2010年3月

ぶりの照り焼き、ようかんの端っこ

お父さんの大好物
 正太の父親は、ぶりの照り焼きが大好物だった。
 醤油と砂糖の甘辛いたれにつけ込んだぶりを七輪の炭火で焼くと、たれが炭に落ちて台所に香ばしい匂いが立ちこめる。
 隣の子ども部屋まで匂いがとどく。
buri.jpg
 「あっ、ぶりの照り焼きだ。今日はお父さん早く帰ってくる日だ」
 正太には、ぶりの照り焼きが父親の早い帰宅と一つになっている。
 夕食の準備が整う頃、父親が帰ってくる。
 「ほら、僕のいった通りでしょう」と誰にいうでもなく、正太は勝ち誇ったように、父親を迎えにいく。
 茶の間の丸い食卓を囲んで、夕食が始まる。
 父親のおかずには、もちろんぶりの照り焼きが。
 そして子どもたちとお母さんのおかずは、鯖の味噌煮が。
 ぶりの照り焼きは、なぜか父親だけの特別なおかずと、正太の家では決まっていた。
 正太は自分も食べたいとせがんだことがあるが、母親から「ぶりの照り焼きは子どもたちにはぜいたくです」とぴしゃりといわれてから、ぶりの照り焼きが父親専用のおかずであることを納得していた。
 だからその理由を聞いてみたことはない。
 ぶりの照り焼きを食べ終わると、父親は決まって皿に残った照り焼きの付け汁に熱めの湯をそそぎ、それを飲み干す。満足そうな父親の顔をみるのが正太は好きだった。
 ある時せがんで、汁を飲ませて貰ったことがある。
 その味は甘しょっぱく、しかも生臭さもあり、父親が満足そうな顔をするのとのほど遠く、やっぱりぶりの照り焼きは、子どもの食べ物ではないのだと正太は感じた。

ようかんの端っこ
 もうひとつ父親が子どもを差し置いてでも食べるものがあった。
 それはようかんの端っこだった。
 ようかんは、滅多に食べられないお菓子だった。
 お菓子の中でも特に贅沢で、大人でもあんまり口にしないというのだから、子どもにまで回ってくることはほとんどなかった。
 ようかんを包む淡い緑色のしま模様の紙をむくと、裏は銀紙になっている。中身は濃い小豆色で黒光りしている。
 いかにもすごく甘いぞといっているような、誘惑に満ちた色だ。
 正太はようかんと聞いただけで、ゴクリと生唾を飲み込んでしまうぐらい大好物だった。
 ようかんの紙をむくと一方の端は、きれいに切れているのに、もう一方の端は白く砂糖が固まっている。
 どうしてそうなっているのか知らないけれど、ただでも甘そうに見えるようかんが、もっと甘く思えてくるほどだ。
 だが、このようかんの端っこを食べるのはいつも、父親と決まっていた。
 一年に何回も食べることのないようかんだが、そのうちの一回くらいは白い砂糖の固まり付きのようかんを味わうことができた。
 正太の父親はあんまりお酒が好きでなく、甘いものに目がなかった。
 だからようかんの端っこが大好きなのは分けるけれど、自分だって甘いものは大好きだ。だから正太は、ぶりの照り焼きは仕方ないにしても、せめてようかんの端っこはもっと食べさせて貰ってもいいとつねづね思っていた。
 こんな時、正太が決まって思うことは一つだった。それは、早く大人になることそして、父親になることだった

カステラの底紙
 ようかんの端っこも確かに好きだったけれど、同じように滅多に口に入らないことを考えると、カステラの底に敷いてある紙も、兄弟喧嘩のもとになった。
kasutera.jpg
 ようかんといえば中村屋、カステラといえば文明堂と決まっていたが、中村屋のようかんは父親が手に入れてくる。あるとき何となく耳にしたことによると、正太の父親は中村屋の株をもっているからとかなんとかいっていた。なんのことかさっぱりわからなかったが。
なんだか野菜のカブをもっていると、ようかんが手にはいるらしいと正太は、勝手に思いこんでいた。
 カステラの方はというと、もらいものがほとんどだった。
 文明堂のカステラは青い包み紙で包まれていて、しっかりひもがかけれている。
 もどかしげに包みをあけると、立派な木箱が姿を現す。これだけで、豪華という満足感がわいてくる。
 木箱ふたを開けるとていねいに白い紙がかけてある。その紙を開くとチョコレート色をしたカステラが顔を出す。同時にほのかな贅沢な香りも広がる。
 正太にかぎらず兄弟の誰もが、期待で鼻も目も口も膨らんでくる瞬間だった。
 箱からカステラを取り出すには、左右に開いた紙の端ををゆっくり持ち上げてやる。
 ちゃぶ台の上に取り出し、母親が包丁を入れるのを物もいわず、じっと見つめている。
 「お母さんボクの分は厚く切って」
 「お母さん欲張りな正太には薄く切って」
 すかさず小さい方の姉が、口を挟む。
 「じゃあ、二人とも薄く切りましょうかね」と母親。
 「お姉ちゃんが変なこというから、損しちゃうじゃないか」正太は半べそをかきながら姉をにらむ。
 「正太が欲張りだからいけないの」
 もう、カステラとなると兄弟姉妹の間など関係なくなる。
 「正太、みんなにお茶を入れてあげてちょうだい」
 正太は急いで、台所にいきやかんを石油コンロにかける。コンロの火をつけるときには、芯に油が回るのを待たなければならない。
 「今日はボクが、お茶を入れるからカステラの紙は、ボクのものだよ」
 台所からみんなに聞こえるように大きな声で茶の間にむかって叫ぶ。
 「大丈夫、心配しないで」といちばん信用できない小さい方の姉が答える。
 「お姉ちゃん、ぜったいだよ」と念を押す。
 正太は気が気ではない。 
 正太が叫ぶカステラの紙とは、カステラの底紙のこと。
 カステラの表面はうすい焦げ色の表皮で被われており、そのしたにふわふわとした厚目のスポンジがある。
 そして底には、紙がしかれており、その紙が問題だった。 
 カステラを切り分けると底に紙が残る。その紙に茶色いザラメがへばりついているのだ。まるで、ようかんの端っこの白いかたまりのように。
 紙の広さはカステラの表面積と同じだから、紙全体にびっしりとついている茶色いザラメは、まるでカステラのおまけのように正太には思えた。
 いや正太だけではない、姉兄誰もがそう思っていた。 
 だから、誰がこのおまけを手に入れることができるかかがカステラを食べるときに決まって起きる争いの元だった。
 今度はボク、今度は私と、この前は誰々が食べた、いやボクは食べていないと、なんとも浅ましいことになる。
 父親がそのときにいれば、一声で決まるのだが、いないときにはもう大騒ぎになる。
 正太は、いつも自分が一番小さいのだからと権利を主張するが、小さい方の姉は、正太は私よりも歳が若いからまだこれからも何度でも食べるチャンスがあると、訳の分からない理屈を並べて譲らない。
 「食べ物で喧嘩するのは一番みっともないことです。そんなに喧嘩するなら、今日は誰にもあげません」
 だいたい最後は、母親の雷がおちておさまるのだが、正太はおまけの底紙を手に入れて、スプーンで削いでは食べるという至福の時間をなんとしてでも逃したくなかった。
 お茶を入れるのだから、ご褒美に底紙削りの権利を主張するのは当然だと、正太はみんなに訴えているのだった。
 食べた分だけ、底紙が残る。
 はさみでその分を切り離して、兄弟で分けあう。
 いつものことだが、その日も正太は独り占めできなかった。

真夜寝ーず
 それは小学校4年生のある日のこと、父親が重たい荷物を持って帰宅した。
 正太はいつものように、玄関に迎えにいく。
 「正太には重いから気をつけなさい」
 父親は、そう注意して荷物を手渡す。
 手渡された物がずっしりと重く、正太は思わず落としそうになった。
 「ガラス瓶が入っているからおとすとわれるから、気をつけて持ちなさい」
 うんこらしょっと茶の間の丸いちゃぶ台まで運ぶ。
 母親がなんでしょうとかね、という面もちで袋を開けて中から包みを取り出す。
 「あら、明治屋でまた、変なもの買ってきたのかしら」
 正太は、母親のいうメイジヤと変なものとが結びつかない。
 「変なものではない。珍しいものだ」
 父親がいつになく、語気を強く母親に言葉に言い返す。
 「でもこの間は、トマトケチャップでその前は、なんていいましたっけ」
 「ああ、粉チーズだろう」
 「どれも、なにに使っていいのかわからなくて困りました。新しいもの好きもほどほどにしてください」
 確かに、缶詰に入っているトマトケチャップという得体の知れない真っ赤なものは、食べられるものにはみえなかったし、実際に口にしてみたが酸っぱくて奇妙な味がしたので、トマトといえば夏に冷やして食べることしか知らない家族には評判が悪かった。
 「オムレツなどに使うといい」とそのとき父親が主張したが、「玉子が手に入らないのにどうやって使うのですか」と、母親に反撃されておしまいになった。
 粉チーズにいたっては、まだ袋があけられることもなくどこかにしまわれたままである。
 「今度はいったいなんですか」そういいつつ包みを解いていく。
 口広のふたがついた、ずんぐりとしたガラス瓶が登場した。瓶にはなにやら英文字が書かれた紙がはりつけられている。
 「マヨネーズだ」と父親。
 「なんですかそれ?」ときょとんとして母親。
 「野菜などにつけて食べるとおいしいものだ」
 「野菜ですか、生で食べるのですか」
 「そうだ、サラダといって健康にもいいし、味気ない野菜がとってもおいしくなる」
 「野菜はなにもつけなくてもおいしく食べられるから、わざわざこんな重いもの買ってこなくてもいいのに」
 母親の言葉に、ちょっとむっとして「だから女は駄目だ。これからの食卓にはマヨネーズが必需品になる」と自信たっぷり。
 「トマトケチャップの時にもそういってました」と母親。
 「おまえたちは、田舎に暮らしているから、わからないだろうけれど都内では、レストランなどに行くとケチャップもマヨネーズも当たり前だ」
 「そうですか。田舎ではこんなハイカラな物は口に合いませんからね」とにくまれ口で言い返す。
 「正太、マヨネーズで野菜を食べてみないか」
 父親は旗色が悪くなると、決まって正太に話をふってくる。
 正太は正直なところ、食べてもみたいし食べたくもなかった。マヨネーズという食べ物は、瓶のなかで白くどろっとしているのがわかる。白い食べ物といえば、豆腐だがそれよりも黄色い、なんとも得体の知れない色をしている。
 「おねえちゃん食べてみてよ」
 「正太がいわれたんだから、正太が食べればいいでしょう」と珍しいものに目がない小さい方の姉は正太に権利を譲る。
 「あっ、小さい姉ちゃんは、嫌いなんだ」
 「バカじゃない、食べたことないのに嫌いもなにもないでしょう。正太がいわれたんだから正太が食べればいいの」小さい方の姉はますますムキになる。
 「正太、マヨネーズは玉子でできているのよ」と大きい方の姉が口を挟む。
 「へえ、そうなの」と母親は瓶を手にして不思議そうに眺める。
 「玉子って、あのにわとりの?」と正太も。
 「そう間違いないと思う。学校の家庭科の授業で勉強したから」
 「じゃあ、大きいお姉ちゃんはどんな味がするか知ってるの?」
 「うーん、私も食べたことないからわからない」
 というわけで、結局父親以外の誰にとっても、マヨネーズは未知の白い食べて物であることがわかった。
 「正太、はい、キュウリ」と小さい姉が、正太の大好きなキュウリを一本そのまま台所から持ってきた。
 正太がキュウリをおやつで食べるときには、味噌をつけるのが普通でそれが大好きだった。とくに、ちょっと太めで中に大きめの種が入っているキュウリだったら文句がなかった。
 キュウリを目の前に出された正太は、もう決心するしかなかった。
 大きい方の姉がマヨネーズのふたを開けようとしたが、堅く閉まっていてなかなか開かない。
 すると、父親が台所から大きめの栓抜きを持ってきて、金属のふたの周りをコンコンと叩いてから回すと、ふたがゆっくりと動いて開いた。
 「さあ、開いたから正太、キュウリにマヨネーズをつけてごらん」
 正太は、キュウリの先っぽを瓶の中に入れて、マヨネーズをつける。
 おそるおそるキュウリを口に運ぶ。
 初めてのマヨネーズは、まず油っぽい匂いがしてその後、正太の口の中で、味わったことのないすっぱさが広がった。
 「...」
 「正太どんな味?」。小さい方の姉が正太の顔をのぞき込むようにして確かめる。
 「なんだかわかんない。おいしいのかどうかもわかんない。玉子の味もしない。でもなんとなくキュウリの味がおもしろくなる」そう答えるのが精一杯だった。
 お味噌か塩をつけてでしか食べたことがないキュウリが、まるで別の食べ物のように正太には思えたのだ。
 やがて、「おいしい」という言葉となり、正太は残ったキュウリにたっぷりマヨネーズをつけて、思い切りかじりはじめた。
 青臭いキュウリが、とろっとしたマヨネーズで、新しい食べ物へと変わっていた。
 正太の食べっぷりを見て、姉も兄もそして母親も、キュウリを持ってきてマヨネーズをつけてはかじりだした。
 その日の夕食には、トマト、キュウリにマヨネーズをつける「サラダ」という献立が、初めて加わった。
 それをみた父親は我が意を得たりとばかり、
 「正太、マヨネーズはなぜマヨネーズというか知りたいと思わないか?」と謎かけをしてくる。
 「なんで、なんで教えて。ボク知りたい」
 「じゃあ、よく聞きなさい」父親の口調は学校の先生のような話し方になる。これはいつものことだった。
 正太の兄、姉、母親も聞き耳を立てる。
 「マヨネーズは、大勢のコックさんがたくさんの玉子をつかってゆっくりと時間をかけてつくるそれは大変な手間がかかる」
 「そうなんだ」と真剣に聞き耳を立てる正太。
 「一晩中夜も寝ないでつくるから、真夜中に寝ない、真夜寝ーずという名前になった。わかったかい」
 正太は、父親の講釈に大きくうなづいたが、兄や姉、母親たちはしらっとしてせっせと野菜にマヨネーズをつけては、おいしそうに食べていた。