2009年10月

さようなら、がま口先生

先生がいない
 カラーン、カラーンという用務員さんが鳴らすのんびりとした鐘を合図に、正太達は、ごとごとと音を立てながら席について、先生が教室に入ってくるのを待っていた。
 月曜日の朝、いつものように授業は始まるはずだった。
 小学三年生の正太にとって、その朝の記憶がなぜか曖昧で、自分をどうしても納得させることができない、一つの事件がおきた。
 がま口先生は、その朝の授業にこなかったのだ。
 そしてその後もこなかった。ずっと学校にくることはなかった。
 先週の土曜日に、みんなで先生にさよならをいって別れたのが最後だった。
 日曜日は、一日中冷たい雨で、外に遊びにも行けなかったので、同級生達とあうこともなかった。
 朝の気温は吐く息が真っ白に見えるほど低くなり、二学期もあと少しで終わって冬休みに入る。2週間ほどで、クリスマスがくる、そんな朝の始まりだった。
 扉を開けて、教室に入ってきたのは、校長先生と若い男先生の二人だった。
 校長先生は、入口のさんに頭がぶつかるほど背が高いので、いくぶん腰をかがめるようにして教室に入ってくる。
 顔つきはいかめしく、がらがら声で、一年生の入学式からしばらくして、校庭で初めて声をかけられたときには、緊張したし怖かったが、「きみは正太君だったね」と、名前で呼はれたので、びっくりした。
 自分だけでなく、他の生徒も、同じように名前で呼んでいるのを見て、校長先生はやっぱりすごいなと、家に帰ってから母親にその話をした。
 「校長先生は、生徒の名前を全部覚えてしまうのですって。正太のお兄さんも小さいお姉さんも世話になっているとっても立派な先生です。見た目は怖いけれど、怖そうに見える人ほど心はやさしいものです。よくおぼえておきなさい」
 その言葉は、正太が卒業するまでずっと、心の奥底に残っていた。
 
 「きりつ、れい」
 級長の合図で全員が起立し、教壇に立った校長先生と若い男先生に、頭を下げて礼をする。
 「ちゃくせき」
 椅子を引き寄せたりするガタゴトという音ともに、全員が席につく。
 いつもとちがう朝の雰囲気に、正太をはじめクラス全員、これから何がはじまるのかという緊張感で教室はしんと静まりかえっている。
 「おはよう」
 校長先生の声も、こころなしかいつもより低くそして元気がない。
 「おはようございます」
 全員が声を揃えて、答える。
 「今日は、3年4組のみなさんにとても大切なお話しをしなければなりせん。担任の先生が、病気になられて今日からしばらくお休みすることになりました。
あと少しで、冬休みに入りますが、それまで臨時に、新しい先生がみんなのクラスを担当します」
 がま口先生が病気になった。
 正太は、となり席の女子生徒と思わず顔を見合わせた。
 教室がざわざわと、波立つような音で満ちる。
 土曜日に、みんなにさようならをいって送ってくれたときの先生はいつもと変わりなかったし、真っ赤に口紅を塗った大きな口も、ベティさんのようなパーマ頭もいつも通りで、とても病気になるような様子はなかった。
 だれかが、ぽつりと独り言のようにいった。
 「三学期になれば、治ってまた会えるよ」
 「そうだよね」
 と回りで同調する声が上がる。
 「そう、早く治るようにみんなで、病院にお見舞いに行こう」
 担任の先生が入院している病院に、見舞いにいくという不思議な興奮が、教室内に溢れ始めた。
 「校長先生」正太は手を挙げて、「先生はどこに入院しているのですか」とクラス全員を代表する気持ちで質問した。
 「先生は、ちょっと遠いところに入院しているので、お見舞いに行くのは難しい」 
 校長先生の話しぶりは、いつもとちがって歯切れが悪い。
 ハイ、とつづいて手を挙げたの正太の隣の席の女生徒だった。
 「いつごろ、先生は退院するのですか」
 「それは、まだわかりません。今年いっぱいか、年が明けるまでかかるか、先生にもまだ、いついつまでに退院ということは言えません」
 そういってから、校長先生は若い男先生を紹介した。
 「病気が治るまで、男先生にみんなのクラスを受け持ってもらいます」
 といって、校長先生は若い男先生を紹介する。
 背はあまり高くはないが、目が大きく黒い頭髪は天然パーマのようにウエーブがかかっている。
 紹介された男先生は自己紹介をして、これから残り少ない二学期をみんなと仲良く勉強していきましょうと、さっそく出席簿を読み上げはじめた。
 生徒達はなにがなんだかわからないまま、教科書を開いたり、鉛筆箱のふたを開けたりしてそれぞれに学習の準備を始める。
 正太は、教壇に立っている男先生が二学期の残りの期間をずっと受け持つと言うことは、がま口先生の病気が重いのではないかとそればかりが気になった。
 でも、先週の土曜日のがま口先生は元気だったし、体育の時間にはドッチボールもしたしそれが日曜日にいきなり病気になるものなのかと納得ができなかった。
 クラス全体が落ち着かないまま、昼休みを迎えた。
 授業と授業の間の休み時間は、いつもなら短い時間でもおしゃべりが絶えないのに、今日は無口で、教室を走り回る者もいなかった。
 昼休みは男先生を囲んで弁当を食べるまでは重苦しい空気が続いていたが、食べ終わって教室から外へ出ると男子は男子、女子は女子で集まって、がま口先生のことをああでもないこうでもないと勝手に想像して話し始めた。
 そこによそのクラスの生徒も加わり、また話しは複雑になっていく。
 病気は重いらしい、盲腸になった、前から病気がちで入院したらしい、日曜日に自転車に乗っていて怪我をしたなど勝手な想像を話してることばかりで、正太は土曜日のことを考えると先生がそんなに重い病気にかかったとは思えないこと力説した。
 正太の意見については男子も女子もそう感じていた。
 もやもやした月曜日の授業が終了して帰宅すると、母親が玄関からあわただしくででかけるところだった。
 「お母さんはこれから父母会があるので小学校へ行ってきます。おやつは茶の間のテーブルにおいてありますからね」
 それだけ告げると、走るように石段を下りて学校に向かってしまった。

カケオチ
 正太は今日学校であった大事件をいの一番に母親に話そうと思っていたので、すっかり拍子抜けしてしまった。
 おやつを食べてから、宿題を済ませると正太は近所の遊び友だちが集まる大願寺への庭に行った。
 大願寺に近づくと三角ベースで野球をしている仲間の声が聞こえてきた。
 正太は急ぎ足で山門をくぐる。
 大願寺の庭は即済寺と比べるとずいぶんと狭いが、三角ベース野球をするには十分だった。
 正太に気づいた勝二が、手をあげて自分のチームに入るように声をかける。
 勝二は大願寺前の坂道の途中にある桶屋の息子で、父親似で運動神経がいい。
 おじいさんが桶を造っており、父親もいっしょに働いていたがいまは進駐軍の基地に勤めている。戦争中は中国戦線で戦っていたと勝二から聞いたことがある。
 野球といっても柔らかいゴムボールを手で打つという簡単ルールで、小学校低学年から上級生までがわいわいと騒ぎながら夕食までの時間を過ごす。
 「正ちゃん、がま口は病気になったっていってるけど、あれは嘘だぞ」
 勝二は同級生だがクラスがちがう。
 「なんでそう思うの」
 「そう思うのかって、俺は聞いたんだ」
 「だれから何をきいたの」
 「誰からってそれは口が裂けてもいえないけど」
 勝二は映画俳優の台詞のような大人っぽいしゃべり方をする。
 「カッチャン、校長先生が嘘ついているというの」
 「それよ、正ちゃん」
 勝二は腕を組んで右手をアゴにあてる。まるで、銭形平次のがらっ八気取りだ。
 「校長先生は正ちゃんたちのクラスを思えばこその嘘をいったんだ」
 「だからなんだっていうの」 
 そこへ勝二の打順が回ってきた。
 「話の続きは、ちょっと一働きしてからにしょう」。といって、勝二は打席にはいるが敢えなく三振して正太達が守る番になった。
 大人の話をどこからか聞きつけてはおもしろおかしく話すのが、勝二は得意だった。
 こうなると正太はもう野球どころではない。
 校長先生が、正太達のクラスのために嘘をついたことだけでも大問題だ。
 なぜ嘘をついたのか、がま口先生の病気が相当重いのか、もう二度とあうことができないほどなのか、正太は脳みそをフル回転してもそれ以上の理由を思いつかなかった。
 チェンジするやいなや、正太は勝二のつぎの一言をせかそうと勝二に歩み寄る。
 「正ちゃんの打つ番だよ」
 守るより打つほうが好きだが、正太はどうでもよかった。
 目をつむって、思い切り腕をふって三振しようとしたら、間の悪いことにヒットになって塁に出る羽目になった。
 なにしろ人数が少ないので、正太が本塁に戻ったら、今度は勝二の打順になっているという具合で、なかなか話をきけない。
 勝二の口から、がま口先生お休みのとんでもないとてつもない話を聞けたのは野球が終わってからだった。
 大願寺の本堂の階段に腰掛けて勝二が話したことは、正太にとっては衝撃的なことだった。
 「がま口は、オールバックとカケオチしたんだって」
 「オールバックってあの絵の先生の」
 正太の小学校には絵の先生が3人いた。オールバックはその内の一人でいちばん年上だった。背はあまり高くなく黒縁の眼鏡をかけ、広い額の上の方か後ろにむかって髪の毛をポマードではやりのオールバックで固めている。
 絵の授業の時に上着を脱ぐと、ズボンはサスペンダーで吊していた。
 正太は絵を描くことが好きで得意だったが、どことなく気取っているオールバックはあまり好きな先生ではなかった。
 「そうだよ、カケオチだぜ、正ちゃんカケオチってわかるかい」 
 「わかるよ、カケオチしたのか」
 カケオチの意味を正太は分からなかった。
 「そうだよ、カケオチしたんだ。だから学校にこれないし、もう学校のやめたみたいだぜ」
 「でもなんで校長先生は嘘をついたんだろう」
 「正ちゃんはわかっちゃいないな、カケオチしたなんて校長先生がいえるわけないだろう。カケオチだよ正ちゃん、すごいことだよ」
 勝二は自分で言って自分で興奮していた。正太もなんだか分からないが興奮して息が苦しくなるのを感じた。
 カケオチってなんだろう、大人の男と女の世界にはまだまだ遠いところにいる正太にとってカケオチという言葉が持つ響きは、見ては行けない、覗くことが許されない部屋の扉を開いた先にある闇だった。
 「そうだよな、カケオチじゃ校長先生も俺たちにちゃんとしたこと言えるわけないよな」
 「だろう」
 二人は納得したようにうなづきあう。
 大願寺の庭に、冬の陽が斜めに差し西の空をきれいな夕焼けが染めていた。
 「オールバックのこと俺は嫌いだったよ。でもがま口先生はなんでカケオチしたんだろう」
 正太のしゃべり方も勝二の口調ににてくる。
 「正ちゃん、それは大人の世界の話だから俺にもさっぱりわからねえ」
 勝二は、両腕を組んで右手でアゴの下をなぜながらうなずいた。

 夕食の時に正太は、勝二から仕入れてきたばかりのカケオチのことを姉や兄に話そうと思ったが、そんな話をしようものなら何を言われるか分からないので黙っていた。
 カケオチという言葉の意味さえ分かればいいのだと、国語の辞書をひいてみようと何度も思ったが、子どもが見てはならないことをのぞき見するような気がしてじっと我慢した。
 食事が終わって、母親から父母会で担任の先生が病気になったので、代理の男先生が受け持つことになったということをあらためて聞かされた。母が聞いてきたところによるとがま口先生が教壇にもどることは難しいということだった。
 「先生の病気はそんなに重いの」
 正太は、がま口先生は病気ではないカケオチしたのだと思いつつ母親にきいた。
 「校長先生は、ともかくクラスのみんなが一生懸命勉強するようにとおっしゃっていました。それが先生の病気を早く治す特効薬ですって」
 とってつけたような母親の説明に正太は、もちろん納得できない。
 正太がもっと話しをしようと口をとんがらせると母親は、口を封じるように後かたづけするために台所に立ってしまった。
 
男子はバカ
 朝がきた。正太は勝二から仕入れた話をはやくクラスでみんなに伝えたくて、むずむずしていた。
 両親にも姉兄にも話せないことだが、クラス仲間ならきっとカケオチはまちがいなく大きな驚きとなるに決まっている。温めていた、とっておきの話をはじめて披露したときのみんなの反応を正太は期待していた。
 正太が教室に着いたときもう昨日の話でもちきりだった。
 そしてその話の中にカケオチという言葉飛び交っていたので、正太は先を越されたかと意気消沈した。それでもいくつかできている仲間の輪に首を突っ込んで、勝二から聞いたことを話す。
 正太の話に、やっぱりそうか、俺も聞いた、ボクもだと男子はカケオチにすっかりとりつかれてしまっている。
 そこへ、女子のリーダー格である機織り屋の秋子ら数人が、突然切り込んできた。
 「男はバカばっかり、カケオチしたなんて誰がいったの」
 秋子の勢いとその後ろについている女子のただならぬ気配に、正太達カケオチ派はとっさに切り返せない。
 「でも、俺たち男はみんなそう聞いているぞ。オールバックと先生がいっしょに手と手を取り合ってカケオチしたって」
 男子が口を揃えて言い返す。だが、正太は一拍も二拍も遅れて口をパクパクするのが精一杯だった。
 そうか、手と手を取り合っていくことをカケオチというのか、正太はその時にカケオチの意味をそう受け止めた。
 子ども同士なら男子と女子が手をつないで歩きなさいと言われるのに、なぜ、大人になると手と手を取り合って歩くとカケオチになるのか、不思議といえば不思議だった。
 「男はみんなバカだから、すぐにカケオチなって決めつけるけれどそうじゃないって私の母さんはいっていた。君たちはバカだから、くわしいことをいっても分からないだろうけれど、先生はカケオチなんかしていない」
 秋子の口調は真剣でそして必死だった。まるでがま口先生の名誉を守るかのように。
 きっぱりとした秋子の物言いに、男子は沈黙した。
 これ以上何かを言うと、秋子からもっときびしい言葉が返ってくるような怖さを感じていた。
 なんで秋子はあんなに必死になるのだろう。女子のリーダー格ではあるけれど、話し方はどちらかといえばおっとりしていてやさしい。口争いをしているところなど見たことがない。
 ただ、正義心は強く男子が掃除当番などさぼると、きびしくそれを諫める強さがあった。正太もなんどか、掃除をさぼっては彼女にしかられ、口答えしようものなら正太の母親に告げ口されるなど、その数十倍の仕返しを受けた。
 しかし、秋子は正しいことをしているのであり、正太は間違っていることを十分承知しているので、告げ口されてもなにされてもそれ以上言い返すことはできなかった。
 「バカ、バカっていうけれどそれじゃなんで先生は学校にこないのか答えてよ」
 精一杯虚勢を張って正太が女子グループに言い返す。
 「それは、子どもの私たちが知らなくていいことだからなの」
 いくぶん声の調子を低くして秋子が答える。
 「それじゃ答えになっていないよ、なあみんな」
 正太は振り返って同意を求める。男子は口々にそうだそうだといってうなずく。
 「そうよ、答えになっていないかもしれないけれど、正太君達がいうようにカケオチではないということだけは、はっきりしている。でもそれ以上は知らなくていいってお母さんがいっていた」
 秋子の目を見て、正太はあの秋子のお母さんがいったのなら間違いないだろうと思った。秋子のお母さんは、秋子に似てやさしくて物静かだが、曲がったことが嫌いな人と正太の母親がいっているのを聞いたことがある。
 秋子の家に遊びに行ったときにも、誰でも分け隔てすることなく、機織りでどんなに忙しいときでもおやつを用意して、子どもたちといろいろと話すことを楽しみにしているそんな人柄だった。
 正太がそれ以上言葉を返さなかったので、男子と女子の間に、一瞬風が吹いたようにカケオチという言葉が消え去ってしまった。
 当番の起立、礼というかけ声でみんな一斉に席についた。
 こうして新しい先生になって2日目が何事もなかったように始まった。

 一週間が経ち、10日が過ぎるとクラスの中でもがま口先生のことを口にする者はいなくなった。時折、がま口先生がバスに乗っているのを見たとか、オールバックが引っ越したらしいなどという噂が流れたりしたが、病気でもない、カケオチでもない、それじゃなにが理由なのかということももうだ誰も話そうとしなくなった。
 正太は秋子から話を聞いた日に、自分の母親が何か知っているか聞いてみようと思ったが、子どもには分からなくていいことだ、と同じような答えが返って来そうだったので、あきらめることにした。二学期は、新しい男先生のもとで終了した。
 
三学期
 年が明けて三学期の始業式が終わり、教室にもどった正太達をさらに大きな事件が待ち受けていた。
 短い冬休みとはいえ、久しぶりにあった友だち同士で話がはずみ、教室はいつもの騒がしさを取り戻していた。
 そこへ、男先生と校長先生が入ってきた。まるで、がま口先生がこれなくなったと告げられたあの日と同じように。
 生徒達はお互いに顔を見合わせて、今度は何が始まるのかと身構えたり、緊張して背筋をのばしたり、瞬きをわすれて目をみはったり、正太は正太で机のフタを無意識に握りしめている。
 校長先生の話から始まった。
 「おはようございます」と校長先生
 男先生がおはようとつづける。
 生徒達もおはようと返すが、緊張して声が出ない。
 「ああ、みんなそんなに硬くならずにききなさい。今日はとても大切な話があります」
 校長先生のしゃべり方もどこかぎこちなく、緊張しているのがわかる。
 横に立っている男先生も同じように背筋をぴんと伸ばして、固まっている。
 「3年4組のみんなには、先生がとつぜん代わってずいぶん淋しい思いをさせたことを私からもあやまりたいと思います」
 校長先生があやまるなんて初めてのことなので、正太はびっくりした。
 学校でいちばん偉い人で、いつも生徒一人ひとりを名前で呼び、何でも知っている校長先生が、なぜ女先生が学校に来られなくなったことであやまるのか、確かに淋しい思いはしたけれど代わりにきた男先生は、白いトレーパン姿が格好よくて体育の時間なんか他のクラスからうらやましがられるほどで、男子生徒はそれを自慢に感じていた。
 その男先生も、いつもとちがって教壇でしゃっちょこばるように固まっている。
 生徒達は、校長先生がつぎにどんな話をするのか、じっと待ちかまえていた。