2010年5月

針千本



男先生


 3年生の三学期にがま口先生が突然やめてしまい、バラバラになったクラス仲間が、4年生の新学年になって、新しい男先生の担当するクラスに戻ってきた。

 もちろん秋子とも再び同じクラスになった。

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 男先生は、鼻が高く二枚目で、小学校のなかではいちばん若かった。正太たち男子にとっては、女先生とはちがって、授業が終わってからも校庭で野球やドッジボールにもつきあってくれる、お兄さんのような存在だった。

 先生の実家は農家で、正太たちのまちから東に広がる農村地帯にあり、天気の良い日は自転車で、雨の日にはバスと電車を乗りついで学校まで通っていた。

 不思議なことに、女先生の時にはクラスでは女子が威張っていたが、男先生に代わってからは、男子が盛り返してきていた。

 4年生になって、秋子のお迎えこそなくなったものの通学路も通学時間も同じだから玄関下の石段のところで、秋子と顔を合わせることに変わりはない。


 顔があうと「正太さん、学校行きましょう」と、秋子が声をかけてくる。

 「正太と秋子は、末は夫婦か」などとはやし立てる同級生もこのところは少なくなったが、逆に正太自身が、4年生という上級生になったこともあり、いまさら、女子といっしょに小学校へいくことに、3年生の時以上にためらいを感じ始めていた。

 秋子といっしょに行きたくないわけではないけれど、俺も男だし、上級生になったからなどと、母親からなぜ秋子ちゃんといっしょに小学校へいかないのと聞かれて、理由にならない返事を繰り返していた。

 そんなとき決まって、小さい方の姉が「正太も思春期だね」などとからかう。

 それでも、いつも、いつも逃げ回るわけでもなく、何回かに一回は、秋子のグループと連れだって学校にむかった。

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 「いっしょに行くのはいやじゃないけれど、僕の名前を大きな声でよぶのはやめてくれないかな」という一言が正太にはなかなかいえなかった。


掃除当番

 正太の通う小学校は、南向きの山を切り開き、いちばん上が明治の終わり頃に建てられた古い洋風づくりの校舎,その下に大きな旧校舎があって、さらにその下に新校舎が建つ三段重ねになっている。

 がま口先生が学校をやめて、クラスがばらばらになったとき、正太は3学期だけ洋風の校舎の教室で学んだ。

 床にはあちらこちらに穴があき、窓の枠がゆがんで隙間があるなど、オンボロ校舎と呼ぶにふさわしい古さだった。

 4年生になって、教室は真ん中の旧校舎に移ったが、こちらは、床に穴もあいていないし、窓もゆがんでこそいないが、床板がささくれておりこれが掃除当番にとっては、ちょっと困りものだった。

 教室の掃除は、授業が終わってから毎日するのが決まりだった。

 ひとクラス50人の生徒が、10人ずつ班になって毎日交代で教室の掃除をする。だから、五日ごとに掃除当番が巡ってくることになる。

 授業が終わり、「先生さようなら、みなさんさようなら」とお別れの挨拶がすむと、掃除当番だけが残る。

 10人は班長の指示に従って、それぞれに役割を分担する。班の仲間同士の仲が悪いと、班長が振り分けた役割に不満、不平の文句がでたりして、よくもめる。

 役割というのは、床を掃く者、雑巾で拭く者と大きく分かれるが、掃くのに比べると雑巾担当にはなりたくいない。雑巾を水に浸けて絞るのも面倒だが、なんといってもささくれた床を雑巾掛けすると、雑巾を突き破ってささくれがとげとなって手に刺さるのだ。

 大きなささくれならば雑巾を突き破ることもないが、細いほど、小さなとげとなって布を突き抜ける。

 注意していても、痛い目にあう。

 正太も何度かとげを刺して、医務室で抜いてもらったことがある。

 掃除はまず全員で机と椅子の移動から始める。全部で25ある机の上に椅子二脚を逆さに乗せ、両端をもっていったん教室の後ろに集める。

 あいたところからほうきでごみを掃き、そこへ水がいっぱい入ったバケツを持ち込み、5人が横一列に並んで腰を持ち上げてヨーイドンで雑巾がけをする。

 掃除は毎日しているので、そんなには汚れていないが、教室はみんなの勉強の場所だから感謝を込めてしっかり掃除しましょう、という先生のかけ声で、隅から隅まできれいに磨く。

 教室半分の掃除が終わると、再び全員で机と椅子を教壇側に運び、今度は、教室の後ろ半分を掃除する。

 あとは、校庭側と廊下側の窓の桟、黒板も濡れた雑巾で白墨の跡が残らないようにきれいに拭く。教室前の廊下の雑巾がけも、それぞれの教室の分担になる。

 黒板消しは、窓の外に手をだして、黒板のよこにいつもおいてある、篠竹の棒でパンパンとはたく。

 冬になると、ストーブの灰の始末も掃除当番の仕事として増える。


秋子の秘密

 正太と秋子は同じ班で、一学期からいっしょに掃除当番となった。

 だからというわけではなかったけれど、掃除が終わると、帰る道が同じと言うこともあって、当番の日はいっしょに帰ることが多くなった。

 ほとんどの同級生は帰宅しており、二人して歩いていても冷やかしたりする同級生はいない。


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 いつものように、班長が男先生に掃除が終了したことを報告して、先生の点検が終わると「はい、よくできました。それではみなさんご苦労さま」いう先生の一声で、掃除当番を解放される。

 その日も、正太は秋子と連れだって校舎をでた。

 学校が休みの日以外は毎日のように教室であっているので、特別に話題があるわけもなく、秋子はマンガのことや、友達のことをとりとめもなく話し、それに正太が相づちをうつ。正太が、大好きな映画の話をしたり、兄や姉の話をしたりしているうちに、10分足らずで正太の家についてしまう。

 ある日正太は、前から気なっていたことを思い切って聞いてみた。

 「秋子ちゃんの名前は、本当はシュウコちゃんって言うんでしょう。でも、どうしてもシュウコではいやだっていうので、アキコちゃんて呼ぶようになったってお母さんがいっていたけれどどうしてなの。僕は、シュウコちゃんでもいいなと思うけれど」

 「いやなの。どうしても」いつもは、どちらかと言えば、おとなしいしゃべり方をする秋子は、前をむいたままきっぱりといった。

 勢いにおされて、正太は思わず立ち止まった。

 聞いてはいけないことを、聞いてしまった、そんな気まずさを正太は感じた。

 「ごめん」正太は素直に謝った。

 「正太君、誰にも言わないって約束できる?」

 「もちろんできるけど」自信なさげに答える。

 「絶対にできる。うそついたら針千本よ」

 「うん」針千本は、正太たちにとって絶対的な約束だ。

 それでも、秋子はどうしようか迷っている。

 二三歩歩いてから意を決したように小さな声でしゃべりだした。

 「二年生の時に、私のうちにお姉ちゃんの友達が遊びに来たの。私のお姉ちゃんは、私よりも6つ年上で、ちょっと意地悪なんだ」

 秋子の家には、何回が遊びに行ったが、秋子の姉にあうことはなかった。中学校に通っているので、正太が遊びに行った時間にはまだ学校から帰っていないのだろう。

 意地悪なお姉ちゃんと聞いて、正太は自分の小さい方の姉を思い浮かべた。いじわるな姉で苦労しているのは、自分だけではないのだ。

 「その日、お母さんがお姉ちゃんたちに、私といっしょに遊んであげなさいってい言ってくれたので、お姉ちゃんの部屋にいったんだけれど、中学生の話はちっともおもしろくなくて、私、オハジキ遊びしようとか、人形遊びしようといったの。そうしたら、お姉ちゃんたちはそんな子どものような遊びはできないって、相手にしてくれないかった。だから、お母さんがいっしょに遊ぶようにって言ってたでしょうって、怒ったの。そうしたらお姉ちゃんの友達が、シュウコちゃんってどんな字を書くのって聞いてきたから、秋子って書くって答えたのね。シュウコチャンのシュウって、いろいろあるけれどほら、一週間の週とか、集まるの集とかいうのだけれど私にはぜんぜんわからなかった。だって、まだ小学校で教わってないことばかりだもの。そして、最後にそういえばシュウって終わるってこともシュウっていうねって。そうしたらお姉ちゃんまでが、そうだよね、シュウコは終わりの子かもしれないって、ものすご意地悪ないいかたしたの」

 そこまで息もつかずに秋子はしゃべった。

 少し間をおいてから、「それだけじゃなくてお姉ちゃんの友達が、いっしょになって、終わりのシュウコってからかったから、私すごく悔しくて悔して、その日のうちにお母さんにどうしてもシュウコではいやだからアキコって呼ぶようにしてって、泣いて頼んだの。お父さんもお母さんも理由を聞いたけれど、お姉ちゃんのせいだと話せばまた意地悪されるから、どうしても嫌だっていい続けて、お父さんもお母さんもちょっとさみしそうだったけれど、家ではシュウコって呼ぶけれど外ではアキコにしようっていうことにしてくれた」

 正太は、秋子の名前の秘密を聞いて、自分の名前のことを思い出した。4年生になって、授業で自分の名前のことを調べることがあって、本当の名前は正大と書いて、マサヒロと読むのが正しいのだけれど、出生届を出したときに、ひょんなことから正太になってしまったことを知った。

「正太君は自分の名前のこと調べたでしょう、私は自分の名前が、秋分の日に生まれたから秋子と書いてシュウコと読むことは知っていたし、アキコよりシュウコのほうが本当は好きだった。でも、終わりの子なんて、私いやだもの」

 僕の本当の名前は正大で、役所に届けるとき書類についていた小さなしみで大の字が太になってしまった、それに比べれば、アキコだろうとシュウコだろうと、大したことないのにと思ったが、そんなことは秋子にいえなかった。

 そればかりか自分の名前で意地悪されて、読み方を変えるように言い張ってその通りにしてしまった秋子に、正太は、今まで見たことのない強さを感じた。

 正太はまもなく、秋子のこの意志の強さをじっくりと味わうことになる。