2009年12月

お便所こわい

まんじゅうこわい
 正太は落語が好きだった。
 夕食が終わるころになると、決まってラジオから落語が聞こえてくる。
 小学校低学年の正太にとって、落語の筋や落ちを理解することはむずかしかった。

 だが、ラジオから落後家の話し声といっしょに混ざって聞こえてくる笑い声を聞いていると、なぜかつられて笑ってしまう。
 姉や兄が、正太、どこがおかしいのかわかるの?と意地悪く声をかけてくると、おかしいからおかしいのだと言い返す。
 自分でもどうしておかしいのかわからないけれど、落語というのはおかしい話だから、ラジオの向こうの笑い声にあわせて笑っていればいいのだと、信じていた。
 意味が分からないなりに、何度も聞いているとなんとなく話の中身が理解できてくるものだ。
 大きな戦争が終わって6年たったものの、朝鮮半島というところで再び戦争が起きた。日本はようやく立ち直りはじめ、正太の住むまちも、日に日に活気づいている。
 太平洋戦争中のことはまったく知らないけれど、両親や兄姉にから聞かされる話しでは、いまよりもずっと暗く、笑いも少なかったに違いない。

 ラジオから流れる落語に、大きな声で笑うと言うことが、正太はとても平和でうれしいことに思えた。
 正太の好きな落語といえば、「じゅげむ」、「いざかや」、「まんじゅうこわい」、「ながやのはなみ」などだった。なかでも、大のお気に入りが、「まんじゅうこわい」だった。
 怖いものがなにもないという男に、何か怖いものがないのかと聞くと、まんじゅうが怖いという。それじゃまんじゅうで怖がらせてやろうと、たくさん買ってくる。たくさんのまんじゅうを見て男は、ああ怖い怖いといいながら、食べてしまえば怖くないとばかりに、ぺろっと平らげてしまう。まんじゅうで怖がらせようと思った男たちは、おまえは本当に怖いものがあるのか、というと。しぶーいお茶がいっぱい怖いという落ちで終わる。
 正太は、まんじゅう怖いというのは、結局まんじゅうが好きだということなんだと知って、母親に「母さんなにか僕に怖いものないかって聞いてみて」と試してみる。
 「正太の怖いものはありすぎて、そうね、特に怖いのは、お便所じゃないかしら」
 「違うよ、だからさ、落語のまんじゅうこわいみたいに、本当は好きなものをいいたいから、怖いものないかってきいてほしいの」
 「だって、お母さんがそう聞いたら、まんじゅうかあんパンが怖いっていいたいのでしょう。そうはいきません」
 「だから、試しに聞いてみてよ。まんじゅうとかあんパンなんて、いわないかもしれないでしょう」
 「でも、それ以外のものだったら、渋いお茶がいっぱい怖いっていえなくなってしまうわよ。それでもいいの」
 こんな風に母親にあしらわれると、仕事から帰宅した父親で試してみる、それでもだめなら兄や姉にも。
 特に意地悪な小さい方の姉は、母親と同じように、正太が怖いのはまんじゅうではなくてお便所でしょう、とからかう。
 
 悔しいけれど、正太はお便所が怖かった。
 正太の家に限らず、当時の家の便所はだいたい住まいの北側にあり、日当たりが悪く暗くじめじめと湿っていた。
 北側に廊下があり、その突き当たりが便所となっている。
 廊下の外には、チューリップ型の手洗い用バケツが吊してあり、用がすむと廊下のガラス戸を引き開けて、外に手をだしバケツの下の突起をちょんちょんと上に押して水を手先にうけて、となりに下がっている手ぬぐいで拭く。
 寒い季節にはバケツの水も手ぬぐいも凍りついていることがある。
 便所は小便用と大便用に分かれている。
 小便用は入り口をあけるとすぐにところにあり、たったままできる男専用だ。その奥のもう一つ扉をあけると大便用器が床にはめ込んであり、その下の空間に直接落とすようになっている。
 正太は、この大便器の下の空間が怖かった。
 得体の知れないにおいと暗闇、どんなに大丈夫といわれても果てしない黒い闇のように思え、便器の上にまたがると闇に吸い込まれそうになり、一度そう思ったことで、以来どこのお便所も怖い存在となってしまった。
 明るい朝、昼はなんとか用をたすことができたが、夜はまったくだめだった。
 我慢できないときには、母親に頼んでついてきてもらったうえに、小さな電灯をつけたまま便所の扉を全部開け放ち、用がすむまでまで付き添ってもらう。
 母親が手を離せないときには、兄でも姉でも誰でもよかった。だから、正太が怖いのはお便所でしょうと小さい姉にいわれても、返す言葉がなかったのだ。
 困るのは小学校のお便所だった。
 小学校もふつうの家庭のように、お便所は校舎の北側にあった。もちろん暗いし湿っている。
 小便器がずらっと並び、その反対側に扉のついた大便用の個室が並んでいる。
 個室の中は、正太の家と同じようになっている。
 自分の家の便所ですら得体がしれないのに、学校のはそれがずらっと並んでいるのだから、昼だろうと夜だろうと怖い。正太は学校のお便所を使わないように使わないようにしていた。
 どうしてもいかなければならないときには、できるかぎり友だちと一緒にいくようにして、一人だけで行くことは避けていた。
 誰もいないお便所で、もしあの奈落の底に落ちてしまったらと考えるだけでも身の毛がよだち、大便の方はお漏らししても絶対に入るまいと決めていた。
 
くみ取りのおじいさん
 その便所だが、正太が恐れている暗い空間には、当然ながら排泄物がたまる。
 たまったらどうなるのかというと、いつも同じおじいさんがくみ取りにきてくれる。
 正太は、そのおじいさんと仲がよかった。
 おじいさんが来る日は、決まっているわけではないが、一ヶ月に一回、だいたい午後の3時で、正太が小学校から帰っておやつがすんだころだった。
 ときには、正太が学校から帰ってくる前に汲み取りが始まっていることもあった。
 そんなときは、玄関下の石段前の道に、大きな木の桶を積んだ大八車がおいてある。
 おじいさんはお便所のある裏庭にまわり、汲み取り口の木の蓋をはずしてそこから長い柄のついた杓で、あの暗い闇の中から排泄物を汲み出して木の桶に移している。
 二つの桶がいっぱいになると、蓋をして天秤棒の両端に桶のひもをひっかけて、よいしょとばかりに担ぎ上げる。
 隣家との狭い路地をひょいひょいと調子をとりながら、玄関前まで運び、そこでいったん桶を地面におろし、今度はひもをつかんで手で持ち上げて石段を一歩一歩おりていく。二つの桶を大八車に乗せるまでが大変そうだ。おじいさんは、背は高いがやせており、髪の毛はほとんどなくて顔は日焼けし真っ黒で腰がまがっている。だが、たっぷりと入って重い桶を、天秤棒をきしませながら歩くときは腰も背筋もぴんと伸びる。
 桶を大八車に乗せると、おじいさんは石段に腰をおろして、キセルを取り出してたばこを一服つける。
 おじいさんにとって、力のいる仕事は大変だろうなと、正太が思っていることを感じたかのように、「坊や、こんな桶担ぐのはまだまだ楽な仕事で、戦争にいってたときには、もっと重いものを担いだから、なんでもない」と、そういってにこっと笑った。
 前歯は一本もなかった。
 「おじいさんは、戦争にいったのですか」
 「ああ、3年ほどいっていたかな」
 「じゃあ、ついこの間帰ってきたのですか」
 戦争が終わってからずいぶん経つのに、まだまだ外地から帰ってくる兵隊さんのことがニュースで流れていた。
 「うん、まあそうだね、もう3年ほど前になるかな。中国大陸の方で働いていてそこで兵隊になった。帰ってくることができただけでも、幸運だと思わないと行けない」
 おじいさんは、大きくたばこを一服吸い込むと、ふーっと、ため息をつくように煙を吐いた。
 正太は、戦争の話を聞きたかったが、おじいさんはよっこらしょっと、腰をあげて、天秤棒に残っている空の桶を吊して、また、汲み取りにいく。
 4つの桶がいっぱいになると、おじいさんは正太の母親からバケツを借りて、水を満たし汲み取り口から注ぎ込む、最後にその水を柄杓で汲み取る。
 大八車には桶が四つ並んでしっかりとロープで縛ってある。
 「奥さん、それではこれで失礼します」
 勝手口に回って、おじいさんは正太の母親に声をかける。
 「お世話様でした。いつも、いつもお野菜ありがとうございます。いま、お茶でもいれますから」
 「いえ、いえ、こちらこそお世話になっています。どうぞお構いなく」
 母親とおじいさんのやりとりはいつも同じだった。
 お構いなく、といわれても母親はお茶と煎餅などを用意して出すし、おじいさんは遠慮することなくお茶を飲んでいく。

 そう言うとき正太は、大人って不思議だなと思う。
 おじいさんは、汲み取りに来るときに大八車にお野菜を必ず積んでくる。
 これも正太にとっては不思議なことだった。
 なんで、あんな人がいやがるようなものを汲んでいってくれるのに、わざわざ野菜を持ってくるのだろうか、こちらの方からお礼をしなければならないのにと。
 「坊や、坊やの家から汲み取ったコエで野菜を育てると、いい野菜が採れる」
 おじいさんは以前、そんな話をしていた。
 今日もまた、お野菜が届いた。
 不思議に思ったら、母親になんでも質問しないではいられないのが正太だ。
 「おじいさんはどうして、汲み取りしてくれるのにお野菜を持ってくるの」
 「そうねえ、野菜を育てるには、栄養が必要なの。汲み取ったものがその栄養になるので、お野菜を届けてくれるのはそのお礼ということ」
 「えっ、だってあんなに臭くて汚いものが栄養になるの、嘘みたい」
 「正太がお野菜を食べて、お便所で用をたして、それがまたお野菜を育てて、そして正太がそのお野菜を食べる。とっても不思議でしょう。人間も自然の一部だから、自然からいろいろなものをいただいて生きているわけね。ぐるぐる回っていつか自分のところに帰ってくるということ、わかった」
 野菜とお便所とのつながりは、分かるような分かりたくないような気持ちだった。
 「おじいさんは、ボクの家のコエは野菜がよく育つって言っていた。どこのコエだって同じでしょう」
 「さぁ、それはお母さんにもわからない。それよりも正太、汲み取りに来てくれるおじさんは正太のお父さんと歳があまり違わなくて50歳前だから、おじいさんと呼んだら失礼よ」
 「だって、髪の毛はないし、腰は曲がっているし、歯だってないんだよ。戦争に行って帰ってきたんだって」
 「そう、正太はおじさんのことよく知っているのね。お母さんが聞いたのは、戦争で大変に苦労して、とても辛い目にあってそれで歳よりもよほど老けてしまったそうよ」
 「ふーん。お父さんよりもずっと年上だと思っていた」
 正太のお母さんはおじさんのことを話してくれた。
 おじさんは、若い頃に満州にわたって、結婚して奥さんと子どもと3人でくらしていた。戦争が始まって、現地で兵隊さんになって、戦争が終わったあとは、シベリアで捕虜になって3年ほど前にようやく日本にかえることができた。捕虜になっている間に家族の行方がわからなくなり、おじさんの親戚もみんな東京の空襲で亡くなったので、奥さんの実家で家族の帰りをまつことになった。おじさんは、百姓仕事は初めてだったが、奥さんの両親はもう高齢なので、引き受けている。
 「おじさんは、うちのように内地で終戦を迎えた者には、想像てきないほど辛い思いをしたのでしょう。奥さんやお子さんの消息を求めて、満州の時の知り合いを訪ね歩いたり、ラジオの尋ね人にもお願いしたそうよ。うちではお父さんが兵隊に取られなくて、ともかく家族がみんな無事だったけれど、おじさんは家族も行方がわからないし、それは、それは重いものを背負っていらっしゃるのよ」
 正太のお母さんは、さいごは自分に言い聞かせるように話した。
 それって、天秤棒で担ぐ桶よりも重いものなのか、ランドセルしか背負った事のない正太には、おじさんの背負っているものの重さが想像もつかなかった。
 
尋ね人の時間
 お昼の頃になると、どこの家庭のラジオからも聞こえてくる「訪ね人の時間」。
 静かな音楽が流れたあとアナウンサーが、「尋ね人の時間です」と切り出し、町や村の地名に続いて、そこで暮らしていた何々さんと名前を読み上げる。そして、誰それが消息を求めているので、心当たりのある方は知らせて欲しいと告げる。
 外地で生き別れになった家族、内地に帰ってきたら空襲で行方が分からない家族の消息を求める人たちの願いを、アナウンサーは一言一言をゆっくりと噛みしめるように伝えていく。
 学校からの帰り道、尋ね人の放送は家々の開けはなってある窓から聞こえてくる。
 家族を捜し求めている人は、ラジオのスピーカーに耳を当てるようにして聞いているのかもしれない。
 汲み取りのおじいさんもお昼になると、ラジオの前にすわっているのだろうか。
 母親からおじいさんの話を聞いて、それまであまり関心を持たなかった、尋ね人の時間が正太は気になった。
 満州何々地方でなどという地名が聞こえると、おじさんの家族のことではないだろうかと聞き耳を立てる。太平洋戦争で亡くなった日本人は、何百万人もいる。おじさんの家族は無事なのだろうか、中国大陸のどこかで、おじさんが探してくれるのをまっているのではないのだろうか。
 「お母さん、汲み取りのおじいさんの家族はまだ見つからないの?」
 尋ね人の時間が始まると母親に聞いてみる。
 「おじさんは、満州で終戦を迎えてソ連軍の捕虜になってシベリアの収容所にいたので、家族の消息を確かめることができないまま内地に帰ってきたんですって。収容所から自由になったときに、満州まで行って家族がどうなったか確かめることもできなかったので、奥さんの実家で待っている以外に方法はないそうよ」
 「ふーん、おじいさん、かわいそうだね」
 「そうよ、お父さんと別れ別れになった奥さんや子どもさんも、きっと淋しい思いをしていることでしょう。正太だったらどうする。お便所が怖いなんて、いっていられないでしょう」
 おじさんの手ですっかり汲み取られて、空っぽになったからといって、便所のそこに広がる黒い空間が正太にはやっぱり怖かった。
 汲み取りのおじいさんは、正太が小学校の上級生になってからも、大根や白菜を運んできては、便所の汲み取りをしてくれた。
 しかし、おじいさんの家族が帰ってきたという話をきくことはなかった。
 やがて、尋ね人の時間もラジオから聞こえなくなり、そしていつしか汲み取りのおじいさんも別の人に変わってしまった。
 正太の心からも、おじいさんやおじいさんの家族のことがうすれていき、そして消えていった。