2011年4月

るしゅばん

こじゅけい狩り 

 

 正太には、自分の頭で分かることよりも、分からないことのほうが多かった。

 今日もその分からないことのほうで、じくじくとした気持ちでいた。

 学校は勉強をするところ。正太は、それくらいは分かっている。

 だから、学校の門をいったん出たら、そこはもう勉強するところではなくなるはずだ。

 ということは、勉強するところを出た以上は、友達と遊ぼうと漫画を読もうと、裏山で冒険ごっこをしようと自由なはずだというのが、正太のいいぶんだ。

 それなのに、これから行かなければならないところがある。塾だ。

 塾は勉強する場所だ。塾で勉強するなら、なんのために学校に行くのかそれが、正太にはどうしても納得できない。納得回路がそこだけは働かない。

 塾は正太の家から歩いて10分足らずのところにある。

 同級生のほとんどは、下校する道すがらランドセルを家においてからどこそこで会おうと約束を交わしている。正太はどうする?と聞かれて口ごもらざるを得ないなのは、ちゃぶ台の上に伝言があるからだ。


 それには理由があった。ほんの7日ほど前だった。小学校の門を出たところで、友達の勝二からとびっきりの誘いをうけた。勝二のお父さんが山へこじゅけいという鳥を獲りにいくけれどいっしょに行かないかというのだ。こじゅけいは、あまり飛べない鳥で、山の斜面を這いずり回る習性を利用して、仕掛けた網に追い込むというもので、春先や秋になると大人たちが集っては狩りをしていた。

 勝二のお父さんは、近所の仲間内でも鳥やうさぎを生け捕りする名人で、正太は、いくども獲物を逆さにぶら下げて山から下りてくる姿を目撃していた。

 学校が終わって、解放された午後、天気は秋晴れで気分は爽快、そんなときに山に入って鳥を追い立てるなんて、日曜日に見た嵐寛十郎が主演の映画、鞍馬天狗よりも面白いに決まっている。正太は、勝二の誘いに迷うことなくうなづいた。

 集合時間は、大願寺の山門前に2時といい交わして、脱兎のごとく家に走る。母親の許しを得ておかなければならない。なにか、朝学校に行くとき、約束したことがあるような気がしたが、なにかの用事なら、鳥を捕まえるために予定を変えてもらうつもりだった。

 玄関の引き戸を思い切り開ける。勝二と別れてから考え続けてきたいいわけの台詞を母親にいっきにまくし立てるために、勢いをつけたかったのだ。

 果たして、家の中はがらんとしている。人の気配はない。そんなのはいつものことで珍しくないが、正太にとっては好都合だった。許しを得ようにも、その母親が不在なのだ。こうなったら自分で判断する以外にない。結論はすぐに出た。ランドセルを玄関の上がりかまちに、投げ捨てると後ろ手で引き戸を、開いたときを同じように、思い切り閉めた。

 鍵など夜寝るとき以外にかけたことはない。いっきに玄関先の石段を駆け下りると、約束の集合場所に一目散に走った。

 大願寺の山門は、正太の家から1分とかからない。

 急ぐこともないのに走ったのは、母親が今にも帰ってくるのではないかと思えたからだ。

 山門に勝二の姿はない。いったい今が何時何分なのかもわからない。大願寺の山門は黒塗りで、そんなに立派には見えないけれど、町内の友達同士が放課後に集る目印としては十分なほど大きかった。友達同士で、いつものところといえば、それは大願寺の山門を意味していた。

 早く着きすぎたかなと、思う間もなく、山門の下に広がる坂を勝二の家から狩りの一団が登ってきた。

 「おっ、今日は正太もいっしょにいくのか」

 勝二の父親が、日に焼けた顔をほころばしながら言った。

 「よろしくお願いします」

 神妙に、正太は大人達に向かって頭を下げた。

 「正太は東京っ子だから、言葉遣いがていねいだ、なあみんな」

 大人達が勝二の父親の言葉に同意するように、頷く。

 「子どもは全部で、何人だ」

 「正太を入れて、全部で5人」

 勝二がとっさに答える。

 「まあ、子どもも鳥を追い立てるには、役立つだろう」

 正太は、その一言で体がぶるっと震えた。

 大人に混じって、鳥を追い立てる役割を任されるなんて、夕飯のおかずを買いに、駅の近くの肉屋にいくのとは、比較にならないほどすごいことだ。

 へまはできない。大人の足手まといにはならないぞ、と正太は残りの4人と目を合わせた。それぞれに、緊張して。おしっこをしたくなるような、顔をしていた。

 その日の狩りの成果は思わしくなかった。

 それでも、勝二の父親が、二羽のこじゅけいを捕まえた。

 残念なことに、友達と大人達の後を追いながら、追い込む網から離れたところで、ほーほーと声を上げて追い立ていたので、その瞬間を正太は見ることができなかった。

 山から下りてくると、正太達こどもは、獲物を見せてもらった。

 こじゅけいはすでに首をひねられており、目に白い膜がかかっている。

 正太は、そっと手を伸ばして羽を触ってみた、まだぬくもりがあるような気がした。

 大人の一人が、カメラを取り出して、大願寺の山門の階段で二羽の獲物を手にしている勝二の父親を取り囲むように記念写真を撮影した。

 それは、正太にとって大人に混ざって初めて、狩りをした最初で最後の経験になった。


お母さんは鬼だ


 こじゅけい狩りが終わって、自宅に帰ったのは、もうすぐ夕飯という時間だった。

 ちょっと遅くなったけれど、どこどこに行くと告げたくとも、母親がいなかったということをたてに正太は言い逃れると踏んでいた。

 だが、甘かった。

 台所の引き戸を開けるや否や、母親の雷がドシーンと思い切り落っこちてきた。

 「正太、英語の塾にいかなかったでしょう。どこで遊んでいたの」

 有無を言わせないその一言で、正太は我に帰った。

 そういえば、なにか忘れているなと思ったことは思ったけれど、勝二からこじゅけい狩りの誘いを受けたとたんに、なにか忘れているのではという思いは、地面に大きな穴を掘って埋めたように、いま、母親に言われるまで二度と頭には浮かばなかった。

 「さっき、英語の先生の奥さんにあったら、今日は正太さんはどうしたのですかって、いわれて、お母さんにどんなに恥ずかしかったか。あれほど約束していたのに、忘れてどこに行っていたの、こんなに遅くまで」

 「学校から帰って、お母さんに聞こうと思っていたんだけれど、いなかったから、そのまま勝二のお父さんたちと、裏山へ狩りに行っていたの」

 なんとか、母親が不在でだったとを言い訳に使おうと思ったが、ほとんど声にならなく、背中を小さく丸めるばかりだった。

 「正太は、塾に行きたくないのですか。もしそうなら止めますか。勉強するのはお母さんではなくて正太自身なのだから、お母さんはどっちでもいいけれど」

 どっちでもいいはずはないくらい正太にはよく分かっている。それを自分で決めていいならそうしたいけれど、「僕、ちゃんと勉強したい」と本音とは裏腹な返事が、すんなりと口をついて出た自分に、正太はお尻のあたりにくすぐったさを感じた。

 鬼のような母親を前に、正太はその場をなんとしても切り抜けないと、おやつも食べずに遊んでいておなかがすききっている上に、晩ご飯抜きなどと言われたら、もう生きてはいけないと、必死だった。

 「正太、なんで塾に行くのか自分で分かっているのですか」

 またあの話が始まったと、正太は気持ちの中でうんざりしていたが、顔に出すわけにはいかない。鬼をこれいじょう怒らせたらどうなるか、そっちの方が一大事だ。

 また、あの話というのは、この前の塾でのテストのことだ。


あの話


 そもそも、正太が塾を好きになれないいちばんの理由は、いくたびにテストがあることだった。小学校でもテストといえば、学期の終わりとか決まっており、塾のように、学校にいくたびにテストがあったら、誰も学校なんかいかなくなる。というのが正太の理屈だった。

 その上、国語も算数もすべて抜き打ちにテストをするので、覚悟していても思わず「エーッまたテスト」と叫ばずにはいられない正太だった。

 ところが、母親たちには評判がいいらしい。

 評判をききつけて隣町からも通ってくる子どもがいるほどだ。

 塾の先生はといえば、正太が通っている英語塾と同じように中学校や高校を定年退職した結構年もいっており、普段の教える時の話し方などはやさしいし、町の中でなったときにも「やあ、正太君」などと、声をかけてくれる。 

 でもテストは容赦なしだった。

 「先生、小学校でも滅多にテストなんかしないのに、なんでいつもいつもテストがあるのですか」と正太は質問したことがあった。

 「テストするのは、正太君の理解できていないところを見つけるのが目的です」というもっともな答えで、正太はその後一言も言い返せなかった。

 「お兄ちゃん、塾の先生はなかなかの人物だ」

 と夜、子ども部屋で兄に話してみた。

 「ふ−ん、そうなら正太は塾がすきになった?」

 「そうじゃなくて、先生がなかなかの人物だっていってるだけ」

 「正太、よく学校で先生から"分かりましたか?"って聞かれて、本当は分かっていないのに"分かりました"って答えることあるだろう。塾の先生は、分かったふりをなくすのがきっと仕事だと思っているのだろう」

 「そうか、やっぱり大した人物だ」

 正太は兄のいっている意味が分かったような分からないような気がしたけれど、ともかく兄が感心しているようなので、大した人物を繰り返した。

 その大した人物から出された、国語のテストで、正太はしくじりをした。

 その問題は、漢字の読みで、「留守番」という三文字だった。

 読みのテストだから、ほかにもたくさん問題は並んでいた。

 すいすいと解いていって、正太は「留守番」ではたと鉛筆が止まった。

 "知っている漢字三文字が並んでいるが、それぞれを知っている読み方をしてみても、つなげると聞いたことのない答えになる"。

 それがつまずきのもとだった。

 "留は、これはルだ。つぎの守は、野球の守備のシュだ。最後の番は掃除当番のバン。三文字をならべると「るしゅばん」となる"。

 さて、るしゅばんとはなにか、正太には思い当たることがない。

 この世の中には知らないことがまだごまんとある。

 つまり、これは正太のまだ未知なる言葉となり、漢字三文字の横についているかっこに(るしゅばん)と書き込んだ。

 もちろん先生の採点は、×

 その日そのまま解答用紙を持って帰ってから、母親に「正太、るしゅばんって何ですか?どんなことですか」と聞かれたが、なんといっても未知なることなので、答えようがない。

 「お母さんがでかけて、正太が一人で家にいることをなんといいますか?」

 「るすばん?」

 「そうでしょう。これはるすばんと読むのです。これひとつができていれば、満点でしたね。正太は、耳で聞く言葉ならたいがいは分かるけれど、漢字になると読めない、書けないことがまだあるでしょう。学校の勉強だけでは、足りないから、塾にいってそれを補うことが必要なのです。分かりましたか」

 それが母親の「あの話」である。耳にタコができるほど聞かされているけれど、母親が間違ったことを言っている訳ではないので、口をとんがらせることもできなかった。

 そのことがあってから、小さい方の姉が正太のことを「るしゅばん君」と呼ぶようになった。


お習字の塾

 

 こじゅけいの事件?以来、塾のある日には、必ずちゃぶ台の上のおやつといっしょに、母親からのメモがいっしょにおかれていた。

 それは、母親が外出していようが自宅にいようが、かわりなかった。

 まったく母親は、正太のことを信用していなかった。

 その日も、ちゃぶ台の上には、おやつといっしょに、「お習字」と鉛筆で書かれた、メモおかれていた。

 今朝、学校に行くときに「今日は、お姉ちゃんの中学校のPTAがあるので、お母さんは出かけていますからね」と、走り出していた正太の背中に母親からの大きな声が追いかけてきた。

 正太は、ランドセルをおいて、おやつを食べ、メモをポケットにねじ込み、黒い布製の横長の手提げを手にした。中には習字道具が一式いれてある。

 正太は習字の塾が好きだった。

 なんといってもテストがない。

 習字の塾は、駅の東側の線路沿いの花屋の二階にあった。

 近くには、同級生も大勢住んでいるので、花屋の前の路地で「おい、正太。遊ばないか」などと誘惑も少なくなかった。でも正太の持っている手提げを見ると「なんだ習字か」と、冷たく突き放される。

 5年生になって、英語、国語、絵そして習字と正太は、けっこう塾通で忙しかった。

 習字の塾の先生は、背が低く、どっぷりと太り、いつも地味な和服を着ているおばあさんだった。髪は白髪まじりで、後ろにまとめて櫛でひとまとめにしている。

 とてもしゃべり方がゆっくりしており、そして優しかった。

 まず怒ったことは見たことがない。

 花屋の二階は、外からの光が入らずいつもうすぐらい。

 十畳ほどの和室に、横長の机が十台ほど並べられており、二人が正座して座る。

 「墨をするときには、海から陸へ、陸から海へ、ゆっくりゆっくりですよ。ゆっくりすらないと、墨は濃くなりません。ゆっくりゆっくり」

 硯に水を注ぎ、水の溜まりを海といい、平らな所を陸という。先生の言葉に合わせて、正太たちは、海と陸を行き来させながら、墨をする。

 墨がすり終わると、巻き寿司を作るときの竹のすだれような物に巻いてある、筆をとりだして、すった墨につけ込み、ゆっくりと固くなった先っぽをほぐす。

 緑色の下敷きを敷き、そこに練習用の古新聞を広げ、手本を見ながらなんども上から重ねるように筆の動きを繰り返す。

 そして、自信がついたところで、真っ白な半紙をのせ、半紙が動かないように鉄の文鎮でしっかりと固定する。

 墨をたっぷりと吸い込んだ筆を半紙に押し付けるようにして、筆を運んでいく。

 墨に含まれているニカワのすすけたような臭いが、半紙から上がってきた。

 習字は絵を描くのと同じような感覚があり、それが正太は好きだった。

 文字を描く、こつをつかむまではいっていないが、横棒、縦棒の筆の送り方、はねや止めの要領がなんとなく分かってきて、先生がいうようにその応用が大切なのだということは、正太には理解できていた。

 先生は書き上がった正太の文字に朱で直しを入れたり、よくできたときに何重もの赤丸をつけてくれた。

 そして、本当によくできた作品には、「お父さん、お母さんにみせてあげなさい」と、朱を入れることなく持たせてくれた。

 ほかの塾では、時間がなかなか経たないが、習字や絵の教室では、まだ書き足らないというほど時間が早く経った。

 その日も、正太は時間が経つのも忘れて、半紙が無くなるまで書き続けていた。

 先生から、今日いちばんよく書けた作品を丸めてもらい、正太が花屋をできたとき外はすっかり暗くなっていた。

 路地には同級生たちの姿もない。

 ちょっと心細くなったけれど、正太は先生にほめられてこともあり、気分は悪くなかった。

 右に駅の明かりを見ながら、広場を横切り、反対側の路地に入る。

 人影も少ないその道を、次の角にある天ぷらやの所で右に曲がる。

 正面に地方事務所の大きい建物が見えてくる。

 建物手前の踏切を渡り、地方事務所の門を右に巻くようにして暗い坂道を自宅に向かってのぼっていく。

 辺りは街灯もなく真っ暗で、よその家から漏れるわずかな電灯の明かりとぼんやりとした月明かりだけがたよりだ。

 それでも正太にとっては慣れた道なので、口笛を吹きながら自宅の階段下にたどりついて、ふっと玄関を見上げると、家の中の電灯がつていないことに気づいた。

 正太は、石段を上り、玄関の引き戸を開こうとした、でもびくっとも動かない。

 しかたなく、台所の方へ回り同じように、引き戸をあけようとしたが、こちらも鍵がかかっている。家にはまったく電灯がついていない。

 "こんな時間に、お母さんもお姉ちゃんもお兄ちゃんもどこへいってしまったのか。もう夕食の時間だし、僕が帰ったらいっしょにご飯を食べるはずなのに"

 正太は、どうしようもなくなって、玄関口に戻りみんなが帰ってくるのを待つことにして、石段に腰を下ろした。

 しばらくして、小さく囁くような声が家の中から聞こえた。

 正太は、耳をすませて聞き耳を立てる。

 ぼそぼそした声で"石段にこしかけている"とか、"いがいとおとなしく待っている"とか、聞こえてくる。

 正太は、その声に石段から立ち上がった。手にはもちろん習字道具の入った手提げをもっている。と、そのとき「あっ、正太はお習字の塾にいっていたんだ」という母親の大きな声がはっきりと聞こえて、同時に電灯ががつき、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。

 なかから、母親、姉二人と兄が飛び出してきた。

 「ごめんごめん、正太が今日はお習字の塾に行っていたの、すっかり忘れていたの。また、どこかへ鉄砲玉のように遊びにいっているもんだとばっかり思っていて、みんなで正太を懲らしめようとちょっと脅かしてしまって、ごめんごめん」

 その直後、正太の大きな泣き声が近所中に響き渡った。