西を向いて笑う
秋刀魚の煙
秋になると秋刀魚を焼く。
正太の家に限らず、どこの家でも秋になると秋刀魚を焼く。
秋刀魚の季節になると、♪今日もコロッケ、明日もコロッケという歌の替え歌で、正太は
♪今日も秋刀魚、明日も秋刀魚、これじゃ年がら年中秋刀魚、と近所中に聞こえるような声歌い出す。
秋にしか食べないのに、年がら年中秋刀魚というのはおかしいと、小さい方の姉はからかうが、正太の気持ちは、いつでも秋刀魚が食べられたら、うれしいほど秋刀魚が大好きだった。
夕方になるとどこの家の台所からも、秋刀魚を焼く匂いが漂ってくる。
学校から帰ると、台所の洗い桶のなかに、くろぐろとした大きな秋刀魚が6匹、横たわっている。
「わぁ、秋刀魚だ。お母さん、晩ご飯は秋刀魚だね」
「お父さんも、今日は土曜日で帰りが早いでしょうから、みんなで食べましょう。正太、猫たちに盗まれないように、桶にフタしておいてちょうだい」
正太は、大きな鍋のフタで洗い桶にフタをし、さらに、水の入ったヤカンを重し代わりに置いた。
夕食の準備は、大体4時半頃から始まる。
父親は、都心勤めで、仕事が終わるのがいつも5時半と決まっており、残業や付き合いもあるので、帰りは不規則だった。
そのために、土曜、日曜日以外の夕食は、いつも父親を除いて5人で済ますことになっている。宿題を済ませると、正太は、庭に七輪を持ち出した。
秋刀魚といえば、七輪を用意しなければならない。
そして、七輪で炭をおこすのは、正太の仕事だった。
「まだ炭をおこすのは、早いんじゃない」
母親の言葉に、「用意しておくだけ」、と返事しながら七輪の底にたまっている灰を掻き出したり、古新聞を丸めて七輪に押し込んだりしている。
正太は、秋刀魚を焼くときの匂いが大好きだった。
炭の上におちる秋刀魚の油が、燃え上がり、煙となって辺り一面に広がる。
気がつくと、匂いをかぎつけて近所の猫も集まってくる。
毎年秋になると繰り返されることだけれど、正太はそれがとても楽しく感じられた。
だから秋刀魚を焼く準備を、正太は姉兄の誰にも任せたくなかった。
とはいっても、七輪を掃除したり、炭をおこしたりするようになったのは去年の秋からのことで、まだ数えるほどしか経験していない。
「おかあさん、炭はどこにあるの」
「去年、自分でしまったでしょう。縁側の下を見てごらんなさい」
正太の住む家は古い造りで、床下が高く風通しをよくしてある。
小学生の正太はちょっとかがむだけで、縁側の下にもぐれてしまう。
縁側の下は、炭俵だけでなくいろいろな物が押し込まれている。
正太は、板きれやスコップなどを外に出して、一番奥にしまってある炭俵を引っ張り出した。
炭は冬になると、主に掘りこたつ用に使う。
父親の書斎にある火鉢にも使われるが、子どもたちは、主にたどん式のあんかで暖をとっていた。子ども部屋には、一酸化炭素中毒が心配なので火鉢はなかった。
冬は底冷えするので、そんなときには、たどん式のあんかに足をのせて暖める。
下半身はそれで十分だったが、上半身には綿入れのかいまきを着る。
寝るときには、あんかをそのまま二段ベッドの布団に持ち込む、たどんは火持ちがよくて、正太はぬくぬくとしたやさしい暖かさが好きだった。
ひと冬に何度か、どうにもならないほど寒い夜がある。
そんなとき、正太は枕を抱えて、父母の布団に行き、潜り込ませてもらうのだった。
七輪、丸網、炭おこし
母親が働く台所には、石油式コンロと練炭コンロがあって、そこでご飯や魚の煮炊きをしていた。ガスは、正太が住むまちにはまだなかった。
練炭コンロは、おもにことこと煮込む料理に使っていた。
とくに、正月料理などをつくるときは、練炭でなければというのが、母親の口癖だった。
「正太、炭にネズミがおしっこしていませんか?」
「うん、確かめる」
縁側の下から、炭俵を出して、中の炭を取り出す。
今年の冬が終わって、残った炭を油紙の袋に入れ直して、それを俵に入れておいた。
炭を裸のまま俵に入れておくと、ネズミがおしっこをすることが多かった。
気づかずに、そのままこたつなどで炭をおこすと、部屋の中におしっこのなんとも言えない臭い匂いが漂ってしまう。
家族が、集まってくつろぐ掘りこたつから、ネズミのおしっこの匂いがすると、家族誰も機嫌が悪くなる。
炭俵のなかの袋には、ネズミのおしっこのようなシミはない。
炭を取り出して、そっと鼻を近づけても、古びた炭の匂いしかしない。
「おかあさん、大丈夫みたい」
「油紙の袋に入れておいたから、よかったようね。正太、もうそろそろ炭をおこしてもいいわよ」
炭おこしには、こつがある。
七輪には、すでに古新聞を詰め込んである。
古新聞の上に、お風呂のたきつけ用に山から拾い集めてきた、小枝を縦横に並べる。よく火が燃えるように、ヒバの枯れ葉をいっしょに混ぜる。
小さく砕けた炭を、小枝や枯れ葉の上に敷いて、その上に、大きめの炭を二つ三つ、隙間をつくりながら山型に組んでおく。
七輪の下の空気穴に、細くねじった新聞紙を差し込み、マッチで火をつけた。
丸めた新聞紙に火が移り、ヒバの枯れ葉がパチパチと音を立て燃え上がり、最初に白い煙が上がってくる。
乾いた小枝に火が回ると、あとは炭がおきるのを待つだけだ。
初めて炭をおこしたときには、要領が飲み込めず、炭に火が移るまえに、小枝が燃え尽きたりして何度もやり直したものだった。
黒い炭が、キンキン、ちりちりという小さな金属音とともに、赤くなりはじめる。
いつの間にか、新聞紙も小枝も白く燃え尽きている。
うまくいった、正太は納得したように、一人で何度もうなずいた。
残った新聞紙を折り、団扇代わりにして七輪の空気穴からぱたぱたと空気を送る。炭は、さらに勢いをまして、ぱち、ぱちと赤い火花を飛ばし始める。
おきた炭の上にさらに、大きめの炭を足していく。
「おかあさん、炭がおきたよ」
「おや、今日はずいぶん早いこと。でも、しっかり炭が赤くなってから焼きますからね」
炭はぱちぱちと爆ぜながら、最後に乗せた大きな炭まで火が回り始める。
正太は、空気穴をちょっと閉めて、空気の通りを悪くした。
あんまり勢いよく炭がおきると、魚を焼くまえに炭が燃え尽きないかと、かえって不安だった。
しばらくすると、母親が大き目の丸いザルに、秋刀魚をのせて庭に出てきた。
秋刀魚は、6匹とも尾を目に通して、くるりと丸くなっている。
正太は、初めて秋刀魚を焼くのを見たときに、これでは秋刀魚がかわいそうだと母親に訴えたが、「大きな秋刀魚を焼くのに、この七輪では頭と尾がはみ出してしまうでしょう。こうして丸くして焼けば、網にそっくり乗るし、裏返すだけで、お腹も背中も焼けるのです」と、小学校の先生のように話す。
お腹のほうを下にして焼き始める。
炭は、真っ赤で、程なくして秋刀魚の焼ける匂いが立ち上がり、そして、お腹の部分からぼたりぼたりを脂がしたたり落ちだしてきた。
脂は、炭の上でぼぁと燃え上がり、炎は秋刀魚を包むようにさらに勢いをます。
正太は、手にした折りたたんだ新聞紙で、煙をおいやる。
炎が勢いをますと、落ちる脂も増えるので、煙と炎で、七輪は大騒ぎになってくる。
落ちた脂で真っ赤な炭は黒く変色する。こうなると火力も弱くなるので、正太は網を持ち上げて、太めの木の枝が炭をひっくり返す。
そうこうしているうちに、今度は木の枝に火が移り、燃え始めてきた。
お腹の部分に十分火が通ったところで、ひっくり返して背中の番だ。
網に秋刀魚がこびりついて思うように剥がせない。
しかも、下からは脂が燃えて炎が容赦なく上がってくる。
こびりついて秋刀魚の身はそのままに、ようやくひっくり返すことができた。
「正太、ちょっと火が強すぎるんじゃないの」
「そんなことないよ。いつものとおりだよ」
「秋刀魚は、最初は強火でもいいけれど、中まで火を通すには、少し火を弱めて、じっくり焼くのがこつです」
母親は、正太の脇に腰を低くして、そっと手をのばして七輪の空気口の金具を半分ほど閉める。
「ほら、炎が小さくなったでしょう、上手に焼いてくださいな」
こうして、正太は6匹の秋刀魚を焼き上げる。
庭の回りには匂いをかぎつけた猫たちが一匹、二匹と集まっている。
そして、焼き上がった頃に、兄や姉、父親も「今日は秋刀魚か」と異口同音に正太に声をかけながら、帰ってきた。
西を向いて笑う
正太の家では、食事をする部屋が二室あった。
普段は、子ども部屋の隣の台所に置かれた大きめのテーブルで食べるが、冬になると、その部屋では寒いので、隣の居間にある掘り炬燵に移る。
秋刀魚の頃は、まだ十分に夏の名残の暑さがあるので、台所のテーブルをかこむことになる。
六枚の丸いさらに、丸く焼かれた秋刀魚がそのまんまのせられている。
丸い輪のなかには、たっぷりの大根おろしが。
黒く焼けた秋刀魚と白い大根おろしが、正太の食欲をそそる。
おろしにちょっとしょう油をたらし、さっそく正太は背中の部分から、食べ始めた。
父親や母親、一番上の姉は、酢橘を搾ってかけている。
「正太、今日の秋刀魚は初物だから、西を向いて笑いなさい」
父親がいう。
そういえば、去年も、その前も言われたような気がする。
秋刀魚のときだけでなく、スイカやブドウなどの果物、トマトやきゅうりなど野菜の時も西を向いて笑った。
「正太、その年の初物を食べたときに西を向いて笑うと、来年もまた食べられますよ、というおまじないだから、秋刀魚が好きな正太は、とくによく笑っておくといいよ」
兄に促されて、正太は思いっきり口をあげて、西はあっちと兄が指さす方に向かって、大きな声で笑った。
正太に続いて、父も母も、兄、姉も笑う。
どこの家でも、節分の豆まきで「鬼は外、福は内」というように、秋刀魚を食べるときにも西を向いて笑うのだろうか、正太は秋刀魚を焼いている隣近所の匂いをかいだことがあるが、食べるときに笑っている声を聞いたことはなかった。
さいころ飴
秋刀魚の季節は、限られている。
普段買う魚類は、まちなかの魚屋で間に合うが、鮮度が命の秋刀魚については、千葉の方から、大きな籠を背負ってくる行商のおばさん達が届けてくれる。
朝、水揚げされたばかりの秋刀魚などを運んでくるのだ。
行商のおばさん達が、背負ってくる籠は、地面におろすと、腰の曲がったおばさんの背丈をこえているほど、高く、そして重い。
正太は一度、おばさんの荷物を持ち上げたこことがあるが、ぴくりとも動かなかった。
運ばれてくる秋刀魚は、どれも色が青黒く、つやがあり、しかも大きかった。
「いつもながら、立派な秋刀魚ですね」
母親の言葉は、行商のおばさん達の苦労をねぎらうような響きがあった。
正太にとって千葉がどこにあるかも定かでないし、秋刀魚が水揚げされる港が、どんなところかも知らない。分かっていることは、遙か遠くの海からおばさん達が重い荷物を背負って運んで来るという、想像もつかない世界が、あるということだけだった。
行商のおばさん達には、それぞれお得意さんがいるらしく、正太が遊んでいると、顔なじみのおばさんが、正太をみつけると、「お母さんはお家ににおいでかね」などと聞いてくる。
そんな日は夕方家に帰ると、母親がきまって魚料理を用意していた。
正太が行商のおばさんの運んでくる物で好きだったのは、アサリや蛤などの貝類だった。母親は、どちらもみそ汁にはしないで、すまし汁にした。
「新鮮なアサリや蛤は、みそ汁にしてはもったいない。貝からでるおしい味をそのまま活かすには、すまし汁がいちばん」と、口癖のようにいっていた。
正太は、みそ汁にすると貝が見えなくなるので、すまし汁の方がすきだったし、実際にまちなかの魚屋で買った貝と比べると、生臭さがなく甘く、おいしく感じられた。
行商のおばさん達の姿は、正太にとって、おいしくて新鮮な魚介類を運んできてくれる、たのもしい存在だった。
秋刀魚を運ぶ行商のおばさん達も、季節が終わるとめっきり姿を見なくなる。
そんな、ある日の夜、正太の父親が上機嫌で帰ってきた。
「あらあらそんなに飲んで、どうしたのですか」
「うん、正太は起きているか」
その会話を聞きつけた正太は、布団から飛び出して子ども部屋から居間に突進した。
「正太は、本当に耳が早い」
居間で起きていた小さい方の姉が、呆れ顔でいった。
「お父さん、なにか買ってきてくれたの」
「おお、正太はこういう時は、すぐに目が覚めるんだね」
「まだ、寝ていなかったよ」
実は、半分眠りかかっていたが、いまはもう目がぱっちりしている。
「ほら、めずらしいお菓子だ」
父親が、いつもの仕事鞄とともに手に提げていた、紙袋を正太に渡した。
手にしてみると、ずしりとして重い。
袋の中には、赤と白の模様の箱がいくつも重なって入っている。
正太は、袋に手を突っ込んで、箱の一つを出した。
もどかしく、その箱を開けると、中にはさらに同じ模様の小さい箱がぎっしりと行儀良く並んでいる。
正太は、小さい箱の一つをつまみ出した。
箱は正方形で、それぞれの面にさいころの1から6までの水玉が印刷されている。
「それは、明治製菓のさいころ飴だ」
「お父さんは、薬の会社からお菓子の会社にお勤めが変わったの?」
お菓子の家に住むことと、漫画を敷き詰めたベッドで寝ることが夢だった正太にとって、お菓子の会社に父親が勤めることは、夢に一歩近づくことを意味していた。
「ばーか」小さい方の姉がすかさず、言葉をはさむ。
「お父さんの勤める薬の会社と明治製菓は、お薬の開発で協力しているから、こうして、お菓子をもらってくるがわからないの、正太は」
「なんで、虫歯になるお菓子を造る会社と、虫歯を防ぐ薬をつくるお父さんの会社と仲がいいの、そんなのおかしいよ」
「はいはい、正太のへりくつには、勝てません。その内分かるようになります。お父さん私もさいころ飴もらっていいでしょう」
というやいなや、姉はさいころ飴を掴んで、子ども部屋にいってしまう。
「もう、お姉ちゃんは嫌いだからね、さいころ飴で歯がみんな虫歯になればいい」
「正太、そんなことはいわないの、明治製菓では、お菓子の会社ですけれどペニシリンというお薬の開発をしていて。お父さんの会社ではそのペニシリンを販売するということになっているのです。お菓子の会社とお薬の会社でも、こうしていっしょに仕事することがあるの、わかった?」
正太は、そんなことよりも、目の前にある赤と白のさいころ模様の箱の中身が気になった。
「食べるのは明日にしなさい。さっき歯ブラシしたばかりでしょ」
正太は、姉と同じように小さいさいころ飴をもらって、子ども部屋に帰った。
ベッドに入り、布団をかぶると、正太はそっとさいころ飴のふたを明けてみる。
中には、大きめの飴が二つセロファン紙に包まれて入っていた。
正太はセロファン紙を剥いて飴を取り出した。そして、そっとなめてみた。
森永のミルクキャラメルのような、甘くてそれでいて、香ばしい香りがした。
生まれて初めての味と香りだった。
正太は、布団の中で、西を向くと大きな声で笑った。
2009年9月17日 12:52