ勉強している姉と兄に、父親の会社にいったことを話した。

 独り言のようにしゃべる正太の話に、また、話が長くなりそうだなと適当に相づちを打ったりしていた姉と兄が、写真の話をした時に正太の方を振り向いた。

「お父さんて家族のことよりも仕事第一だと思っていたので、仕事場に家族の写真を飾っているの意外な気がする」と大きい方の姉がぽつりという。

 「私が行ったときにはそんな写真なかった」と小さい方の姉が言う。

 「いや、この前の正月に撮った写真だから、そのときにはなかったはずだ。姉さんは、そういうけれどお父さんは、とても家族思いだとボクはかんじている」兄がいう。

 「そうかな。あの東京大空襲のあった翌日、疎開先から自転車で会社まで行ったっていうでしょう。お母さんがすごく心配して、行かないように引き止めたけれど、会社が心配だってどうしてもいうことをきかなかったって、お母さんが怒っていた。もちろん、会社が大事なのわかるけれど、まだいつ爆弾が落ちくるかわからないし、電車でもたっぷり3時間かかるというのに自転車で、それも道路だってどうなっているかわからないのに行くなんて、無茶すぎる。もし、万一のことがあったら、私たち家族がどうなるか、そっちの心配をすべきでしょ。私は学童疎開していたからそのときいなかったけれど、その場にいたら家族と会社とどっちが大切なのって、必死に止めたと思う」

 大きい方の姉は、正太の知らない戦争中の父親の行動について怒っていた。

 正太は、父親がとても責任のある仕事をしている事を今日知ったので、空襲がどんなに危険かは分からなかったけれど、自転車で仕事場まで行ったのは、責任感が強かったからだろうと、姉や兄の話をきいて思っていた。

 「お父さんは、どんなことにもまじめなんだよ。いい加減なことはできな性格なんだ。だから僕たち子どもにも厳しいだろう。でも、意味なく怒られたことってないだろう」と兄。

 「そうだね。こっちに落ち度がないのに怒られたということは、ほとんどないもの」と小さい姉。

 「落ち度って?」正太が聞く。

 「落ち度って、いつも正太がしていること」と小さい方の姉が答える。大きい方の姉と兄が笑う

 それからも姉と兄の話はまだ続いたが、正太は今日三越デパートの食堂で食べた、お子さまランチのハンバーグのことを思い出しているうちに、目が重くなって寝てしまった。






  








正太のお父さん その1

サラリーマン

 正太の父親のことは、何度か話の中に登場しているけれど、どんな人物なのか。

 正太が生まれたのは父親が36歳の時で、干支が三回りちがいのひつじになる。

 正太の名前はもともとは正大と書いて読み方はまさひろであったが、区役所で出生届けを出したときに、書類の黒い染みが偶然「大」の字の左下についていて、大が太になってしまった。

 このいきさつはすでにふれているので詳しくは書かない。

 小学校に入る頃までは、家族はまさひろと呼んでいたが、隣近所や正太の友達が、ショウタ、正チャンなどとよぶものだから、いつの間にか家でもショウタと呼ぶようになってしまった。

 父親は届け出た区役所に名前の訂正を求めることもしなかった。

 そんなところからも正太の父親は、ある面おおらかであるが、ある面いい加減なところもあった。

 ダジャレを言うのが好きで、正太が大好きなダジャレはマヨネーズをはじめて食べたときに、「真夜なかに寝ずにつくるからマヨネーズという」といったことだった。姉や兄には評判が悪かったけれど正太は、おもしろいと思っていた。

 だが、毎日の生活のこととなると、厳格であった。

 それは仕事と関係していたようだ。

 正太の父親は、大きな製薬会社のサラリーマンで、経理部に所属していた。

 数字を扱う部署で万事にわたって細かいことまで、きちんとしないとつとまらない仕事ということもあって、普段の生活も規則正しく、整理整頓を怠らない。

 子どもたちや母親にも、厳格さを求めるところがあり、それに逆らったりすると、ちゃぶ台がひっくり返ることもしばしばだった。

 だから、正太の家族はよほどの無理難題なことでない限り、父親の言うことに逆らうことはしなかった。

 正太はまだ、よくわからなかったが、兄や姉は父親が間違ったことを言っていたり、無理強いしているのではないことをよく理解していた。

 父親は子どもたちを同じようにしかり、同じようにかわいがり、決してえこひいきすることはなく、つねに公平に接していた。

 そんなことも子どもたちが、父親を尊敬する理由になっていた。


茶筒にお湯

 「もう時間がない」

 父親のいつにない怒鳴り声に目が覚めた正太は、布団から抜け出した。

 母親が茶の間と台所を行ったりきたり、おたおたとしているのが子ども部屋のドアの隙間から見える。

 とうの父親は、ワイシャツに袖を通しながら、怒りが収まらない様子で、ボタンを留めるときもネクタイを締めるときも、いつもとちがっていらいらしているのがわかる。

 父親の会社は東京の日本橋にあり、正太が住む町からは電車で、二時間近くかかる。

 朝、6時40分発の東京行の直通電車に乗り、会社に着くのは8時40分。始業時間が9時だから、ゆっくり間に合う。

 だが、6時40分の電車に乗らないと次の電車は、時間があきすぎていて、始業時間には間に合わない。唯一の直通電車が、仕事場への貴重な足だった。

 毎日5時半に起床して、朝ご飯は6時ちょうど。父親は顔を洗い髭をそり、背広に着替えて台所の大きなテーブルに向かう。そこに母親が、温かいご飯と味噌汁、なにがしのおかずを出して、ゆっくりと朝食をすませる。

 食事が済むとお茶を飲みながら、新聞にざっと目を通す。

 日曜日をのぞいて、判で押したように毎朝同じことが繰り返されていた。

 だが、母親がちょっと寝坊することもある。

 すべて母親が悪いわけでなく、目覚まし時計が鳴らなかったり、うっかり起きる時間をあわせていなかったりしたことが原因だから、父親が注意していれば寝坊は防げるような事が原因だった。

 だが、父親はきちんとした時間に起きられなかったことの責任を、万事母親に押しつけて、いらいらぶりぶりと怒っているのだ。

 「ああ、もう時間がない、食事はいい」

 話し方の端々に刺がある。こんなことは滅多にないのだが、一日の始まりが万事きちんとしないと気が済まない父親の性格は、こんなときに特に現れる。 

 「でも、もうすぐ準備できますから」母親は台所から返事をする。

 「そんな急いで食べたら体に悪い」と父親の語気は、さらに強くなる

 「おなかを空かしたまま仕事にいく方が体に悪いでしょ」

 母親も負けてはいない。

 「いや、落ち着いて食べられない方が体に悪い」

 もうどっちが体に悪いかのやりとりになっている。

 「食事は、いいからお茶だけでも入れてくれ。茶腹も一時と言うだろう」

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 父親の言った、チャバラモイットキという意味が正太にはわからない。

 「まだお湯が沸きませんから、ちょっと待ってください」

 母親はますますおたおたして、石油コンロに火をつけようとしているが思うようにいかない。

 父親は、茶の間のちゃぶ台に前に座って、バサッ大きな音を立てて新聞を開く。

 その音に、母親はあわてたように、コンロの上のやかんをとりあげようとして、「アツイ」と声を上げ、あわややかんを落としそうになった。

 ガシャンという音に、茶の間の方から「もういいと言ってるだろう」という父親のいっそういらついた声が響く。

 そんな言葉にも母親は、大きめのお盆にやかんと急須と父親の湯呑み茶碗を乗せて、茶の間に運んだ。

 「いま、すぐ入れますから、お茶ぐらい呑む時間はあるでしょう」と、茶の間の柱時計をみる。

 「分かった急いで淹れなさい」新聞を閉じながら父親が急かす。

 母親は、茶筒のふたを開けると、やかんを取り上げてなにを勘違いしたのか、お湯を茶筒の中に流し込んでしまった。

 「なにやってるんだ、茶筒にお湯を入れをどうするんだ」

 母親は、さらにあわてて茶筒の中身を、急須に入れる。

 茶筒の中の茶葉が、急須からあふれてお盆の上に広がる。

 それを見て父親は、ちゃぶ台から立ち上がり、背広を着ると鞄をもって玄関から出かけてしまった。

 正太は一部始終をみていたけれど、そのことを姉にも兄にも話すことはなかった。

 ただ、後で兄にチャバラモイットキという言葉の意味を教えてもらった。

 お母さんも大変だったけれど、お父さんは本当にお腹が空いたまま、仕事に行ってしまったのだなということを知った。