歯医者復活戦

虫歯発見


 正太の歯は真っ白で、笑うと口全体が明るく見えるようだとほめてくれたのは、八百屋のおばさんだった。

 「正ちゃんの歯なら、石でも食べられそうだ」とか、

 「まるで、猫や犬のように固そうな歯だ」とか、ほめられているのかからかわれているのか、分からないときもあったが、正太の兄弟も歯の白さをうらやましがっていた。

 写真をとっても、正太が笑っていると歯の白さが目立つほどで、写真は白黒だから、なおさらだった。

 特別に手入れをしている訳ではない。朝晩の歯ブラシをきちんとしている程度だ。

 そんな正太の歯に、異変が起きたのは小学校5年生のときだった。

 学校の、健康診断で虫歯があることがわかったのだ。

 下の右奥歯で、鏡の前で大きく口を開き、よく見ると歯の上の方に小さな茶色い点のようなものが見える。

 虫歯は、甘いものを食べるとなる。昔の子どもは甘いものを滅多に食べられなかったので、虫歯になることもなかった、と大人たちはいう。

 でも、正太は確かに甘いものが好きだったけれど、そんなにのべつ食べているわけではないし、第一そんなに甘いお菓子など、周りになかった。

 買い食いしたくても、お小遣いに余裕もなかった。

 だが、虫歯があることは間違いない。

 正太は、どうして自分の歯を虫が食ったのか納得できなかった。

 回虫がおなかの中に住み着いてしまったような、不気味で不愉快な気分になった。

 学校から、健康診断の紙をもって帰りそれを母親に見せると、「それは大変だ、急いで歯医者さんにいきないさい」と有無をいわせぬ勢いで、正太以上にあわてふためていた。

 正太はそもそも病院嫌いで医者知らずときているから、すぐに歯医者にいけといわれても、どうにも納得がいかない。

 熱があるとか、頭がいたいとか、それなりの理由が必要だ。

 でも、虫歯は白い歯の上のほうに、茶色い点があるくらいで、歯ブラシでこすればとれてしまいそうだ。

 それに、なんといっても痛くもかいくもない。

 だから正太は母親が大騒ぎする理由が飲み込めない。

 というわけで、正太が出した結論は、痛くなってから歯医者にいくであった。


不気味なイス


 正太の出した結論は、母親によって即日却下された。

 健康診断を受けた翌日、母親に無理矢理手を引かれて連れていかれたのは、まちの目抜き通りの商店街を南に入った住宅街にある歯医者だった。

 まちのどこの医者も同じだが、その歯医者も白いペンキ塗りの木の扉に、縦にはめられたスリガラスの上に、金色の文字で○○歯科医院と書かれている。扉を開くとコンクリートのたたきになっていて、そこで靴を脱ぐ。

 控え室の左側に小さな窓があって、患者が入ってくると小窓があけられる。

 中から、看護婦さんが顔をみせ、「どうしましたか」と訪ねる。

 正太の母親が「虫歯の治療です」と答えながら、名字と名前を告げた。

 「ちょっとお待ちください」と、いうや小窓はぴしゃりを閉じれられた。

 控え室には誰も待っていない。正太は神妙に長いすに腰をおろした。


 緊張していた気持ちにちょっと余裕ができたきたら、なにやら奥の方の扉の向こうから、いままで耳にしたことのない音が聞こえてきた。ジーンジーンという低い音といっしょに、人の声も聞こえてくる。

 ジーンジーンという音は、時々止み、止んではまた聞こえてくる。

 やがて、奥の扉が開き、女性が頬のあたりを押さえながら、でてきた。

 「正太の番ですよ」

 正太の名前が呼ばれる。母親はいっしょに診察室に付き添って入った。

 目の前に現れたのは、みたことのない黒いイスだった。なにがみたことないって、イスの背中から鉄の腕が伸びており、イスの周りにはぴかぴかと光る道具がいくつも乗っている皿も見える。

 ぴかぴかと光る道具は、どれもとがっており不気味だった。

 足がすくんで動かない正太の背中を、母親が押すようにして「先生お願いします」と頭を下げる。

 「どうしましたか」白い服を着て(正太は何が嫌いだといってもこの白い服が大嫌いだった)

マスクをした背の高い医者が、目だけ笑っているように優しく声をかける。

 「歯の丈夫な子だったのですが、学校の健康診断で、虫歯が見つかりまして診ていただこう思いまして」

 「どれどれ、イスに乗ってもらいましょうか」

 正太は覚悟を決めて、イスに腰掛ける。先生は、さっそく皿の上にある器具に手を伸ばした。ガチャガチャといわせて、最初に手にしたのは先っぽに丸い物がついてる、スプーンのような器具だった。

 「正太くん、大きく口を開いて」

 なんで僕の名前を知っているのだろうか、正太はびっくりした。

 まるで、今日自分が歯医者にくることを知っていたのだろうか、などと思いながら口を開く。

 「はあ、まあ、まだ小さいね」

 先に丸い物がついたスプーンのようなものを、口の奥に入れながら、つぶやいている。

 「どうでしょうか先生」

 「うん、まだ初期の段階だから、三回ぐらい通っていただければいいでしょう」

 「そうですか、ありがとうございます」

 「今日はこれでいいでしょう。つぎは、三日後にこれますか」

 「はい、学校が終わってから、かならずいくようにさせます」

 「じゃあ、正太君今日はお疲れ様、この次はちょっと治療しますからね」

 正太は、あっけないほどすぐに終わったのでほっとしたが、同時に次は治療するという言葉に、気分が重くなった。

 このへんてこりんで不気味なイスの上で治療なんて考えてみただけでも、恐ろしい。風邪を引いたときでも、こんな変なイスには座らないし、口の中入れた器具の先っぽが、歯茎に触ったときの不快な感触を思い出して、大嫌いな注射のほうか何十倍もましだと思った。

 待合室に出ると、そこには正太の同級生が一人で待っていた。

 「あら、けんちゃん一人で歯医者さんにきているの、えらいわね」と声をかけながら、母親は窓口で診察料を払う。

 正太は、けんちゃんと言葉を交わそうと思ったが、なんだか気後れして、「おおっ」と声をかけただけだった。けんちゃんも、手をあげてそれにこたえた。

 「正太、三日後にはけんちゃんみたいに、一人でこれるでしょう」

 正太は、無言でうなずく。

 本心はとても一人でなんか無理だなと思ったが、けんちゃんとあってしまった後ではそう答えないわけにはいかなかった。

 そして、いつもならどうして先生は、僕の名前を知っていたのだろうかと、母親に聞くのだが、そんなことはすっかり忘れていた。


 

ジーンジーンの恐怖


 三日後がきた。忘れていたわけではなかったが、学校での用事もありいつもより帰宅が遅くなった。

 母親は不在だった。そして、いつものように茶の間のちゃぶ台のうえにおやつと一緒に「ちゃんと歯磨きをしてから、歯医者さんにかならず行くこと」と太い字で書かれた紙と治療費が置かれていた。

 正太はおやつを食べてから、歯磨きをして重い足を引きずるように、家を出た。

 風邪や腹痛なんて、医者に行かなくても治ってしまうことがよくあった。

 虫歯だって、病気なら同じように治るはずだ。

 なんでも相談に乗ってくれる兄に、歯医者に初めて行った日の夜、そのことを聞いてみたが、兄の答えは「虫歯は、薬では治らないから、歯医者さんで痛んだところをとってもらわないと、もっとひどくなるだけだ」と逆に脅かされてしまった。

 覚悟していたので、正太はあれこれ考えずに、寄り道などせずにまっすぐ歯医者の向かい、えいやっとばかりに扉開いた。

 あんまり勢いよく開いたので、扉の取っ手が抜けそうになった。

 「あら、正太くん元気がいいわね」

 小さな窓口から、看護婦さんが顔をのぞかせる。

 「正太くん、そのまま診察室に入ってください」

 気持ちの整理がつかないうちに、あっという間に不気味なイスの上に座っていた。

 先生は、例によって先っぽに丸い物がついた器具を手にして、前回のように口の中をのぞいている。やがて、看護婦さんがそばに立ち、そうこうするうちに頭に丸い金属をつけた先生の顔が大きく迫ってきた。そして手には、まったくみたことのない器具が握られている。その器具には長いコードがついていた。

 「はい、正太くん、お口を大きく開けて。ちょっと我慢してくださいね」

 看護婦がマスクごしにつげる。

 正太は口をあけた。

 「もっと大きく開けようね」と医者がいう。

 正太はこれ以上開かないところまで、口を開けた。

 とその瞬間を待っていたように、医者が手にした器具が、ジーン、ジーンとうなり音をあげ、そしてその器具の先っぽが口の奥にいれられて、奥歯にあたるやゴッゴッゴゴゴと頭とあごに轟きわたった。

 正太は、はじめて感じる口の中のゴリゴリとした器具の動きに、思わず両手でイスを掴み、全身を反り返らせた。

 まるで、石臼を口の中で回しているような、ゴリゴリゴロゴロとして重く、自分の口でありながら、自分の口ではないような気分だった。

 「もうちょっとだから、我慢しようね」

 医者の言葉も看護婦さんの言葉も、耳には入らない。

 はやく、この恐怖の一瞬が終わることだけを祈っていた。

 「さあ、おわりました」医者はそう言いながらいっこうに、正太をイスから解放してはくれない。

 「いま、虫歯のところを削ってみたけれど、ちょっと奥の方にも広がっているようだから、もうすこし治療に時間がかかります。今日のところは、治療したところをふさいでおきますけれど、飴なんかを食べるとふさいだ物がとれしまいますから気をつけてください」

 といいつつ、アルコールランプを取り出して火をつけ、先のとがった器具の先端に黒い物をつけ炎であぶるようにして、それを治療した歯に埋め込んでいく。

 「はい、お疲れ様でした」

 看護婦さんに前垂れをとってもらい、ようやくイスから下りることができた。

 「正太くん、次は同じように三日後にきてください。先生もさっきおっしゃっていたように、ちょっと治療に時間がかかるかもしれないということをお母さんにお話しておいてください。お願いします」

 窓口で、治療費を払うときに、看護婦さんから念をおされた。


歯医者は悪魔

 また、三日後がきた。正太は、朝から憂鬱だった。できれば歯医者には行きたくなかった。でも行かなければならないことは承知していた。

 日延べできないか、明日にでもならないか。今日という日に行かないですむ方法はないか、さんざん考えているうちに、時間になってしまった。

 「正太くん、君の虫歯は、だいぶ深くて、このままにしておくと痛くなるので、思い切って神経を抜く方がいいので、今日、やっておきましょう。前回、十分に治療してあるので、もう神経を抜くことはできますから。うん、ちょっとチクッとするけれど、抜いてしまえばもう、痛みはなくなるから」。

 イスに乗るなり、医者は一気にまくし立てる。

 正太の頭で理解できたたのは、神経、抜く、チクッ、痛みはなくなる、それだけだった。

 痛みはなくなる、それは自分を納得させる唯一の言葉だった。

 うなずく暇もなく、口をあーんと開けさせられて、口の中に金属の器具を入れられた。

 そして、その瞬間、チクッとした痛みは大嘘だった。

 奥歯の中で、何かが何かに触ったと思ったら、そこに焼き火箸が突き刺さったようなものすごい、痛み、正太がいままで一度も味わったことのない痛みが、ズッキーンときた。

 「あわわわ、ぎゃー」正太は、口の中で叫んだ。声にならなかったが、叫んだ。

 「おっと、ちょっと痛かったかな。でも神経は抜けたからもう大丈夫だ」

 医者は、正太にこの世で初めての痛みを味あわせた、器具を皿の上に置いた。

 正太の目は、いっぱいの涙であふれていた。

 開いた口は、なかなか閉まらなかった。

 マスクをした医者は、心配そうに正太を見つめている。

 正太は、涙の向こうにゆがんで見える医者を、悪魔だと思った。

 チクッとじゃない、ちょっと痛かったかなどころではない、死ぬかと思った。

 正太は、その気持ちを、思い切り医者と看護婦にぶつけたかった。

 でも、数分前のあの痛さを思い出すと、一秒でも早く、このイスから飛び降りて、入り口の扉をたたき破って外へ逃すのが先だった。

 ズキンズキンするような痛みを感じながら、正太は治療費は払い、三日後にくるようにいわれて、ようやく歯医者を後にした。

 家に帰ってから、正太は母親に今日の治療のことを話し、もう行かなくてもいいでしょうと何度も懇願した。

 神経を抜いたのでもう痛みの心配はなくなった、からというのがその理由だった。そんなはずはありません、治療したところにはまだ、黒い詰め物がしてあるでしょう、それがなくなるまで行かなければなりません、と母親は正太に口を開けさせて歯の治療あとを確かめながら、ゆるしてはくれない。

 正太にだってそれくらいはわかっている。でも、あの痛さを思い出すと、二度と行きたくない、歯医者の扉を二度と開けたくない。

 正太はもう決心していた。


敗者復活戦

 正太は、母親がなんと言おうと、歯医者へ行こうとはしなかった。

 「ここまでちゃんと治療したのだから、もったいなでしょう。ちゃんと治しておきましょう」 

 母親にやさしくいわれようと、漫画を買ってあげるからとニンジンをぶら下げられようと、正太は、悪魔の歯医者に、行くことを考えたら、どんなことでも我慢できた。少年画報をあきらめようと、笛吹童子の映画を観に行けなくても、そんなことはあの痛みを思い出せば、我慢できた。

 兄や姉も、ちゃんと治しておかないと、あとでつらい思いするのは正太だよ、と口をそろえて言われても、後よりも今が問題の正太にとっては、ひとつも説得力がなかった。

 ついには、母親に無理矢理手を引かれて、歯医者の入口まで連れて行かれたが、とっさに逃げ出して、夕飯まで自宅に帰らなかった。

 こうして、日にちが経ち、母親はそのうち、また、どうしても歯が痛くなったら自分からいくことになるだろうと、あきらめてしまった。

 

 正太の兄は、体があまり丈夫ではなかったけれど、運動神経がよく、どんなスポーツでも器用にこなした。なかでも、テニスが得意で、中学校でもテニス部に所属していた。

 新聞のスポーツ欄でも、テニスのニュースがのっていると、熱心に目を通す。デビスカップで加茂選手ががんばっているとか、インドの選手が強いとか、野球と相撲とプロレス以外スポーツを思っていない正太にはさっぱりわからない世界だった。

 しかも、テニスというスポーツには、野球などとはちがって不思議なルールがあるらしい、それが、はいしゃふっかつせんだった。

 正太は、負けた加茂選手が、はいしゃふっかつせんで、また勝ち上がってきたと兄が喜ぶのを聞いて、はいしゃふっかつせんってなに、と聞いてみた。

 「正太にはわからないかもしれないけれど、テニスというのはトーナメント戦で戦うので、1回戦で負けても、1回戦で負けた者同士が、戦って勝った方がもう一回本戦に参加して戦うことができるルールがあって、それを敗者復活戦と言うんだ。つまり、まけてももう一回チャンスがあるというルールだ」

 「ふーん、負けてももう一度試合に出られるのって、ずるくない」

 「トーナメントは組み合わせによって運不運があるから、敗者復活戦というのは、その不公平をなくそうというルールともいえるんだよ」

 そんなむずかしい話をいくら説明されても、正太の脳みそで理解することは無理だった。

 でも、敗者復活戦が負けた者にもう一回戦うチャンスが与えられる、ということだけは、なんとなくわかった。

 その日の夜のことだった、正太は子ども部屋のベッドに入ってから、治療した奥歯にズーン、ズーンと繰り返し、痛みを感じた。

 しばらくすると痛みがおさまるのだが、しばらくするとまた始まる。

 そしてその間隔が次第に短くなり、やがて、ズーン、ズーンがズキン、ズキンにかわっていった。

 痛みはどんどんましていき、正太はとうとうワンワンと泣き出した。

 兄や姉、父母はそれこそ心配して大慌てになったが、原因が虫歯だとわかると、とたんに冷たくなった。

 「ほら、やっぱり放っておいたから痛くなったでしょう」 

 「お母さんの言うとおりにしていれば、こんなことにならなかったのに」

 「こんな遅くにお医者さんは、診てくれませんからね」

 「自分が悪いのだから、我慢しなさい」

 「つめたいタオルで冷やすぐらいね」

 などと、みんな同情なんかしてくれない。

 「明日は、歯医者さんへ行ってちゃんと治療してもらおうね正太」と小さい方の姉がいう。

 「そうだ、正太、明日は正太の歯医者復活戦だ」

 と、兄にしては珍しく冗談をいった。

 ほかのみんなは笑ったけれど、正太には、何のことがさっぱりわからなかったし、もちろん笑う気になんかなれてなかった。




 

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