転校生
転校生
都心の塾通い
正太は、小学校生活最後の6年生になった。
下級生の面倒をみたり、学校の行事の手伝いも5年生の時とはくらべものにならないほど忙しくなった。
そして学校だけでなく、正太の生活にも大きな変化がおきていた。
それは、日曜日ごとに都心の塾に通うことだった。
最初のうちは、母親や小さい姉が同行してくれたが、電車の乗り換えや塾への道順になれると、それからはいつもマーちゃんと二人だけになった。
学校が勉強するところなら、学校が終わったら後の時間を遊ぶためにあるという考えの正太にとって、塾はいつまで経っても理解できない存在だった。
ところが、通っている塾というのが、なんとも不思議で、初めて行った当日、教室に入ると名前を呼ばれ、いきなり並べられている横長の机の前に座らされる。
机の上には、白い紙が置かれているだけで、全員が座り終わると教壇に立った先生が大きな声で説明を始めた。
「みなさんの前に置かれているは、国語の模擬試験です。まだ、表にしてはいけません。鞄から鉛筆と消しゴムだけを出してください。そして、始め!の合図で、解答用紙を表にして、まず、自分の番号と名前を書いてください。書き忘れると、100点をとっても0点になってしまいます。試験のときにいちばん大事なこと、それは自分の番号と名前を書くこと。わかりましたか?ではこれから漢字のテストを始めます。時間は30分です。はい、始めてください」
この塾では勉強するのではなく、試験だけをするのだ。
始め!の合図で、教室内にはいっせいに解答用紙をひっくり返す紙の音がおき、その後は、シーンと静まりかえり、カリカリ、カシカシという鉛筆のすれる音だけが聞こえる。
正太の後ろの席にはマーちゃんが座っている。
国語の模擬試験は、書き取りと読みが中心で、正太にとってはさほどむずかしくなかった。後のマーちゃんも、前の席の知らない子も、つぎつぎに解答を書き込んでいる。
こうして、都内の塾での不思議な体験が始まった。
最初のうちはとまどいもあったけれど、回数を積むごとに正太は慣れてきた。
だが、例によって正太の疑問が首をもたげてきた。
学校のテストのときに書くのは、組と名前だけで番号などというものは存在しない。
この塾に初めてきたときに、与えられたのが番号だった。
4桁の数字を書いたカードを渡され、「これは試験を受けるときに必ず必要な番号です。名前を忘れても番号を書いておけば誰であるかわかるようにもなっています。
ただし、つねに名前と番号を書き忘れないようにしなければなりません」といわれた。
思わずなんで番号が必要なのですか、と手を挙げて聞きたかったが、教室の中には知らない小学生ばかりだったので、ちょっと気が引けてあきらめた。
帰りの電車のなかで、マーちゃんに聞いてみようとも思ったがそれもあきらめ、家に帰ってお兄ちゃんに教えてもらおうとも思ったが、いつの間にか忘れていた。
とにかく試験の時には番号と名前を書けばよい、そう言われると思ったからだ。
正太は、塾は嫌いだったが、この塾通いはわくわくした。
理由は二つあって、ひとつは都内に電車で行けること。
もうひとつの理由は、塾のある場所が水道橋というところで、その近くに後楽園球場があることだった。
正太が住んでいる町には、こんな大きな野球場はない。
野球をするのは、大人も子供も学校のグランドに限られている。
グランドといっても、狭くて本格的な野球などができるように整備はされていない。
ホームからレフト、センターは果てしないほど深いのに、ライトは正太が打ってもホームランになりそうなほど狭い。
そんなグランドを何チームもが場所を取り合うのだから、場所争いだけでなく、試合中にも打ったボールがどこのチームかわからなくなるほど混乱したものだ。
水道橋駅の上りホームの窓から、その後楽園球場が見える。
夜間照明用の高いポールが立っていて、その向こうにはいつも青空が広がっていた。
この球場には、父親に一度だけ東映フライヤーズ対南海ホークスの試合を観に連れてきたもらったが、川上も藤村もいないチームなので、おもしろくなかった。
(その後、正太は南海ホークスのファンになるのだが)
だが、都会の真ん中にある野球場は、正太の気持ちを圧倒するほど大きかった。
その後楽園球場を毎週のように外から眺められるのだから、塾へ行くのも楽しかった。
水道橋駅で電車から降り一番後ろの改札から出る。
改札を出て左に向かって、3分ほど歩いたビルの中に試験をうける場所があった。
右に出ると後楽園球場で、その前をチンチン電車が走っている。
周辺には、高さも外観も不揃いのビルや飲食店が並び、雑然とした街をたくさんの人が行き交っている。
チンチン電車は路面の線路をかむような音を立て走り、自動車が電車と競うように追い抜いていく。クラクションが鳴らされる、スピーカーから意味のわからない声も聞こえる。
飲食店からは、さまざまな料理のにおいが流れ出て、路上で一つになって正太の鼻をくすぐる。
刺激的で誘惑的な風景は、正太が住む街ではまったく見ることも経験することもできない世界だ。
「春の祭りでも、こんなににぎやかにはならない。まるで毎日がお祭りをやっているようだ」。
祭りが大好きな正太が、大嫌いな塾と試験に喜々として出かける理由は、ここにあった。
試験会場には、だいたい10時頃着き、お昼前には終了する。
試験に出された問題は、その日に持ち帰ることになっている。
自宅に帰って、兄や一番上の姉、そして母親の目の前で、同じようにもう一回、解答をしなければならない面倒くささはあったけれど、そんなことよりも試験が終わって、お昼ご飯をいろいろな飲食店を選んで楽しみが控えているほうの喜びが大きかった。
「マーちゃん、きょうは何食べる?」
「この前は、僕が決めたから、今日は正ちゃんが決めていいよ」
「じゃあ、あの店にいこう」
と、正太は洋食屋の看板を指さす。
「いいよ、早く行こう」
塾から水道橋とは逆に向かって数十メートル歩いたところに、軒先から豚の形を看板に、洋食屋という文字が読める。
店先には、商品サンプルを並べたショーケースがあり、そこには銀色の皿に盛られた、洋食が並べられている。
「正ちゃん、お金は大丈夫?」
店先まできて、マーちゃんがサンプルの書かれた値段をみている。
「この前、確かめておいたから心配ないよ」
正太は自信満々に、指さしたのは、オムライスと書かれた料理だった。
「100円か」マーちゃんは自分の財布の中身と相談している。
「早く入ろう」
正太は、とにかく洋食屋というだけで、気持ちが高揚してマーちゃんをおいたまま店にはった。
昼時の店内は、正太のお父さんと同じような背広を着た大人たちで、席は埋まっていた。
それでも4人掛けに二人が座っている席を見つけて、正太は「マーちゃんここ空いている」と手招きする。
マーちゃんもつられるように手招きに答えて、ようやく席に着いた。
落ち着いて店内を見回すと、奥の方にカウンターがあって、そこから料理がでてくるらしい。その奥のキッチンには、縦てに長い白い帽子をかぶったコックさんたちが、忙しく立ち働いている。
注文を取りに来た女性は、白いブラウスにピンクの縦縞のはいったスカートをはき、まわりにフレアのついたエプロンを着けている。そして、頭には白いスカーフをかぶっていた。
「僕はオムライス」
「じゃあ、僕はカツライス」
マーちゃんは、店頭のサンプルをみて決めたらしく、迷うことなく頼んだ。
女性の店員さんは、注文を復唱すると、カウンターのところへ行き、大きな声で注文を繰り返した。
「坊やたち、今日は子ども二人で野球でも観に来たのかい」
斜め前のおじさんに声をかけられ、二人は目を見合わせた。
「いいえちがいます。今日は塾の試験のある日で、いま終わってこれから昼ご飯をたべるところです」。正太がこたえた。
大人には丁寧な言葉遣いをするようにと、いわれているので、できる限り言葉を選ぶ。
「ホー、塾の試験を二人でうけにきたのか。それは感心だな」と、もう一人のおじさんも不思議そうな顔をして話しかけてくる。
正太は洋食屋の店内をもっと見たいのに、知らないおじさんに返事するのが面倒だったので、そっぽを向いた。
そして「ほら、マーちゃんあんなにいろいろなメニューがあるんだ」と、白かべに並んでいるメニューを指さした。
そこには、短冊状のメニューが数十枚ならんでいる。
コロッケ、メンチ、かつ、カレー、ポテトサラダ、オムレツ、オムライス、ビーフシチュー、ビーフソテーなどなどがあったが、スパゲッティというのは正太にもマーちゃんにもどんな料理かわからなかった。
「正ちゃん、ビールやジュースもあるし、アイスクリームもあるよ」とマーちゃんもそちらに気をとられたので、おじさんたちはそれ以上声をかけてこなかった。
注文した料理が届くと、二人は、お互いに料理を分け合って食べた。
ただ、正太にはスプーン、マーちゃんにはホークとナイフがついてきたので、マーちゃんは大人が見ている前で、ぎこちなくカツを切りわける。
「ラーメンなんかだと分けにくいけれど、洋食はこうして食べられるから、たのしいね」
正太は、分けてもらったカツをたべ、スプーンですくったオムライスをマーちゃんの皿にのせる。
「正ちゃんのオムライスおいしいなあ。僕もそっちすればよかった」
「マーちゃんのだっておいしいさ。僕、この前三越の食堂で、オムライス食べて、おいしかったからまた食べたいなって思っていたんだ」
二人は、昼食を食べると、両親の言いつけを守って、寄り道することなく水道橋駅から電車に乗って家路についた。
嫁ぐ日、稼ぐ日
受けた試験の問題を持って帰ると、さっそく正太のできばえのチェックが始まる。
都内での刺激的で楽しい時間は、あっという間に気詰まりな、つまらない時間への変わっていく。
今日の試験は、数学と国語、そして理科だった。
正太は、特別にむずかしい試験だとも思わなかったし、答案用紙に正しく答えを書けたと自信があった。
「一問もわからない問題はなかった」と自信のほどをのぞかせた正太は、漢字の読みの問題で、またしても失敗があった。
「ああ、またルシュバン君になったね」と小さい姉がからかってつけたあだ名で、兄が笑った。
「正太、『嫁ぐ日』って書いて、なんで答えが『よめぐ日』になるの?」
「だって、これって"ヨメ"という字でしょう。だからよめぐでしょう」
「よめぐってそんなことば聞いたことある?」
「そうか、あっ、わかった。よめぐ日じゃなくて、かせぐ日だ」
「かせぐはノ木偏に家で、ぜんぜん違います」と大きい姉が紙に字を書く。
「でも家ってついてるじゃない」
「女偏に家と書いて、嫁です」
「じゃあ、やっぱりよめぐで正しいんだ」と正太。
「同じ漢字でもいろいろな読み方があるって、勉強したでしょう。正太は知っているはずだけれど。前に、お嫁入りした先のことをなんていったっけ」
「うん、しっている。とつぎさき、でしょう」
「それを漢字で書くと、嫁ぎ先になるの」とまた、大きい姉が紙に書く。
「ということは...」と兄。
「留守番のときに、守を守備のシュという読み方と、スという読み方があるってこの間学んだように、嫁には"トツグ"という読み方があります。ですから、これはよめぐ日ではなく、とつぐひと読むのが正解です」
「そうか、でもヨメとトツグが同じ字だなんて教わっていないもん」
「だから、勉強することが大切なの。わかった?」
「正太、こうして失敗するともう二度と忘れないから、間違えることはいいことなんだ」
兄の一言で、いつものとおり正太は、納得顔になった。
「そうか、間違ったり失敗することも大切なんだ」
「ただし、同じ間違いを繰り返さなければネ」と大きい姉は釘を刺すことを忘れない。
一週間ほどして、試験の結果が自宅の送られてきた。
ヨメグ日にはペケがつけられ、その横に赤いペンで「とつぐひ」と書かれていた。
学校で、マーちゃんにあったとき、そっと嫁ぐ日の読み方を聞いたところ、マーちゃんは「うん、とつぐひでしょ」と正しく答えていた。
転校生
6年生になって、大きな変化は都内の塾に通うようになった事だけでなく、正太のクラスでも、はじめての出来事がおきていた。
新学期の日、いつものざわざわとちがう、なんとくひそひそと交わしている声が、教室に満ちている。
5年生のときのクラスがそのまま、そっくり6年生になっているので、クラスメートの顔ぶれはまったく変わっていない。
みんな、座席がきまっているので、それぞれに席につき、やはりひそひそと言葉をかわしている。
「みんなどうしたの」。教室に入ってきた正太は席につくなり、みんなと同じように声をひそませてまわりのクラスメートに話しかける。
「正太は、知らないのか?」
誰ともなくそんな言葉を投げかけながら、正太のまわりに、男子が集まってくる。
「今日から新学期だろう。知るも知らないも、まだなんにも聞いていないし」
「それが大問題なんだ」
「大問題って、早く話せよ」。
少しいらだって、正太の声もつい大きくなる。
「俺たちのクラスに転校生がくるんだ」
「て・ん・こ・う・せ・い・?」
なんと、不思議なそして心を揺さぶるな言葉だろう。
2年生の時に、二部授業の終了で、新しく建てられた小学校に転校していった友達はいた。そして、3年生のときに、担任の女性教師がとつぜんやめて、正太たちのクラスが解体され、3学期になって、よそのクラスに分散されたことあった。
でも、いままでクラスによその学校から転校してきた生徒は誰ひとりもいなかった。
漫画や映画などでは読んだり見たことはある。
お父さんの仕事の関係で新しい小学校に転校してきた生徒は、クラス担任の先生に連れられて教室に神妙に入ってくる。教壇に先生と並ぶと先生から紹介がある。
「今日から、この小学校に転校したきた○○君です。○○君は○○市からお父さんの仕事の関係で、こちらに引っ越してきました。このクラスの新しい仲間です。○○君がわからないことがあったら、みんなで助けあって仲良くしてください」
その後、本人の自己紹介があり、教室に拍手がひびき儀式は終わる。
転校生の顔には、未知のクラスへの不安がうかび、態度にもぎこちなさがある。
迎えるクラスは、池に小石が投げ込まれたときのような、波紋が広がっている。
転校生が指定された座席の周りには、さざ波のようなざわつきがおきている。
転校生との毎日は、また大変だ。
転校生の家の方向にいっしょに帰るクラスメートは、翌日から、"どんな話をした?""生意気なこといってなかったか?""前の学校はどんな学校だった?"家族は?お父さんの仕事は?兄弟は?と身元調査のように、転校生の情報を得ようと質問攻めになる。
そして、転校生という言葉には、どことなく不幸の影がある。
不幸の原因こそがドラマを生んでいると、正太は勝手に想像していた。
そんなドラマチックな転校生が、クラスに来るのだ。どんな奴か、どこからくるのか、正太もクラスもすっかり盛り上がっていた。
「正太、それも女の子だぞ」
えっ!女の子。それはつまんないな。女子では新しい遊びの仲間にはならない。
「ほら駅のそばのでっかい病院の娘だってさ。正太も知っているだろう」
ああ、あの病院の娘といえば、どこかであったことがある。
そうだ、お母さんといっしょに駅の方に買い物に行ったときに、母さんが挨拶したきれいなおばさんに連れられていたあの女の子のことか。
お母さんは、同級生だと正太に紹介してくれた。あのとき、きれいなおばさんが、今度お世話になりますとか言っていたので、僕がお世話するなんてことないのに、なんだかおかしいなと思った。
でも、同じ町に住んでいるのに、どうして6年生にもなって、別の学校に転校してくるのだろうか。いままでどこの学校に行っていたのだろうか。前の学校でなにかあったのだろうか、ほんの一瞬だが、正太の空想がひろがりはじめたそのとき、突然、ガタガタといすを引く音がする。
「キリツ、レイ」
みんなにつられるように、正太は椅子から飛び上がり、背筋を伸ばして頭を下げる。
いかめしい顔をした校長先生と、担任の先生が教壇に立ち、その隣にランドセルを背負った、すらりと背の高い女子がきりっとした目つきで並んでいる。
やはりあの子だと、正太はこえに出さずにつぶやいた。
「おはよう」と先生。
「おはようございます」と元気な声が答える。
みんなが席に着くと、先生が黒板に白いチョークで名前を書いてから、「みんなの元気な声を聞いて、安心しました。小学校生活最後の一年が今日から始まります。そして今日は、このクラスに転入してくる新しいお友達を紹介します。みんなもよく知っている、駅のそばの病院の史子さんです。名前は歴史の史に子と書いて、アヤコさんと読みます」
先生は、黒板にチョークで書いた名前の横に、ふりがなをふりながら、「ご家庭の都合で、こちらの小学校に一年間通うことになりました。短い期間ですが、仲良くして楽しい思い出をたくさんつくってください」
アヤ子といわれた転校生、いや転入生は、自分の名前を名乗り、大人っぽくよろしくお願いしますといって、頭を下げた。
濃紺の上着に白のブラウス、上着と同じ色のスカートはいている。髪の毛を後ろで束ねているので、ぱっちりとした瞳がつりあがり、それが、クラスのほかの女子よりも大人びて見えた。
ペコリと頭を下げたとき、束ねた長い髪が前に垂れた。
校長先生は「みんな仲良くしてあげください」とだけいって教室を出て行った。
史子は、クラス全体を見渡し、私の席はどこかしらと空き席を見つけている。
「クラスになれるまで、史子さんはケイ子さんの隣にしましょう」
史子は、担任の先生に促されて、教室の後ろ扉近くの机に向かった。
ケイ子が、ここよと手招きをする。
机は二人掛けで、男と女がそれぞれ座っている。新学期になってケイ子だけは一人掛けだったが、それは転校生のためだったことをクラスのみんなは、これで納得がいった。
ケイ子は、クラスの女子を束ねるボスで、男子も滅多なことでは逆らえない、強く怖い存在だ。
誰もが認めるケイ子と同席させる先生の判断に、みんな合点がいったのだった。
新学期の予定や、新学年の教科書の配布が終わると、午前中に一日目は終了した。
教室から出るときに、正太はいつもの仲間といっしょに帰るために、玄関の靴入れの前で待っていた。そこへ史子が、ケイ子たちとすっかり打ち解けて話しながらやってくる。
すると史子が、一歩前に踏み出し「正太君でしょ。お母さんにお世話になっています。私の母からもよろしくと伝えてほしいといいづかっています。これからもよろしく」と、聞いたこともないような挨拶をうけて、正太はうろたえた。
「正太君、何黙っているのよ」とケイ子が突っ込んでくる。
「ああ、こちらこそよろしく」何がよろしくなのかわからないまま、へどもどしながらそう答えるのがやっとだった。
ケイ子と史子の後ろにいるシュウコたちの目が、正太に注がれているようで、いそいで靴箱からズックと取り出すと、突っかけるようにして外へ出た。
後ろで女子のグループが、あたらしい転校生を囲んでにぎやなか声をあげている。
正太はというと、史子からかけられた言葉に、どぎまぎしながら、いつもいっしょに帰る友だちのことも忘れて、校門に向かった。
「お母さん、今日、僕のクラスに転校生がきたよ」
家に帰り、ランドセルを下ろすなり、正太は母親に興奮気味に報告をはじめた。
「ああ、史子さんでしょ。なにかおっしゃっていた?」
「うん、お母さんによろしくって。でも僕は今日まで転校してくることを知らなかったよ。クラスのみんなは知っていたのに。なんで教えてくれなかったの」
「そう、仲良くしてあげてください。史子さんは、将来お医者さんになるんですって。正太に教えると、すぐにほかの人に話してしまうでしょう。だからお母さんはだまっていたの」
でも、自分以外のクラスメートはみんな知っていたと言い返そうかと思ったが、母親にそう言われると、返す言葉がない。と同時に、正太は、史子が医者になるために転校してきたのかと気になった。病院の子だから、医者になるのか。大工の家に生まれたら大工になる。八百屋さんや肉屋さんや魚屋さんの子も、将来は決まっているのか。
自分のように会社員の家にうまれたら会社員になのかな。でも会社員てなんだろう、正太はこんど兄に聞いてみようと思った。
それにしても、史子の転校には、不幸の影がないなと、ちょっと拍子抜けした。
それっきり転校生のことは忘れてしまい、昼ご飯を食べると大願寺の庭に走っていく。そこには、もう同級生や下級生が三角ベースを描いて、野球の準備をしていた。
放課後異変
新学期が終わってしばらくした日曜日、子ども部屋で漫画雑誌を読んでいた正太は、母親から、茶の間に呼ばれた。
ちゃぶ台に、父母が座っており、正太は母親が指さすところに座った。
「お父さんから正太にお話がありますからよく聞いてください」
両親のいつになく改まった物の言い方に、一生懸命、なにかまずいことをしたのかと、思い出そうとしたが、さっぱり心当たりはなかった。
「今日は正太を説教しようというのでない」と、まるで正太の心の中がわかっているようにお父さんは切り出した。
「正太は今年6年生になった。小学校生活もあと一年だ。これからは中学校への準備をしなければならない。そのために、正太に二つお願いがあります。ひとつは、正太の先生に放課後、勉強を見てもらうこと。そしてもう一つが、都内の塾の模擬試験を日曜日にうけてもらうことです。これは、正太がこれから中学校、高等学校、そして大学に進むことになると思うので、そのために今以上に勉強に励んでもらいたいからです」と、いつもよりやさしさがこもっている声で、よどみなく話した。
それだけに正太の緊張感は高まった。
放課後補習、都内の塾の模擬試験、中学校、高等学校、そして大学と、いきなりずっと先のことまで、6年生になって考えなければならない。
あんまり先のことなので、まだ見当もつかないけれど、今まで以上に勉強をしなさいということだけは理解できた。
6年生になるということは、大変なことなのだ。
放課後の補習といえば、いままでもクラスの仲間が、居残りして受けていた。正太は一度もそうした経験はない。
補習を受けるということは、正太の成績がわるいということになる。
でも、まだ新学期は始まったばかりだし、成績が悪いも良いもないはずだ。
「補習といっても、正太の成績が悪いからというわけではありません」と、今度は母親が、正太の先手をうつ。
「いままでの勉強にさらにプラスするためです。そして模擬試験というのは、そのプラスされたお勉強の成果を確かめるためです」
少しでも勉強ができるようになれば、それはそれでいいけれど、放課後の時間はなくなるし、そのうえ、5年生のときから通っている町の塾に時間もとられる、そして日曜日には都内に模擬試験を受けに行かなければならない。
勉強しなければならないことは、仕方ないとしてもそのために、遊ぶ時間はどうなってしまうのだ。うずまく不満とわき起こる不安に正太は、打ちのめされそうになった。
6年生になるということは、こんなにまで何もかも変わるのか。
最上級生だからもう上には誰もいない。
小学校生活が終わるということは、とんでもない新しいことが始まるということなのか。
そのとんでもない新しいことが、いま、まさに今日からはじまるということらしい。
放課後の生活は、一変してしまった。
週にうち、塾に通わない二日間、放課後になると居残っての補習授業が始まった。
正太にとって、いちばんの驚きは、その補習授業に史子が参加していることだった。
その朝でかけるときに母親から、今日担任の先生からお話しがあります、といわれていたので、教室の掃除当番が終わってから、教室に残っていると、いつのまにか史子と二人だけになっていた。
「正太君も補習うけるのでしょう。よろしく」
と、長い髪を後ろで束ね、広いおでこをこちらに向けて、史子が親しげに声をかける。
「ああ、こちらこそよろしく」
史子の話から、今日先生から話しがあるというのは、補習のことかと、初めて知る。
教室で女子と二人だけになるなんてことなかったので、息がつまるような気分で、喉がかわき、返事をしようにも思うように言葉にならない。
「正太君は小学校卒業したら、どうするの?」
「どうするって、中学校へ行くよ」
とぶっきらぼうに答えたところに、担任の先生が教室に入ってきた。
それ以上の会話をしなくてよくなったので、ほっとした。
「今日から、二人の補習授業をします。いっしょにがんばって学習しましょう」
先生は、教科書などいっさい使わず、正太と史子にわら半紙にガリ版で問題を刷ったテスト用紙を渡しながら「テストをするわけではありません。先生といっしょに問題を解きながら、勉強をしていきます」とだけ告げると、半紙の内容を黒板に書きながら、正太と史子に問題の解き方を教え始めた。
補習といえば教科書から出された問題が分からなかったり、どうしても九九がいえなかったり、漢字の書き取りができなかったときに、居残って個別に教えてもらうことだと思っていた。それが教科書もない、ガリ版で刷ったわら半紙に書かれている問題をいきなりときながら学習するという唐突な始まり方に正太は戸惑うばかりだった。
しかも、先生から渡された問題集は、授業では学んだこともないし、テストにだされたこともない内容ばかりだったのだ。
「先生、これって学校で学んでないことばかりだと思います」
正太は、問題用紙を前にして口をとんがらせた。
「正太君、よく問題を読んでごらん。ちゃんと学校で学んだことばかりです。ただ、学校のテストではこうした問題の出し方をしません。お父さんやお母さんから、塾の模擬試験を受けに行く話をきいていませんか」
先生からそういわれて、先日、お父さんから補習を受けることと都内の塾の模擬試験をうけること、その2つを思い出した。
「今日から始めるのは、その模擬試験の準備です」
先生は、正太返事を待つことなく、黒板にむかって問題を書き続ける。
たしかに、問題をよく読むと教科書や授業で学んだということは分かった。でも、なんでこんなひねくれたテストをするのかは、じっさいに模擬試験をうけるまでよく分からなかった。
こうして、正太と史子の週二回の補習が始まった。
自分たちだけが、補習授業を受けさせられて放課後の時間がなくなると不満に思っていたが、ほかの日には何人かが必ず居残りで補習を受けている。
またほかのクラスでもおなじように補習が行われているので、それを知った正太は、じゃあ仕方ないかと我慢することにした。
2015年7月15日 09:38
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