引っ越し

消すことができない不満

 最高学年の6年生になって、正太の毎日は、それまでの小学校5年間の生活から180度変化した。とくに日曜ごとの塾の模擬試験と週二回の補習授業は、放課後や休日の楽しみを正太から取り上げ、めったに座ることのなかった子ども部屋の勉強机にへばりつく時間へと変わった。それでも、戸惑いと不満をいだいた新学期のころに比べると、本人に少しずつ自覚が芽生えてきたのか、勉強することに苦痛ではなく、楽しみを感じ始めていたのだ。

 それはそれ、勉強は6年生にふさわしい遊びだと、つねに楽観的な正太の性格が、いいように働いた結果だといえる。

 だから、この楽しみの先にはきっともっと大きな喜びがあると、信じていた。

 ただ一つだけ、どうしても消すことのできない不満があった。

 それは、塾で受ける模擬試験だった。

 通い始めた頃には、なにやら訳の分からないテストで、何度も鉛筆を投げ出したくなるような気持ちになったが、放課後の補習を受け続けているうちに、それなりに答えを書く要領のようなものが掴めてきた。

 テストの解答を、いつごろからまるで謎を解くように書けるようになったのか、あまり自覚はなかったが、補習を受け始めるときに、"模擬試験の準備"だと先生から言われたことが、その通りになったことだけはよく理解できた。

 しかし、「模擬試験を解くために補習を受けているのはわかった。じゃあ、普段の勉強って何のためにしているのだろう」と自問しても、そちらの答えは一向にわからない。

 正太の疑問に根気よく答えてくれる兄に聞いたが、「学んだことをどこまで理解できているか確かめるのがテストだけれど、模擬試験に出される問題は、合格、不合格の判定してふるいにかけることが目的だから、勉強したことの理解力を試す学校のテストとは、問題の出し方もちがってくるのさ」と、正太の理解力をこえた返事だった。

 兄は、高校三年で来年は、国立大学の受験を控えている。

 学校のテストは学んだことを理解しているのを確かめるためで、模擬試験はふるいにかけるためか、そうすると兄が受ける大学受験はそのふるいになるわけか。

「ふるいにかけるって、ふるいから落ちるのがいいの、それともふるいに残るのがいいの?」といつものように疑問をぶつける。

「ふるいに残る方がいいに決まっている」

「じゃあ、ふるいの目から落ちないようにするには、大きな粒になるといいわけだ」

「まあ、そういうことだね」

「大きな粒になるにはどうすればいいの」

「一生懸命勉強して、たくさん知識を蓄えること」

「蓄えるって、貯金をしなさいってことかな」

 兄は、これ以上話していると、正太の話がどこに飛ぶか分からないので、自分の机にむかってカシカシと鉛筆の音を立て始めた。

 "でも、たくさん勉強して知識を蓄えても、模擬試験の解き方を学ぶために補習を受けるのはどうしてなのか"という疑問は、いぜんとして謎だった。

 ただし、国語のテストなどでは、出題をよく読んで正しく理解しないと、答えがとんちんかんになってしまうなど、出題に引っかけがあったり、落とし穴が仕掛けられていることを、正太は少しずつではあるが、感じ始めていた。

 とはいっても、そうしないと正解の○がもらえないからであり、それが正太なりに理解している勉強する意味と一つになっていたわけではなかった。

 模擬試験で場数を踏むうちに、試験は試験でやり方があり、勉強は勉強でやり方があるのかなとも思い始めたが、勉強の後で学ぶ補習はやはり、問題を解くための訓練のようであり、満点を取るためのにやむを得ないことであるかもしれないが、もっとも大きな悩みは、それがひとつも楽しくはないということだった。


いそがしい夏休み

 夏休みも、それまでの小学校5年間とは比べものにならないほど忙しかった。

 学校での補習授業は休みになったが、その代わりに地元の塾へ行くことと、模擬試験の回数が増えたのだ。

 夏休みの宿題もやらなければならないので、大好きな川遊びや、山での木イチゴ採りなどは、どこをどう調整しても、時間の都合をつけることはできなかった。

「正ちゃん遊ぼ」

「ごめん、今忙しいからまた後で」

を繰り返しているうちに、友だちからの誘いは減り始め、ついには誰からも声がかからなくなった。

 都内での模擬試験には、マーちゃんだけでなく、ほかにも数人いっしょ行くようになった。夏休みの電車は空いていて楽ちんだったが、正太の住む町にくらべると都内は暑く、しかも試験会場には、たくさんの受験者が押し寄せて、時間ごとに入れ替えもあり、狭い塾内は子どもたちでごった返している。

 朝でかけてから、いくつもの試験を受け、時には別の会場にいったりすると、帰りは夕方になることもあった。

 町の駅のつくと、ひんやりとした空気が出迎えてくれるので、そんなとき正太はほっとする気分になった。

 つぎに都内に行くのはいつなんだろう、こんなこといつまで続けるのだろう、正太がそんな気持ちを抱き始めていることを、まるで知っていたかのように、夏の終わり頃になって、両親からびっくりするような話をきくことになる。

 夏休みも、あますところ二週間ほどになった日曜日。

 その日も正太が帰ってきたのは夕方になっていた。

 お風呂に入って、夕食を済ませると、兄と大きい姉の三人で模擬試験の解答あわせの復習をやる。

 もうすっかり習慣になっていて、正太もこれが終わらないと落ち着かない。

「正太、このところほとんど満点をとっているね」と姉がほめる。

「思い込みや早とちりもなくなってきたし、テストのやり方が分かってきたみたいだ」

と兄が、満足げに正太の坊主頭を撫でる。

 子ども部屋に、小さい方の姉がはいってきて、「正太、お父さんとお母さんから話があるから、茶の間に来るようにって」

「なんだろう」

「いってみればわかるでしょ」と姉はつづける。

「なにかごほうびでももらえるのかなあ」と正太。

「どうして?なにかほめられることしたの?お手伝いでもしたの?そんなわけないでしょ」と憎まれ口をきいて「お父さんお母さんが待っているから、とにかくいけばわかるから」とあごでしゃくるようにうながす。

 まったく、小さい方の姉は、いちいち腹が立つな、と声には出さずに、チェッと舌打ちをする。

「生意気に、なんで舌打ちするのよ。せっかく知らせしてあげたのに、いうなら、ありがとうでしょう」

 正太は、自分に浴びせる嫌みな言葉に背中を押されるように、父母のまつ茶の間にむかった。

「あっ、正太、こっちへいらっしゃい。お父さんから大切なお話があります」

 新学期になって、父親からの大切な話は、これで二度目だ。

 そんなこと過去に一回もなかったので、正太は身を小さくしてちゃぶ台の前に座った。

「6年生になってから正太は、とてもよく勉強をしているようで、このところ塾にもしっかり通っているし、模擬試験の点数も良くなっているようだ。今日は、正太にこれからのことで話しておきたいことがあります」

 正太は、背筋をまっすぐにして、正座した太ももに拳に握った両手をおいた。

「お兄さんが来年、大学の試験を受けることになっているのは知っているね」

 正太は、うなづきながらおぼえたことをすぐに使いたくなる性格で、"ふるいにかけられるのでしょ"と言いそうになった。

「正太にも、中学校に入る試験を受けてもらうことにしました」

 その言葉を聞いて、正太は、おどろいたように目を見開き、

「中学校に入るのに試験があるの」と珍妙な声を上げる。

 自分もまさかふるいにかけられことになるとは。

 そして、「じゃあ、同級生のみんなが試験をうけるの」

「そうじゃない。正太が試験をうけるのは、私立の中学校だ」

「......」正太が口を挟もうとすると、

「正太は、この町の中学校には行きません」

と、母親が正太の言おうとしたことに、ぴしりと先手を打つ。

 6年間いっしょに小学校生活を送ってきた同級生といっしょに、地元の中学校に進学することを、正太はいちども疑ったことがない。

 補習も塾も模擬試験もすべてその準備のためと信じてきた。それが、別の中学校で、おまけに「シリツ」っていったい全体どんな中学校なのか。

「お母さん、そんな言い方したら正太が混乱するだろう」

とがめるように父親は話を続けた。

「この町の中学校は公立といってだれもが試験を受けずに入学できるけれど、その私立学校は、電車で40分ほどの町にある学校で、試験があってそれに合格しなければ入学できません」

「公立なら試験なしでも入れるのに、なんでわざわざ試験を受けなければならないの、そんなの面倒じゃない。小さいお姉ちゃんだってこの町の中学校いっているし、なんで僕はいっちゃいけないの」

 正太の理屈が始まったと、両親は顔を見合わせる。

「大きいお姉さんと、お兄さんは二人とも、この町の中学校に行っていないでしょ。二人とも試験をうけて国立の付属中学校にいきました。正太には、将来のことを考えてお父さんとお母さんの選んだ中学校に行ってもらいたいの」と母親。

「でも、どんな中学校でもおなじでしょ」

 正太としては、同級生と離れるのが納得できないだけで、必死に抵抗を試みる。

「正太のいう通りだ。でも正太にはわかないことかもしれないけれど、私立学校にはそれぞれ教育方針があって、お父さんとしてはこんな中学校で勉強をしてもらいたいなという希望もある。そこへ正太に入学して勉強してもらいたいと思っている」

 正太は、父親の話しぶりから、その私立学校は地元の中学校とは何かが違うのだろうということは、おぼろげながらわかり始めていた。

 だが、正太の気持ちを前向きにしたのが、母親のつぎの一言だった。

「正太に行ってほしい中学校は、マーちゃんもいっしょに受験するのよ」

 毎週のように都内の塾が主催する模擬試験をうけにいっているマーちゃんも、いっしょにその中学校いくことになる。それだけで正太の気持ちはあっさりと陥落してしまった。

「わかった、マーちゃんといっしょに行く」

 声も晴れ晴れとしている。

「でも、試験に合格しないと入学できませんから、正太にはそのつもりでしっかり勉強しなければなりません」

 父親も母親も、ああ疲れたというか、ホッとしたように息を吐いた。

 正太には理屈で説明してもわからない、殺し文句を知っていたのは母親の方だった。

 ふたりは、正太にいつよその町の中学校は行くことを告げようかと、だいぶ迷っていた。

 新学期が始まってすぐに告げると、正太は友達に黙ってはいられない。

 いずれにしても避けられないことは分かっていたが、そうなることで友達のあいだにわだかまりが生まれないか、心配だった。

 兄や姉は、国立大学の附属中学校に進んだが、まだ戦後の混乱期で転校を繰り返し、ひとつの小学校に通っていた期間も短く、友達とのつながりは正太ほどではなかった。

 正太の場合は、同級生と6年いっしょの時間を過ごしており、母親も同級生の保護者とつきあいが深かった。だからこそ、正太の気持ちがどのように振れるかが気になっていた。

 だが、それも「マーちゃん」の一言でおさまり、いらぬ心配だったと、拍子抜けしてしまった。父親は、これでいいのかと思いつつ、頭の中でさらに面倒な問題を、正太にどう説明すればいいものか、思い巡らせていた。もちろん、正太はそんな父親の思いを知るよしもなかった。


電車通学

 夏休みは、あっという間に終わり、いつもの夏なら真っ黒に日焼けする正太は、新学期の教室でクラスメートと再会したとき、自分一人がクラスでおいてけぼり食ったような気がした。 

 模擬試験に通う都内は、まだ夏の暑さが色濃く残っていたが、このまちでは早くも秋の風に変わりつつある。小学校卒業まで、半年とすこしになった。

 正太と史子の補習授業は、夏休み明けからすぐに再開された。

 すべてが私立中学校に行くためであるとわかったことで、放課後の補習も、都内塾で模擬試験に対しても、正太が疑問をはさむことはなくなった。

 そうならそうと早く言ってくれればいいのに、と両親の思いなどそっちのけで、気分はすっかり前向きで、すっきりしている。

 ただ、ひとつだけ、試験のために勉強することについては、これがずっと続くのかと思うと、ゆううつな気分になった。

 そんなときにも、兄から「入学試験が終わって、中学校に入ればまた普通に勉強がはじまる。でも、中学校を卒業して高校に進学するときと、大学に進学するときにはまた入学試験を受けなければならない。それは、正太だけでなくみんなが通らなければならない道だ」と、強い言葉で励まされ、正太はしばらく我慢すればいいのだと、入学試験の先にある未知の世界に思いをはせるようになった。

 新しい年を迎えたが、兄と正太が受験を控えていることもあり、家の中はいつもの正月のようなのんびりとした雰囲気はなく、ピーンと張りつめたような空気が漂っていた。

 三が日が終わった最初の日曜日には、模擬試験があり都内にでかける。

 そのころになると、正太は布製の鞄のなかから参考書や、小さな紙の裏表に問題と解答を書き込み輪っかで止めたカード出しながら、電車の中でも時間を無駄にしないように予習、復習をするようになっていた。

 マーちゃんと問題を出し合ったり、分からないところを教え合ったりすることも多くなり、正太は自分でも気づかぬうちに、入学試験という初めての体験にむかって一直線に歩み始めていた。

 二月の終わりころの寒い日に行われた入学試験は、あっけないほど簡単に終わり、母親といっしょに面接をうけて、三日後には合格発表があった。

 正太もマーちゃんも無事に合格した。試験が終わったあとで、「なんであんな難しい模擬試験をしなければならなかったんだろう」と、思わず口にしたように、算数は計算、国語は読みと書きが中心の内容で、拍子抜けしてしまったほどだった。

 正太は、合格したが、国立大学入学をめざしていた兄は、不合格となり一年浪人することになった。

 母親は、私立大学も受けるようにと進めていたが、兄はどこまでも国立大学一本に絞って、それを貫き通した。

 大きい方の姉も国立大学を受験して一年間浪人生活を送ったこともあり、母親は姉兄そろって浪人するなんて恥ずかしいと、不機嫌になっていたが、父親は兄の気持ちをくみ取ったかのように、静かに見守っていた。

 小学校の卒業式の日、正太は、登校して式場に入ったときに、びっくりした。同級生は男女ほぼ全員が、男子は詰め入りの制服、女子はセーラー服を着ているのだ。

 地元の中学校に進学する同級生は、すでに中学校の制服を買っていてそれを着てたのだが、正太とマーちゃんは、まだ制服がない。

 そのために正太の服装は上は白いワイシャツに灰色のセーター、マーちゃんも似たような服装だった。

 史子はというと、おしゃれなよそいきなのか、上下が紺色の服で、頭の後ろにまとめた髪を真っ赤なリボンできりりとしばっている。

 背の高さもあって、正太とは違った意味で、目立っていた。

 式が終了して、最後のクラス会がひらかれた。50人いるクラスメートは全員が無事卒業できたことを、クラスの委員長が担任の先生に感謝の言葉をのべ、それぞれがこれからの中学生活への夢や小学校生活の思い出について語った。

 史子も、入学試験に無事受かり、別の私立中学校に通うことになったけれど、この1年間はとてもいい思い出になったと、短く感謝の気持ちを述べていた。

 正太は、みんなといっしょの中学校いけないけれど、これからも友達として仲良くしてほしいと心から思っている気持ちを伝えるのが精一杯だった。

 6年間の小学校生活は、上級生になった5年生と最上級生になった6年生が正太にとって、大きな変化の時でもあり、いつもの仲間と校門にさしかかったとき、通学のためにこの門をくぐることは二度とないのだという思いから、足跡をしるすかのように一歩一歩を力をいれて踏みしめるように歩いた。


 あたらしい中学生活は、電車通学になる。

 電車大好きの正太にとって、定期をもって毎日電車に乗れることは、夢のようであり、わくわく感はいやが上にもたかまる。

 中学校のある町まで、途中での乗り換え時間と駅から学校までの徒歩時間を合計すると、1時間は見なければならない。 

 それに合う電車はというと、朝7時40分発しかなく、乗り遅れるとつぎは20分後の8時ちょうどになり、それでは遅刻する可能性があった。

 小豆色の四両編成の電車は、正太のように都内の学校へ通う学生たちですし詰めになる。

 四両のうち、正太たちの乗れる三両は三等車で、最後尾の一両は特別料金を払わなければ乗れない二等車だった。

 連結器のところのドアのガラスには「二等車」と書かれている。

 だが、不思議なことに、この二等車の利用客はほとんどいなかった。

 正太も利用している客を見ることはまれで、ときたま沿線にある進駐軍の基地の米軍の将校の姿をみかける程度だった。

 すし詰めの車両から、連結器のドア越しに空っぽの二等車を見つめながら、口々になんであっちに乗れないのかとぼやく声がしきりだった。

 史子も、同じ電車で通学している。

 朝、電車に座りたい一心で、早めにホームに行く正太に、史子が声をかけてくる。

 補習授業で顔を合わせ始めたころは、あまり口をきくことをしなかったが、史子自身が自分の母親から仕入れたらしい正太のことを、あれこれと話しかけてくるので、はじめは煩わしく感じていたが、自然と打ち解けて勉強のことや、進学のこと、家庭のことなどをお互いに話し合うようになった。

 転入してくる前は、正太の住む町から5つめほど東京寄りの駅にある、私立の小学校に通っていたのだが、その私立学校の教育方針について、史子の母親がどうしても納得できなくて、5年生終了とともに退学させて、小学校に転入させたのだと、正太はなんとなく耳にしていた。

「アヤちゃんは、転校するのはいやじゃなかったの?」

「いやとか、いやじゃないとか、そんなこと考える時間もなかった」

「アヤちゃんのお母さんは、きびしい人なのかな」

「そうじゃなくて、私の通っている小学校のルールがきびしくて、なんていうのかしら、自由がなくて息が詰まるようなところがあったの」

 史子の大人びた話しぶりから、転入してしばらくしてうれしそうに、クラスメートの女子と話しているのを正太は思い出していた。

 きっと、前の小学校では味わえなかった体験ができることに喜びがあったのだろう。

「それじゃ転校してきてうれしかったんだ」

「そう、はじめて正太君たちのクラスに入ってきたとき、みんながなにが不思議なものを見るように私を見ていたけれど、その目が、とてもやさしくて、すごく安心したの。そのあと、クラスの男子も女子も私のこと特別扱いしないで、学校行くときに家にも朝、誘いに来てくれたし、そんな経験したことなかったからうれしくてうれしくて、その気持ちをお母さんに何度も伝えた。本当は、お母さんが転校しなさいといったのではなくて、私からお願いしたのよ。正太君といっしょに先生の補習を受けることになって、はじめはちょっと緊張したけれど、正太君は、お母さんから聞いていたとおりで、"強く正しくみんな仲良く"、ってこの小学校の教室に張ってある標語のようだなって、ごめんねこんないいかたして」

 正太は、そんな風に言われたことがなかったので、戸惑うとともに、同い年でありながら、自分の意志をしっかりともって考えていることに感心し、それまで多少なりとも史子に抱いていたよその子という印象は一瞬にして消えてしまった。

 正太は自分の母親がどんな風に自分のことを話したのか、いつか母親に確かめてみたいと思った。


 電車通学の沿線には、2カ所に進駐軍の駐留する大きな基地があり、その脇を通るときに見たこともないような大きな輸送機が、電車の屋根をかすめるように離着陸する。

 目の前に迫る巨大な飛行機をみるのことは好きだったが、電車のなかでは「日本は独立しても、駐留軍はなくならないな」という大人たちの会話をよく耳にした。

 小学校2年生のとき、サンフランシスコ講和条約が締結された日に校庭で、戦争に負け駐留軍に占領されていた日本が今日独立しました、という校長先生の言葉とともに児童と集まった父兄もいっせいに万歳三唱をしたことを思い出した。

 それなのに、なぜ独立したのに米軍の星のマークをつけた飛行機が、日本の空をこんなに飛び交っているのだろうか、独立してもまだ頼りないから、助けるためにいてくれるのだろうか、などと、勝手に想像するばかりだった。

 その基地をすぎると終点の駅に着き、そこから電車を乗り換えて一駅目に、正太の通う私立中学校がある。

 史子は、さらに先の駅に行くのだが、毎朝、すし詰め状態の電車から降りるのが精一杯で、声をかけたり、気づかう余裕はなかった。

 電車通学は、楽しくもありそして苦しくもあった。

 やがて、正太とマーちゃんの間にも、変化が生まれていた。

 正太は中学校に入ると同時に、母親にせがんで柔道部に入る許しをえて、マーちゃんはというと小学校時代から得意だった野球部に入った。

 朝は、同じ電車に乗るのだが、帰りは部活動の時間が違うので、滅多に同じ電車になることはなかった。柔道部に比べて、野球部の練習時間は長く、しかもほとんど休みがない。

 日曜日や祭日には、他校との対外試合もありマーちゃんは野球漬けの毎日になった。


突然の引っ越し

 電車通学生活が、間もなく一年過ぎようとする3月、兄が国立大学に合格した。

 大学は、正太が通う私立学校と同じ町にあり、駅前に伸びるまっすぐな道の両側に、広いキャンパスをかまえている。

 ただし、こちらの校舎は専門部とよばれ、それまでは別の町にある校舎に通わなければならない。

 兄が志望大学に通うようになったことで、しずかに引っ越しの計画が進められていた。

 正太は相変わらず蚊帳の外に置かれていたが、さすがにいつまでも秘密にしておけるわけもなく、兄の受験が近づいた、年の暮れに「来年の年末頃に、引っ越すことになった」と、父親から告げられた。

 その引っ越し先とは、正太が通う学校のある町で、土地も学校のそばと決められていた。

 冬休みの日曜日に、通学定期券を持っている正太は、父親に連れられて土地の契約をするのについて行った。

 契約が済み、支払いを済ませた後、その土地を見に行った。

 場所は、正太の中学校と同じ並びで、東寄りに200メートルほどのところだった。

 整地された土地には、看板がぽつんと立っており、周りは松林で南側には、小学校の校庭が広がっている。

 いま住んでいるまちに比べると、家らしい家がなく、お店もなければ、人通りもない。

 まるで生活の匂いがしない。

「さみしいね」と正太がつぶやくと、

「これから、この町は大きく発展するから楽しみがある」と父親は、背筋を伸ばして正太に言い聞かせるように語気を強めた。

 兄の大学入学とともに、家の建築も始まるなか、正太は中学二年を迎えた。

 引っ越すことは分かったが、それがいつなのか正太にはなかなか明かされない。

「正太は、おしゃべりだから、あっという間に町の隅々まで広がってしまうので、おまえには秘密です」と、小さい方の姉の憎まれ口はいつまでたっても止むことがない。

 正太は正太で、いわれていることがもっともだと思えるので、いい返すこともできない。

 マーちゃんの両親には、世話になったこともあり、母親から伝えられたのか、マーちゃんから「正ちゃん引っ越すんだって」ときかれたが、それがいつなのか、もちろんマーちゃんも知らなかった。

 その年の11月の末、正太の一家は引っ越した。

 最後の一日、家の前で家族6人で記念写真を撮った。父母を挟み、左右に学生帽に詰め入りの制服をきた兄と正太が座り、後ろには二人の姉が立っている。

 庭の柿の葉が落ち、実が色づいていた。

 10年間暮らした家は、正太だけでなく家族みんなの思い出がつまっていたが、そうした感傷に浸る時間もないほど慌ただしい引っ越しだった。

「なんだか、夜逃げならぬ昼逃げみたいだ」と小さい方の姉がつぶやいたけれど、誰も笑わななかった。

 引っ越し荷物を積んだトラックには、兄と父が同乗し、残った正太たちは電車で新しい家に向かった。

 引っ越しの当日は旗日で、電車は空いていた。

 電車に乗るときに、そういえば史子に引っ越しのことを伝えないままだったことを思い出したが、新しい家について荷物を整理しているうちに、いそがしさに紛れて忘れてしまった。









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