電気洗濯機見学会
がま口先生
3年生になってクラス替えがあり、正太のクラスは、まだ先生になって3年目の若い女先生が担任なった。
背が高く、顔は外人のように目鼻立ちがはっきりしていて、特に口が大きかった。
多くの女先生が、もんぺ姿だったのに、灰色の上着と同じ色のスカート姿で、シャツはいつも真っ白だった。
唇は、真っ赤な口紅で彩られており、いつからかは、はっきりしないが、子どもたちの間ではがま口というあだ名がついていた。
二年生までの担任は、おばさん先生で、とてもやさしかったけれど、がま口先生はどこか、都会の匂いがして、正太はとても新鮮に感じていた。
大きいのは口だけではなく、背も高かった。
すっと背筋を伸ばして、教壇に立つと、一段と背が高く見え、全身が大きく感じられる。しかも、髪の毛には、パーマネントがかけられていて、当時人気があった漫画のベティさんにそっくりだった。
しゃべり方や仕種は、映画「青い山脈」に出てくるてきぱきとした女先生に似ていた。
正太は、前の先生が明治生まれだとするなら、がま口先生は昭和生まれだと、兄に言って笑われた。
だって、もんぺ先生はやっぱり古いし、がま口先生は、すごく新しいから、明治と昭和くらいの違いがあると思う、言いはる正太に、
「正太は、明治が何年前か知っているの?お前が言うもんぺ先生が明治生まれなら、もう50歳をはるかにこえるおばあちゃん先生になっている。二人の先生は年齢もそんなにかわらないのに、見た目だけで、明治生まれだとか、昭和生まれなんていったらだめだよ」と姉までが加わって、やりこめられた。
アメリカのカタログ
ことの始まりは、がま口先生が教室に持ってきたアメリカの印刷物だった。
がま口先生は、授業の時間によく、自分がもっている本などを教科書代わりに使っていた。そんなところも、正太達にとっては楽しみだった。
「みなさん、今日は先生が持っているちょっと珍しい外国のカタログというものを使って、アメリカという国の生活を勉強してみましょう」
興奮したのは、正太だけではない。
映画の世界でしか見たことがないアメリカの生活について、勉強するなんて、なんてすごいことだろう。がま口先生が取り出した、うす茶色をした本にはとんでもないことが隠されているようで、50人いるクラスの全員の瞳は、期待と興奮できらきらと輝いている。
しかも、表紙から中まですべて英語だった。
「これはカタログといいます。カタログというのは、いろいろな商品を写真で見せて、お客さんにあれこれ比較してもらって、購入してもらうための印刷物です」
先生は、カタログを手にして教室の机の間を歩き始める。
生徒達は、口をあんぐりと開けたまま、背の高いがま口先生が右手で高く掲げるカタログを、首を反らせて必死に見つめた。
表紙を開くと、そこには青い色で印刷された、様々な製品と商品を手にしたり、使っている様子のアメリカ人の女性や男性、子どもたちの写真が並んでいる。
先生は、一つ一つ指差しながら、製品の名前を英語で読み上げて、それから日本語で説明していく。
「がま口先生は英語が話せるのか、すげぇな」
「あれが、電気冷蔵庫なんだ、電気でどうやって冷やすんだろう」
「あっ、テレビジョン、私見たことあるよ、ほら駅前の電気屋さんに丸いのがあったでしょう」
などと、知っているものがあると、勝手に声をあげる。
正太は、もっと近くで見たくて、椅子から腰が浮き上がっている。
自分の近くに来たときに。椅子から立ち上がり、開いているページをまじまじとみつめる。
「先生、ここに印刷されているものは、買うことができるのですか」
「とてもいい質問です。カタログには、その製品はどんなことに役立つかということといっしょに値段も書いてあります。みんなここを見てみてください」
がま口先生が指を差したところには、数字の頭に見たこともないマークがしるされ、その後に数字が並んでいる。
「このマークは、ドルといいます。日本では10円、100円というように円を使いますが、アメリカでは円の代わりにドルを使います」
「10円は10ドルなんですか」と正太の質問の嵐が始まろうとした。
「いいえ、1ドルはそうね、いま360円です」
なにっ?正太の頭は一気に破裂状態になり、次の質問が出てこない。
1ドルはいま360円?それはどういうことだ。
先生は、正太の混乱を無視して、「ですから、この冷蔵庫の値段が、えーと800ドルとなっているので、日本のお金にすると、大体24万円くらいになります」
正太の日常的に使うお金の上限が、一日10円だから、万円という単位は、月世界の遙か遠くの別世界になってしまう。正太にとって理解の外になる。
「先生、私たちにも買うことはできますか」。女子が手を挙げて質問した。
「そうですね。買えないことはないけれど、先生がいただいている月給でも、払うのに何年かかるか分からないほど高いものです」
「冷蔵庫って、夏だけあればいいのだから、一年中電気で冷やすなんて無駄だと思います」と、正太。
「そうね、電気冷蔵庫は、日本ではまだいらないかもしれません。でも、アメリカのような国では、食べるものをいちどにたくさん買うことがあるので、そういう家では、寒いときにも食べるものを安全に保存しておくために必要なのだそうです」
「アメリカ人はバカだね、だって、そんなにいちどにたくさん買わなければいいじゃないか」
正太の言葉に、そうだそうだと賛成の声が上がる。
「正太くんのいう通りかもしれません。まだ、日本ではその日その日に食べるものを買いに行くから、こんな大きな冷蔵庫などはいらないですね。でも、こちらの洗濯機はどうかしら」
先生は、ページをめくった。
花柄のエプロンをかけて、なぜか片方の足をぴょんと跳ね上げて、洗濯物を入れた籠を手にしているアメリカ女性の写真の前にある物に、正太は見覚えがあった。というよりは、自分の家にある電気洗濯機そのものだった。
先生は、写真を示しながら説明を続ける。
丸い金属桶の中に、朝顔の花を逆さにしたようなかたちのものがあり、金属桶は4本の足が支えている。それぞれの足は、外側に反り返っていて、まるで猫の足のような形をしていた。
金属桶のヘリから、棒が上に伸びていて、先が直角に曲がり、そこには白いロールが上下についている。直角に曲がった所にハンドルがついていた。
「これは、電気洗濯機といいます。みんなのお母さんや先生たち女性は、毎日、たらいみに水をためて洗濯物を洗濯板ででごしごしと洗って、干しています。冬の寒い日なんか、水も冷たいし、毎日のことだから女性にとって、お洗濯はとても辛い水仕事です。この電気洗濯機があると、洗濯物をこの桶の中にいれ、粉になっている洗濯用の石けんをうえからまいて、水を入れてスイッチをいれると、この中のものがごとごとと右左に動いて、なんと汚れを落としてくれるのです。そのうえ、ここにある、ローラーに洗ったばかりの洗濯物をはさんで、ハンドルを回すと、洗濯物水をしぼることができます。これだったら一年中使えて便利ですね」
がま口先生は、先に紹介した電気冷蔵庫が役に立たないと、正太達に言われたので、その言い訳のように洗濯機の良さを強調した。
「ハイ、先生」正太は手を挙げた。
「正太くん、洗濯機にも何か質問ありますか」先生は正太が何を言い出すのかちょっと警戒気味になる。
「先生、その洗濯機と同じものが、僕の家にもあります」
「...」
お父さんはサラリーマン
正太のお父さんは、サラリーマンである。
正太の住むまちでは、殆どの人が地元で働いており、町の外に勤めに出ている人は希だった。
正太の一家はもともと、都内の中野というところに住んでいたが、アメリカ軍の空襲が激しくなったので、いま住んでいる町よりもっと奥に一時疎開していた。
戦争が終わってすぐに、いまの町に引っ越し、生活は急速に変わっていった。
お父さんは、ともかく新しいもの、はやりの物が好きだった。
それは、都心に勤めているので、新しい物やはやりの物に触れたり、見たりする機会も多く、あったらいいなという気持ちを刺激されることが多かったのかもしれない。
昔からとてもカメラ好きで、ライカというドイツ製のカメラをもっていたが、日本製のカメラが発売されると誰よりも早く手に入れて、モデル撮影会などにいそいそと出かけていたものである。
子どもたちの記録も撮っていたが、ライフなどという外国の雑誌や写真雑誌を買ってきては、そこに紹介されている写真を眺めて、どうやって撮影したのかなどと研究にも熱心だった。
家の中の押入には現像道具を一式揃え、撮ってきた写真を焼いたりしては、雑誌のコンクールなどに応募していた。
そのお父さんの兄弟の息子が、横浜に住んでいた。
勤め先は、二股ソケットの発明で急成長した電機製品の製造会社だった。
正太にとっていとこにあたるが、年齢は15歳以上離れている。
横浜から正太の父母をおじさん、おばさんといっては、正太の住むまちに繁く足を運び、そのたびにお土産や、お小遣いをくれた。やさしくて気前のいい、お兄さんだった。
日本の電機製品の製造企業は、まだまだ規模が小さく、つくられる製品も外国の物真似が中心だった。
いとこの会社でつくる製品の中に、電気洗濯機があった。
正太のうちの電気洗濯機は、台所奥の風呂場の脱衣所に置いてあった。
ある日、そのいとこが正太の家を訪ねてきた時に、これが新製品の電気洗濯機だと言って、正太の父親に一生懸命売り込んでいた。父と母の間で、いるとか、いらないとかのやりとりがあったようだが、10日ほど経って正太が学校から帰ってきたら、その電気洗濯機がどんと置かれていた。
丸い金属桶の中で、朝顔の花を逆さにしたような物が、ごとんごとんと左右に動くたびに洗濯物もいっしょに動く。
最初のうちは物珍しもあって、スイッチを入れたり、絞り器に洗濯物をはさんで、ハンドルをぐるぐる回したりはしたが、動きが単純なので、正太が飽きるのにそんなに時間はかからなかった。
同時に、新しい物を敬遠する母親も、あんなものでは汚れが落ちないとか、電気代がかかるのでもったいないとか言っては、使ったり使わなかったりしており、最近では動いていないときのほうが多かった。
お金を払った父親は、あんまり働かない洗濯機に文句を言うわけでもなく、つぎにどんな新しい物が登場するかなと、そっちの方に気持ちが向いているようだった。
おしゃべり正太
その日、正太が遊びから帰ると、入れ違いに玄関からがま口先生が、それではよろしくお願いしますと、正太の母親に声をかけながら出てきた。
「正太くん、お帰りなさい」
「先生、こんにちは」。学帽をとってぺこんと頭を下げる。
正太は、学校で何かあったかなと、ぼんやりしている脳みそをフル回転させてみた。
それを察したかのように、「正太くんのお母さんにちょっとお願い事があってお邪魔しました。正太くんからもよろしくお願いしておいてくださいね」
がま口のような大きな口をさらに大きく左右に開いて、先生はほほえみながら石段を下りていった。
その夜のことである。
父親が勤めから帰り、食事が始まった。
正太達は、もうとっくに済ませて、漫画を読んだりして寝るまでの時間を過ごしている。
食事をしている父母の話に、何気なく聞き耳を立てると、どうも、正太のことが話題になっているらしい。
がま口先生が、訪ねてきたことを思い出した正太は「おかあさん、今日先生が来たでしょう、何の用事だったの」と、父母の話に割り込むように声をかける。
「そのことをいま、お父さんに相談しているの」
「ぼく、なんにも悪いことしてないよ」
「わかっています。正太のことだけれど、正太のことだけではないの」
母親の話が、なんのことやらさっぱり飲み込めない。
「それじゃ、正太には分からないだろう」
父親に促されたように、母親が正太の方に向き直った。
「正太、この前学校で、ウチに電気洗濯機があるということを教室でいったでしょう」
「うん、言ったよ。だって、本当のことだもの」
「まあ、そのことは仕方ないけれど、今日先生がいらっしゃったのは、本当に電気洗濯機があるかどうかということと、あるならクラスの子どもたちに、実際にどんな物なのか見せてもらえないかと、頼みに来られたの」
「もう、正太は本当におしゃべりなんだから」
そばで、本を読んでいた小さい方の姉が、横から正太の頭を指先でつついた。
「ボク、おしゃべりじゃないよ。だって、先生が見せてくれたアメリカの、うーんと、なんて言ったっけ、いろんな物がいっぱい印刷されているの。そこにウチにあるのと同じ電気洗濯機があったから、ウチにもあるって言っただけで、なんでいけないの」
「いけなくはないけれど、いちいちウチあるとかないとかいうことないでしょう」
姉は、いつものように言い返してくる。
「だって、先生が見せてくれたのはアメリカのうーんとその」
「正太が言いたいのはカタログのことでしょう」
「うん、そのカタグロのと同じ物があったら、誰だって、あるっていうと思うよ。お姉ちゃんは、そういうとき言わない?」
「言わない。なんか見せびらかしているみたいで、いやじゃない」
「そんなのおかしいよ。先生が問題出して、答えが分かったら手を挙げて答えるのと同じだ」
「ほら、また、正太のへりくつが始まった。わかりました、正太は正しい答えを言っただけなのね。はい、はい、それは立派なことです。でも、カタグロじゃなくて、カタログだから、まちがえないように」
「お姉ちゃんなんかだいだい、大嫌いだ」
「嫌いで結構、好かれちゃ迷惑」
言い捨てて居間から立ち去る、姉の後ろ姿に、正太は思い切りあっかんべをした。
「いい加減にしなさい」
おとうさんの雷が落ちる。
「正太、お父さんもお母さんも、正太が間違っているとは思っていない。でも、あんまりウチのことを話すのもどうかな。正太が、電気洗濯機があるといったので、後で、クラスの友だちが先生の所に、正太君のウチに本当に洗濯機があるのかどうかと、ずいぶん聞きにきたそうだ。もちろん正太は嘘を言っているわけではないので、間違ってはいないけれど、まだ、電気洗濯機のある家は、珍しいから、外ではあまりしゃべらないほうがいいと、お父さんも思う。ちょっと気をつけようね」
見学会は、大騒ぎ
正太のクラスは生徒全員で、50名いる。
教室には、二人がけの机が25あるのだが、前後も左右もびっしり並べないと、入りきらないほど混み合っていた。
男女がそれぞれ25人ずついて、二人がけの机には、男女がペアで座っている。
正太といっしょに座っている女子の名前は秋子で、家業は町でも指折りの織物工場を経営していた。正太とは一年生の時から同じクラスだった。秋子と書いて「シュウコ」と呼ぶ。
秋子の母親と正太の母親は、小学校一年のときからクラスが同じこともあって、なにかと気が合うのか日常的な付き合いも深かった。
そんなことから、登下校時に正太の家の前を通る秋子は、玄関先から正太の母親に挨拶をしたり、ときには母親に言われるままに、家にあがっておやつなどをもらったりしていた。
登校時に正太を迎えに来たりするので、正太はそれをいやがって、いつも早く学校に行くようになった。
学校から帰って、玄関に女物のズックが脱いであり、秋子が来ているなとわかると、正太はそのままランドセルを玄関に放り投げて、外に遊びに行くことにしている。
少し前のこと、正太の同級生が「正太のウチに、秋子が遊びに行くだろう。お前、秋子と仲がいいのか」といわれ、「そんなの知らない。仲なんかよくないよ」とタンカを切った手前、態度で示すことにしている。
また、小さい方の姉が、秋子が迎えに来ると「正太、ガールフレンドがおむかえにきましたよ」などというのものだから、なおさら秋子を敬遠するようになった。
「正太は、シュウちゃんとどうして仲良くしないの、それとも友だちに何か言われたの」
小さい方の姉の鋭い一言に、いつもなら百倍も言い返す正太だったが、旗色が悪いと、「さ、宿題しようっと。お姉ちゃんもちゃんと勉強しないと頭よくならないよ」などと憎まれ口をきくのが精一杯だった。
先生に、正太のウチに電気洗濯機が本当にあるかどうか、としつこくきいたのは秋子じゃないだろうか。正太は、秋子のことを疑った。
根拠はないけれど、秋子は常日頃から、正太の学校でのことを母親に告げ口することが多かった。
正太が、教室の掃除当番をさぼって、女子にやらせ、先生が見回りに来ると、突然、女子から雑巾を奪って掃除しているふりをしたときも、正太が帰宅すると、秋子が玄関先で「おばさん、正太君はねぇ」と延々と、告げ口をしているのである。
何につけても、秋子の口から学校のことが筒抜けになる。
当然、正太の母親からは雷が落ちる。
正太は秋子のことが嫌いなわけではなかった、ただ苦手だった。
なんで、自分のことを目の敵にするのか、正太の素朴な脳みそでは、女心までは読み切れない。
その秋子の母親も、今日の電気洗濯機見学会に来るという。
学校の授業が終わり、全員で正太のウチに向かう。
総勢50人の移動は、学校から正太の家までの間、途中の家々から、何事かと、住人も思わず外に出てくる。
正太家は、平屋で、築20年は経っている。
玄関先の石段下に、まずは全員が揃い、10人一組のグループに分けされて、いよいよ見学会が始まった。
正太は、三番目のグループに入った。
見学コースは、玄関から入り座敷の廊下から庭に出る。
狭い家に子どもとはいえ10人もの人数がいちどに歩きまわると、家中子どもだらけになってしまう。
正太達の順番が来た。
白い割烹着をつけた、正太の母親が先生とともに洗濯機の脇に立って説明している。
電気洗濯機は、いつもの脱衣所ではなく、風呂場に置かれていた。
風呂場は、すべてタイル貼りで洗い場が大きく、電気洗濯機を置くにも十分な余裕があったが、なんといっても電気製品であり、水がかかるので感電の危険がある。
だが、今日は特別だった。
「はい、みなさん、今日は正太君のお母さんから、電気洗濯機の説明をしてもらいます。実際に、タオルや手ぬぐいを洗って見せてくれるそうですからよく見学しましょう」
「はーい」という10人の声が風呂場に響く。
正太の母親が、洗濯槽にタオルや手ぬぐいをいれ、そこに小さなスプーンで粉石けんを形ばかりいれ、さらに蛇口をひねって水を注ぐ。
「粉石けんは少しにします。沢山入れると泡が立ちすぎてしまって、洗っている様子がよく見えなくなりますから」と先生が説明する。
「では、スイッチをいれます」
母親がスイッチを入れると、ゴゴッゴというにぶい音とともに、真ん中の朝顔が逆さにしたような物が、ゴトンゴトンと左右に動き始める。
オー、という声が上がる。
逆さ朝顔の回りを、タオルや手ぬぐいが左右上下にグシャ、グシャと音を立てて踊りだす。
洗濯機を囲んだ、正太達は身を乗り出して洗濯槽をのぞき込もうとする。
「みんな、順番に見なさい」
がま口先生は、一度見た生徒とまだ見ていない生徒の入れ替えに忙しい。
「おばさん、どれくらいの時間洗濯するのですか?」。秋子が手を挙げて質問する。
「大体、一回で20分位かしら。洗濯する量や種類によってもちがいます」
「おばさん、やっぱり電気洗濯機があるとお洗濯は楽になりますか?」
「そうね、手でするよりも楽というより、洗濯している間に部屋のお掃除をしたり他のことができるから、時間の節約になって助かりますね」
「正太君のおかあさん、この洗濯機はアメリカのカタ、カタなんて言ったっけ」
「カタグロだろう」
「違うよ、カタログだろう」
「そのカタログで買ったのですか」
「これは、日本で造られた物です。外国製ではありません」
「先生、日本でももう洗濯機を造っているのですか?」
質問はどんどん広がって、収拾がつかなくなってくる。
「まだ、次のグループも待っているから、みんなの質問や疑問は、明日教室で先生が答えることにしましょう」
正太の母親が、洗濯物を外に取り出し、中の水をいったん抜いた。
洗濯機についているホースから、粉石けんで白く濁った水が、風呂場のタイルの上に流れる。
水を抜いたところで、正太の母親が、新たに水を加え、再びスイッチを入れる。
「こうやって、水を取り替えて、これからすすぎ洗いをします」
「寒いときには、水に手を浸けなくていいので、助かりますね」
母親と先生の会話をききながら、子どもたちは、口々に電気洗濯機があると、母親の仕事が楽になるなどと話し合っている。
「すすぎが終わったら、このしぼり器で、洗濯物をしぼります。手でしぼるのと比べると、とっても楽です」
実際に、洗濯物をとりだして、正太の母親がしぼり器のローラーのはさみ、ハンドルを回す。すると、洗濯物に含まれていた水が、音を立てて洗濯槽に落ち、ローラーの先から、のしいかのように平らになったタオルが出てきた。
まるで、約束されたように、子どもたちからおーっと言う声が上がった。
正太の母親が、固くしぼったタオルをほぐすように開き、それを子どもたちに触らせる。
「すごい、もう乾いているみたい」
「これならすぐに乾くね」
「正太君のおばさん、電気洗濯機って便利ですか」
秋子が質問する。
「当たり前じゃないか、便利に決まっているよ」
「秋子ちゃん、物によっては電気洗濯機洗えないこともあるので、その時には、いつも通りたらいで洗っています。例えば、しぼり器でしぼるときも、あんまり強くしぼれるので、タオルなんかはいいけれど、生地が弱いときは、生地を傷めないように手で絞るようにしています。電気洗濯機は、使い方によっては便利だと、おばさんは思います」
「他に質問はありませんか?クラスに戻ってから、感想文を書いてもらいますから、いま聞きたいことがあったら、正太君のお母さんにきいておきましょう」
手で洗濯したときと比べて汚れはよく落ちるか、しぼり器でしぼったときと手でしぼったときには、どれくらい乾きが早いか、洗濯機はどのくらいしたのか、一週間に何回くらい電気洗濯機をつかうのか、など子どもたちから次々に質問がでた。
5つのグループが、一通り見学会が終わったところで、参加した母親たちが用意した、おやつが振る舞われ、また、母親達も洗濯機を実際に使って体験した。
「これからは、電気洗濯機のような便利な品物がどんどん世の中に出るようになるのでしょうね」
「そういえば、掃除も電気でできるみたいなことが書いてありました」
「ああ、電気掃除機でしょう」
「電気仕掛けで、ほうきのように掃くのかしら」
「そうじゃなくって、部屋のごみを吸い込むらしいわよ」
「吸い込むって、じゃあ、ごみはどこに行ってしまうの」
さながら電気製品井戸端会議になった。
子どもたちは、お菓子を食べたり、ジュースを飲んだり、思わぬ幸運を楽しむ。
「なっ、正太のうちに本当に電気洗濯機があったろう」
「ああ、でもさ、お前だって始めは、おかしいって言っていたぞ」
「でも、先生の所に言いに行ったのはお前だろう」
正太は、クラス仲間のおしゃべりを何気なく耳にしていた。
先生に告げ口したのは、秋子ではなかったのか。
正太は、女の子同士でぺちゃくちゃおしゃべりしている、秋子をみつけた、そして、心の中で、秋子に疑ったことを謝った。
それからの電気洗濯機
洗濯機見学会が終わってから、洗濯機は脱衣所に戻された。
そして、ふたをされた。
正太は、母親が見学会の後、電気洗濯機をつかっているところをあまり見たことがなかった。
むしろ、木の盥で洗濯板を使って洗濯している姿を見ることのほうが多いような気がした。
冷たい水仕事をしなくて済み、洗濯物をしぼるときに楽ができる便利な洗濯機を使わないで、なんで、手で洗ったりしぼったりするのか、正太はきいてみたいと思ったが、母親が楽しそうに洗濯している姿をみると、つい聞きそびれてしまった。
見学会の直後は、電気洗濯機のことでクラスは盛り上がっていたが、しばらくすると熱も冷めていった。
ただ、教室の壁には、電気洗濯機を描いた絵がいくつか貼られており、なかでも秋子の絵は、正太の母親が白い割烹着をつけて洗濯している様子がよく描けていると正太は思った。
もうひとつ、正太の家族は、正太はおしゃべりなので、家での特別のことはあまり正太に話さないようにしようと言う暗黙の了解が定着した。
もちろん、正太はそんな暗黙の了解ができていたことについて、まったく知らなかった。
2009年8月22日 09:11