2009年8月

電気洗濯機見学会

がま口先生
 3年生になってクラス替えがあり、正太のクラスは、まだ先生になって3年目の若い女先生が担任なった。
 背が高く、顔は外人のように目鼻立ちがはっきりしていて、特に口が大きかった。
 多くの女先生が、もんぺ姿だったのに、灰色の上着と同じ色のスカート姿で、シャツはいつも真っ白だった。
 唇は、真っ赤な口紅で彩られており、いつからかは、はっきりしないが、子どもたちの間ではがま口というあだ名がついていた。
 二年生までの担任は、おばさん先生で、とてもやさしかったけれど、がま口先生はどこか、都会の匂いがして、正太はとても新鮮に感じていた。
 大きいのは口だけではなく、背も高かった。
 すっと背筋を伸ばして、教壇に立つと、一段と背が高く見え、全身が大きく感じられる。しかも、髪の毛には、パーマネントがかけられていて、当時人気があった漫画のベティさんにそっくりだった。
 しゃべり方や仕種は、映画「青い山脈」に出てくるてきぱきとした女先生に似ていた。
 正太は、前の先生が明治生まれだとするなら、がま口先生は昭和生まれだと、兄に言って笑われた。
 だって、もんぺ先生はやっぱり古いし、がま口先生は、すごく新しいから、明治と昭和くらいの違いがあると思う、言いはる正太に、
「正太は、明治が何年前か知っているの?お前が言うもんぺ先生が明治生まれなら、もう50歳をはるかにこえるおばあちゃん先生になっている。二人の先生は年齢もそんなにかわらないのに、見た目だけで、明治生まれだとか、昭和生まれなんていったらだめだよ」と姉までが加わって、やりこめられた。

アメリカのカタログ
 ことの始まりは、がま口先生が教室に持ってきたアメリカの印刷物だった。
 がま口先生は、授業の時間によく、自分がもっている本などを教科書代わりに使っていた。そんなところも、正太達にとっては楽しみだった。
 「みなさん、今日は先生が持っているちょっと珍しい外国のカタログというものを使って、アメリカという国の生活を勉強してみましょう」
 興奮したのは、正太だけではない。
 映画の世界でしか見たことがないアメリカの生活について、勉強するなんて、なんてすごいことだろう。がま口先生が取り出した、うす茶色をした本にはとんでもないことが隠されているようで、50人いるクラスの全員の瞳は、期待と興奮できらきらと輝いている。
 しかも、表紙から中まですべて英語だった。
 「これはカタログといいます。カタログというのは、いろいろな商品を写真で見せて、お客さんにあれこれ比較してもらって、購入してもらうための印刷物です」
 先生は、カタログを手にして教室の机の間を歩き始める。
 生徒達は、口をあんぐりと開けたまま、背の高いがま口先生が右手で高く掲げるカタログを、首を反らせて必死に見つめた。
 表紙を開くと、そこには青い色で印刷された、様々な製品と商品を手にしたり、使っている様子のアメリカ人の女性や男性、子どもたちの写真が並んでいる。
 先生は、一つ一つ指差しながら、製品の名前を英語で読み上げて、それから日本語で説明していく。
 「がま口先生は英語が話せるのか、すげぇな」
 「あれが、電気冷蔵庫なんだ、電気でどうやって冷やすんだろう」
 「あっ、テレビジョン、私見たことあるよ、ほら駅前の電気屋さんに丸いのがあったでしょう」
 などと、知っているものがあると、勝手に声をあげる。
 正太は、もっと近くで見たくて、椅子から腰が浮き上がっている。
 自分の近くに来たときに。椅子から立ち上がり、開いているページをまじまじとみつめる。
 「先生、ここに印刷されているものは、買うことができるのですか」
 「とてもいい質問です。カタログには、その製品はどんなことに役立つかということといっしょに値段も書いてあります。みんなここを見てみてください」
 がま口先生が指を差したところには、数字の頭に見たこともないマークがしるされ、その後に数字が並んでいる。
 「このマークは、ドルといいます。日本では10円、100円というように円を使いますが、アメリカでは円の代わりにドルを使います」
 「10円は10ドルなんですか」と正太の質問の嵐が始まろうとした。
 「いいえ、1ドルはそうね、いま360円です」
 なにっ?正太の頭は一気に破裂状態になり、次の質問が出てこない。
 1ドルはいま360円?それはどういうことだ。
 先生は、正太の混乱を無視して、「ですから、この冷蔵庫の値段が、えーと800ドルとなっているので、日本のお金にすると、大体24万円くらいになります」
 正太の日常的に使うお金の上限が、一日10円だから、万円という単位は、月世界の遙か遠くの別世界になってしまう。正太にとって理解の外になる。
 「先生、私たちにも買うことはできますか」。女子が手を挙げて質問した。
 「そうですね。買えないことはないけれど、先生がいただいている月給でも、払うのに何年かかるか分からないほど高いものです」
 「冷蔵庫って、夏だけあればいいのだから、一年中電気で冷やすなんて無駄だと思います」と、正太。
 「そうね、電気冷蔵庫は、日本ではまだいらないかもしれません。でも、アメリカのような国では、食べるものをいちどにたくさん買うことがあるので、そういう家では、寒いときにも食べるものを安全に保存しておくために必要なのだそうです」
 「アメリカ人はバカだね、だって、そんなにいちどにたくさん買わなければいいじゃないか」
 正太の言葉に、そうだそうだと賛成の声が上がる。
 「正太くんのいう通りかもしれません。まだ、日本ではその日その日に食べるものを買いに行くから、こんな大きな冷蔵庫などはいらないですね。でも、こちらの洗濯機はどうかしら」
 先生は、ページをめくった。
 花柄のエプロンをかけて、なぜか片方の足をぴょんと跳ね上げて、洗濯物を入れた籠を手にしているアメリカ女性の写真の前にある物に、正太は見覚えがあった。というよりは、自分の家にある電気洗濯機そのものだった。
 先生は、写真を示しながら説明を続ける。
 丸い金属桶の中に、朝顔の花を逆さにしたようなかたちのものがあり、金属桶は4本の足が支えている。それぞれの足は、外側に反り返っていて、まるで猫の足のような形をしていた。
 金属桶のヘリから、棒が上に伸びていて、先が直角に曲がり、そこには白いロールが上下についている。直角に曲がった所にハンドルがついていた。
 「これは、電気洗濯機といいます。みんなのお母さんや先生たち女性は、毎日、たらいみに水をためて洗濯物を洗濯板ででごしごしと洗って、干しています。冬の寒い日なんか、水も冷たいし、毎日のことだから女性にとって、お洗濯はとても辛い水仕事です。この電気洗濯機があると、洗濯物をこの桶の中にいれ、粉になっている洗濯用の石けんをうえからまいて、水を入れてスイッチをいれると、この中のものがごとごとと右左に動いて、なんと汚れを落としてくれるのです。そのうえ、ここにある、ローラーに洗ったばかりの洗濯物をはさんで、ハンドルを回すと、洗濯物水をしぼることができます。これだったら一年中使えて便利ですね」
 がま口先生は、先に紹介した電気冷蔵庫が役に立たないと、正太達に言われたので、その言い訳のように洗濯機の良さを強調した。
 「ハイ、先生」正太は手を挙げた。
 「正太くん、洗濯機にも何か質問ありますか」先生は正太が何を言い出すのかちょっと警戒気味になる。
 「先生、その洗濯機と同じものが、僕の家にもあります」
 「...」
 
お父さんはサラリーマン
 正太のお父さんは、サラリーマンである。
 正太の住むまちでは、殆どの人が地元で働いており、町の外に勤めに出ている人は希だった。
 正太の一家はもともと、都内の中野というところに住んでいたが、アメリカ軍の空襲が激しくなったので、いま住んでいる町よりもっと奥に一時疎開していた。
 戦争が終わってすぐに、いまの町に引っ越し、生活は急速に変わっていった。
 お父さんは、ともかく新しいもの、はやりの物が好きだった。
 それは、都心に勤めているので、新しい物やはやりの物に触れたり、見たりする機会も多く、あったらいいなという気持ちを刺激されることが多かったのかもしれない。
 昔からとてもカメラ好きで、ライカというドイツ製のカメラをもっていたが、日本製のカメラが発売されると誰よりも早く手に入れて、モデル撮影会などにいそいそと出かけていたものである。
 子どもたちの記録も撮っていたが、ライフなどという外国の雑誌や写真雑誌を買ってきては、そこに紹介されている写真を眺めて、どうやって撮影したのかなどと研究にも熱心だった。
 家の中の押入には現像道具を一式揃え、撮ってきた写真を焼いたりしては、雑誌のコンクールなどに応募していた。
 そのお父さんの兄弟の息子が、横浜に住んでいた。
 勤め先は、二股ソケットの発明で急成長した電機製品の製造会社だった。
 正太にとっていとこにあたるが、年齢は15歳以上離れている。
 横浜から正太の父母をおじさん、おばさんといっては、正太の住むまちに繁く足を運び、そのたびにお土産や、お小遣いをくれた。やさしくて気前のいい、お兄さんだった。
 日本の電機製品の製造企業は、まだまだ規模が小さく、つくられる製品も外国の物真似が中心だった。
 いとこの会社でつくる製品の中に、電気洗濯機があった。
 正太のうちの電気洗濯機は、台所奥の風呂場の脱衣所に置いてあった。
 ある日、そのいとこが正太の家を訪ねてきた時に、これが新製品の電気洗濯機だと言って、正太の父親に一生懸命売り込んでいた。父と母の間で、いるとか、いらないとかのやりとりがあったようだが、10日ほど経って正太が学校から帰ってきたら、その電気洗濯機がどんと置かれていた。
 丸い金属桶の中で、朝顔の花を逆さにしたような物が、ごとんごとんと左右に動くたびに洗濯物もいっしょに動く。
 最初のうちは物珍しもあって、スイッチを入れたり、絞り器に洗濯物をはさんで、ハンドルをぐるぐる回したりはしたが、動きが単純なので、正太が飽きるのにそんなに時間はかからなかった。
 同時に、新しい物を敬遠する母親も、あんなものでは汚れが落ちないとか、電気代がかかるのでもったいないとか言っては、使ったり使わなかったりしており、最近では動いていないときのほうが多かった。
 お金を払った父親は、あんまり働かない洗濯機に文句を言うわけでもなく、つぎにどんな新しい物が登場するかなと、そっちの方に気持ちが向いているようだった。

おしゃべり正太
 その日、正太が遊びから帰ると、入れ違いに玄関からがま口先生が、それではよろしくお願いしますと、正太の母親に声をかけながら出てきた。
 「正太くん、お帰りなさい」
 「先生、こんにちは」。学帽をとってぺこんと頭を下げる。
 正太は、学校で何かあったかなと、ぼんやりしている脳みそをフル回転させてみた。
 それを察したかのように、「正太くんのお母さんにちょっとお願い事があってお邪魔しました。正太くんからもよろしくお願いしておいてくださいね」 
 がま口のような大きな口をさらに大きく左右に開いて、先生はほほえみながら石段を下りていった。
 その夜のことである。
 父親が勤めから帰り、食事が始まった。
 正太達は、もうとっくに済ませて、漫画を読んだりして寝るまでの時間を過ごしている。
 食事をしている父母の話に、何気なく聞き耳を立てると、どうも、正太のことが話題になっているらしい。
 がま口先生が、訪ねてきたことを思い出した正太は「おかあさん、今日先生が来たでしょう、何の用事だったの」と、父母の話に割り込むように声をかける。
 「そのことをいま、お父さんに相談しているの」
 「ぼく、なんにも悪いことしてないよ」
 「わかっています。正太のことだけれど、正太のことだけではないの」
 母親の話が、なんのことやらさっぱり飲み込めない。
 「それじゃ、正太には分からないだろう」
 父親に促されたように、母親が正太の方に向き直った。
 「正太、この前学校で、ウチに電気洗濯機があるということを教室でいったでしょう」
 「うん、言ったよ。だって、本当のことだもの」
 「まあ、そのことは仕方ないけれど、今日先生がいらっしゃったのは、本当に電気洗濯機があるかどうかということと、あるならクラスの子どもたちに、実際にどんな物なのか見せてもらえないかと、頼みに来られたの」
 「もう、正太は本当におしゃべりなんだから」
 そばで、本を読んでいた小さい方の姉が、横から正太の頭を指先でつついた。
 「ボク、おしゃべりじゃないよ。だって、先生が見せてくれたアメリカの、うーんと、なんて言ったっけ、いろんな物がいっぱい印刷されているの。そこにウチにあるのと同じ電気洗濯機があったから、ウチにもあるって言っただけで、なんでいけないの」
 「いけなくはないけれど、いちいちウチあるとかないとかいうことないでしょう」 
 姉は、いつものように言い返してくる。
 「だって、先生が見せてくれたのはアメリカのうーんとその」
 「正太が言いたいのはカタログのことでしょう」
 「うん、そのカタグロのと同じ物があったら、誰だって、あるっていうと思うよ。お姉ちゃんは、そういうとき言わない?」
 「言わない。なんか見せびらかしているみたいで、いやじゃない」
 「そんなのおかしいよ。先生が問題出して、答えが分かったら手を挙げて答えるのと同じだ」
 「ほら、また、正太のへりくつが始まった。わかりました、正太は正しい答えを言っただけなのね。はい、はい、それは立派なことです。でも、カタグロじゃなくて、カタログだから、まちがえないように」
 「お姉ちゃんなんかだいだい、大嫌いだ」
 「嫌いで結構、好かれちゃ迷惑」
 言い捨てて居間から立ち去る、姉の後ろ姿に、正太は思い切りあっかんべをした。
 「いい加減にしなさい」
 おとうさんの雷が落ちる。
 「正太、お父さんもお母さんも、正太が間違っているとは思っていない。でも、あんまりウチのことを話すのもどうかな。正太が、電気洗濯機があるといったので、後で、クラスの友だちが先生の所に、正太君のウチに本当に洗濯機があるのかどうかと、ずいぶん聞きにきたそうだ。もちろん正太は嘘を言っているわけではないので、間違ってはいないけれど、まだ、電気洗濯機のある家は、珍しいから、外ではあまりしゃべらないほうがいいと、お父さんも思う。ちょっと気をつけようね」
 
見学会は、大騒ぎ
 正太のクラスは生徒全員で、50名いる。
 教室には、二人がけの机が25あるのだが、前後も左右もびっしり並べないと、入りきらないほど混み合っていた。
 男女がそれぞれ25人ずついて、二人がけの机には、男女がペアで座っている。
 正太といっしょに座っている女子の名前は秋子で、家業は町でも指折りの織物工場を経営していた。正太とは一年生の時から同じクラスだった。秋子と書いて「シュウコ」と呼ぶ。
 秋子の母親と正太の母親は、小学校一年のときからクラスが同じこともあって、なにかと気が合うのか日常的な付き合いも深かった。
 そんなことから、登下校時に正太の家の前を通る秋子は、玄関先から正太の母親に挨拶をしたり、ときには母親に言われるままに、家にあがっておやつなどをもらったりしていた。
 登校時に正太を迎えに来たりするので、正太はそれをいやがって、いつも早く学校に行くようになった。
 学校から帰って、玄関に女物のズックが脱いであり、秋子が来ているなとわかると、正太はそのままランドセルを玄関に放り投げて、外に遊びに行くことにしている。
 少し前のこと、正太の同級生が「正太のウチに、秋子が遊びに行くだろう。お前、秋子と仲がいいのか」といわれ、「そんなの知らない。仲なんかよくないよ」とタンカを切った手前、態度で示すことにしている。
 また、小さい方の姉が、秋子が迎えに来ると「正太、ガールフレンドがおむかえにきましたよ」などというのものだから、なおさら秋子を敬遠するようになった。
 「正太は、シュウちゃんとどうして仲良くしないの、それとも友だちに何か言われたの」
 小さい方の姉の鋭い一言に、いつもなら百倍も言い返す正太だったが、旗色が悪いと、「さ、宿題しようっと。お姉ちゃんもちゃんと勉強しないと頭よくならないよ」などと憎まれ口をきくのが精一杯だった。
 先生に、正太のウチに電気洗濯機が本当にあるかどうか、としつこくきいたのは秋子じゃないだろうか。正太は、秋子のことを疑った。
 根拠はないけれど、秋子は常日頃から、正太の学校でのことを母親に告げ口することが多かった。
 正太が、教室の掃除当番をさぼって、女子にやらせ、先生が見回りに来ると、突然、女子から雑巾を奪って掃除しているふりをしたときも、正太が帰宅すると、秋子が玄関先で「おばさん、正太君はねぇ」と延々と、告げ口をしているのである。
 何につけても、秋子の口から学校のことが筒抜けになる。
 当然、正太の母親からは雷が落ちる。
 正太は秋子のことが嫌いなわけではなかった、ただ苦手だった。
  なんで、自分のことを目の敵にするのか、正太の素朴な脳みそでは、女心までは読み切れない。
 その秋子の母親も、今日の電気洗濯機見学会に来るという。
 学校の授業が終わり、全員で正太のウチに向かう。
 総勢50人の移動は、学校から正太の家までの間、途中の家々から、何事かと、住人も思わず外に出てくる。
 正太家は、平屋で、築20年は経っている。
 玄関先の石段下に、まずは全員が揃い、10人一組のグループに分けされて、いよいよ見学会が始まった。
 正太は、三番目のグループに入った。
 見学コースは、玄関から入り座敷の廊下から庭に出る。
 狭い家に子どもとはいえ10人もの人数がいちどに歩きまわると、家中子どもだらけになってしまう。
 正太達の順番が来た。
 白い割烹着をつけた、正太の母親が先生とともに洗濯機の脇に立って説明している。
 電気洗濯機は、いつもの脱衣所ではなく、風呂場に置かれていた。
 風呂場は、すべてタイル貼りで洗い場が大きく、電気洗濯機を置くにも十分な余裕があったが、なんといっても電気製品であり、水がかかるので感電の危険がある。
 だが、今日は特別だった。

 「はい、みなさん、今日は正太君のお母さんから、電気洗濯機の説明をしてもらいます。実際に、タオルや手ぬぐいを洗って見せてくれるそうですからよく見学しましょう」
 「はーい」という10人の声が風呂場に響く。
 正太の母親が、洗濯槽にタオルや手ぬぐいをいれ、そこに小さなスプーンで粉石けんを形ばかりいれ、さらに蛇口をひねって水を注ぐ。
 「粉石けんは少しにします。沢山入れると泡が立ちすぎてしまって、洗っている様子がよく見えなくなりますから」と先生が説明する。
 「では、スイッチをいれます」
 母親がスイッチを入れると、ゴゴッゴというにぶい音とともに、真ん中の朝顔が逆さにしたような物が、ゴトンゴトンと左右に動き始める。
 オー、という声が上がる。
 逆さ朝顔の回りを、タオルや手ぬぐいが左右上下にグシャ、グシャと音を立てて踊りだす。
 洗濯機を囲んだ、正太達は身を乗り出して洗濯槽をのぞき込もうとする。
 「みんな、順番に見なさい」
 がま口先生は、一度見た生徒とまだ見ていない生徒の入れ替えに忙しい。
 「おばさん、どれくらいの時間洗濯するのですか?」。秋子が手を挙げて質問する。
 「大体、一回で20分位かしら。洗濯する量や種類によってもちがいます」
 「おばさん、やっぱり電気洗濯機があるとお洗濯は楽になりますか?」
 「そうね、手でするよりも楽というより、洗濯している間に部屋のお掃除をしたり他のことができるから、時間の節約になって助かりますね」
 「正太君のおかあさん、この洗濯機はアメリカのカタ、カタなんて言ったっけ」
 「カタグロだろう」
 「違うよ、カタログだろう」
 「そのカタログで買ったのですか」
 「これは、日本で造られた物です。外国製ではありません」
 「先生、日本でももう洗濯機を造っているのですか?」
 質問はどんどん広がって、収拾がつかなくなってくる。
 「まだ、次のグループも待っているから、みんなの質問や疑問は、明日教室で先生が答えることにしましょう」
 正太の母親が、洗濯物を外に取り出し、中の水をいったん抜いた。
 洗濯機についているホースから、粉石けんで白く濁った水が、風呂場のタイルの上に流れる。
 水を抜いたところで、正太の母親が、新たに水を加え、再びスイッチを入れる。
 「こうやって、水を取り替えて、これからすすぎ洗いをします」
 「寒いときには、水に手を浸けなくていいので、助かりますね」
 母親と先生の会話をききながら、子どもたちは、口々に電気洗濯機があると、母親の仕事が楽になるなどと話し合っている。
 「すすぎが終わったら、このしぼり器で、洗濯物をしぼります。手でしぼるのと比べると、とっても楽です」
 実際に、洗濯物をとりだして、正太の母親がしぼり器のローラーのはさみ、ハンドルを回す。すると、洗濯物に含まれていた水が、音を立てて洗濯槽に落ち、ローラーの先から、のしいかのように平らになったタオルが出てきた。
 まるで、約束されたように、子どもたちからおーっと言う声が上がった。
 正太の母親が、固くしぼったタオルをほぐすように開き、それを子どもたちに触らせる。
 「すごい、もう乾いているみたい」
 「これならすぐに乾くね」
 「正太君のおばさん、電気洗濯機って便利ですか」
 秋子が質問する。
 「当たり前じゃないか、便利に決まっているよ」
 「秋子ちゃん、物によっては電気洗濯機洗えないこともあるので、その時には、いつも通りたらいで洗っています。例えば、しぼり器でしぼるときも、あんまり強くしぼれるので、タオルなんかはいいけれど、生地が弱いときは、生地を傷めないように手で絞るようにしています。電気洗濯機は、使い方によっては便利だと、おばさんは思います」
 「他に質問はありませんか?クラスに戻ってから、感想文を書いてもらいますから、いま聞きたいことがあったら、正太君のお母さんにきいておきましょう」
 手で洗濯したときと比べて汚れはよく落ちるか、しぼり器でしぼったときと手でしぼったときには、どれくらい乾きが早いか、洗濯機はどのくらいしたのか、一週間に何回くらい電気洗濯機をつかうのか、など子どもたちから次々に質問がでた。
 5つのグループが、一通り見学会が終わったところで、参加した母親たちが用意した、おやつが振る舞われ、また、母親達も洗濯機を実際に使って体験した。
 「これからは、電気洗濯機のような便利な品物がどんどん世の中に出るようになるのでしょうね」
 「そういえば、掃除も電気でできるみたいなことが書いてありました」
 「ああ、電気掃除機でしょう」
 「電気仕掛けで、ほうきのように掃くのかしら」
 「そうじゃなくって、部屋のごみを吸い込むらしいわよ」
 「吸い込むって、じゃあ、ごみはどこに行ってしまうの」
 さながら電気製品井戸端会議になった。
 子どもたちは、お菓子を食べたり、ジュースを飲んだり、思わぬ幸運を楽しむ。
 「なっ、正太のうちに本当に電気洗濯機があったろう」
 「ああ、でもさ、お前だって始めは、おかしいって言っていたぞ」
 「でも、先生の所に言いに行ったのはお前だろう」
 正太は、クラス仲間のおしゃべりを何気なく耳にしていた。
 先生に告げ口したのは、秋子ではなかったのか。
 正太は、女の子同士でぺちゃくちゃおしゃべりしている、秋子をみつけた、そして、心の中で、秋子に疑ったことを謝った。
 
それからの電気洗濯機
 洗濯機見学会が終わってから、洗濯機は脱衣所に戻された。
 そして、ふたをされた。
 正太は、母親が見学会の後、電気洗濯機をつかっているところをあまり見たことがなかった。
 むしろ、木の盥で洗濯板を使って洗濯している姿を見ることのほうが多いような気がした。
 冷たい水仕事をしなくて済み、洗濯物をしぼるときに楽ができる便利な洗濯機を使わないで、なんで、手で洗ったりしぼったりするのか、正太はきいてみたいと思ったが、母親が楽しそうに洗濯している姿をみると、つい聞きそびれてしまった。
 見学会の直後は、電気洗濯機のことでクラスは盛り上がっていたが、しばらくすると熱も冷めていった。
 ただ、教室の壁には、電気洗濯機を描いた絵がいくつか貼られており、なかでも秋子の絵は、正太の母親が白い割烹着をつけて洗濯している様子がよく描けていると正太は思った。
 もうひとつ、正太の家族は、正太はおしゃべりなので、家での特別のことはあまり正太に話さないようにしようと言う暗黙の了解が定着した。
 もちろん、正太はそんな暗黙の了解ができていたことについて、まったく知らなかった。

即済寺の門前そば

盆の入り

 お盆とはなにか、正太にはどうしてもその意味が飲み込めなかった。
 7月の中頃になると、亡くなった人を供養するために、各家では、玄関先などにきゅうりやなすに割り箸などで足をつけて馬や牛に見立てて飾り、送り火といって藁のような白く細い木を燃やした。正太のウチでは、その習わしをしなかった。
 「おかあさんウチでは、玄関にきゅうりやなすで、馬や牛をつくらないの?」
 例によって正太の質問がはじまる。
 「お盆というのは、仏教を信じる家庭ですることで、ウチは神道だからしません」
 母親の説明で、正太はさらなる混乱に陥る。
 仏教というのは、お釈迦様が関係しているのは分かるけれど、シントウというのは、さっぱり理解できない。だから当然のように次の質問の矢をつがえようとすると、母親がそれを先読みしたように、「大きくなったらもっと分かるようになるから、今日はここまで」と、それ以上の質問を受け付けなかった。
 かくなる上はと、兄弟に教えてもらおうと、物知りの大きい方の姉が帰宅するやいなや、すぐに捕まえる。
 「宗教というのはなかなか難しくて、まだ、正太には理解できないと思うから、お母さんも説明しなかったのだと思う。分かりやすく言うと、正太はキリスト教って知っているでしょう。そう、クリスマスはキリスト様の誕生日よね。キリスト教を信じている家ではお彼岸というのはありません。それと同じように、シントウも仏教とは違う宗教なので、ウチのような家庭ではお盆やお彼岸の仏事、仏事というのは仏教で定めた一年間の予定みたいなものと思えばいい、その仏事をしないわけ。わかった」
 「ウチは、キリスト教のような宗教を信じている家庭なわけ?」
 「そうね、でも、正太は早とちりするから、念のために言っておくけれど、キリスト教ではありませんからね」
 どうも、くどく念を押されるのは、正太の頭の中で勝手にキリスト教が一人歩きすることを姉は警戒しているようだ。
 正太にもそれくらいは理解できる。でも、シントウには、クリスマスのようなお祭りがないことが、ちょっぴり不満だった。
 仏教なら、花祭りなどいろいろあるのに。
 正太の頭では、大好きなこのまちのお祭りが、神社、つまりシントウの祭礼であるという理解にはとうてい行き着いていない。
 しかし、この日からの正太の混乱は、ますます大きくなり、併せて、母親と兄弟は質問攻めにあい、こちらもどうしていいのか、大混乱の極みとなっていく。
 
殺し文句

「正太、お盆だから、明日は、おじいさんのお墓参りにいきましょう」
 ここでまた、正太の頭は大混乱となる。
 「お母さん、ウチにはお盆が無いのに、お墓参りにいくの?」
 この質問は、正太が正しい。
 墓参りに行くと言った母親も、さすがにしまったと思うが、「世間がお盆だから、ウチは関係ないけれど、墓参りに行きます。正太は行くの、それとも行かないの、大好きなおそばたべたくないの」と、とっさに正太の弱点をつく。
 おそばという魔法の言葉が、正太の頭からお盆もお彼岸もシントウもキリスト教もきれいさっぱりと消し去ってしまった。
 正太は、そばが大好きだった。
 大好きになったのは、おじいさんの墓が祀られている、即済寺の門前にあるそば屋で、初めてそばを食べた時からだった。
 だからパブロフの犬のように、墓参りは即済寺へとつながり、即済寺はおそばへと落ち着き、どんなに混乱した頭もきれいに整理されてしまう。
 さて、即済寺という寺は、正太が2歳半になるまでの過ごした疎開先にあった。
 いま住むまちからは、電車の駅で三つ目、距離にして10キロもあるだろうか、小さな村だった。
 東京大空襲を逃れて、疎開したのが正太1歳半のとき。
 戦争が終わって半年足らずで、疎開先を引き払いいまのまちに引っ越してきたのが、昭和21年のことだった。だから正太はその頃のことはからっきし記憶にない。
 おじいさんのことも、写真の中でしか会ったことがない。
 正太たち4人の子どもとおじいさんは血のつながりがない。
 正太のおじいさんは母親の養父、つまり母親が養子に出された先の育ての親で、明治の帝国陸軍の騎馬隊の中尉だったという。
 母親の養子先は四国で造り酒屋を営んでいたが、母親が大阪の製薬会社に勤める正太の父親に嫁いだ後で酒造りに失敗して家業が傾き、父母がおじいさんを預かることになった。
 預かると言っても、軍人恩給で悠々自適な毎日を送る養父と暮らすことは、当時の勤め人の生活にとっては、ずいぶんと助かったらしい。
 そんなか、大阪本社から東京支店への転勤で、東京に引っ越した後に、正太は生まれた。
 おじいさんは家業が造り酒屋だったこともあって、一日たりとも酒を切らしたことがないほどのお酒好きだった。当時の日本人にしては、偉丈夫で身長が180センチ近くあり、正太を抱いている写真では、顔つきはドングリのように頭頂部がとがり、髪の毛と鼻下に蓄えたひげは真っ白だった。ただ、丸眼鏡の奥の瞳はやさしく、母親の話によると、正太をいつもかわいがり、乳母車に乗せては東京での暮らしの拠点となった中野区新井薬師の境内の庭を楽しそうに散歩していたという。
 戦火が激しくなるなか、一番上の姉は学童疎開で群馬へ行き、残された家族は父親の勤めの関係もあって、一家で東京の奥座敷のような村に疎開したのである。
 正太は、小学生になった頃、昭和20年の首都大空襲の話を何度か聞かされた。兄や小さい方の姉は、東の空が真っ赤に燃えるのをはっきりと記憶していた。
 疎開者にとって、食糧を手に入れることは、至難だったが、父親が製薬会社に勤めていたこともあり、現物支給される栄養剤などと食糧やおじいさんのお酒を交換することができ、一家が食べ物に苦労することはなかった。
 父親は、兵役も免除されていた。

終戦
 昭和20年8月15日、終戦の日を迎えた。正太、2歳と20日だった。
 その朝のこと、おじいさんは朝から落ち着かず、正午の天皇陛下の玉音放送を聞くやいなや、日本刀を取り出し、河原で腹を切るといいだした。それを止めるのに村中が大騒ぎになった。
 平和は訪れたが、日本の国は戦後の混乱の時代に突入した。
 河原で腹を切ると手こずらせたおじいさんは、失意の中、急速に衰えていき、終戦の日からわずか二ヶ月後にぽっくりと亡くなってしまった。
 亡くなる寸前、天皇陛下に申し訳ないと、念仏のように繰り返し、飲むお酒の量も増えて、母親はその酒の調達に走り回ることになる。
 「ワシが死んだら、火葬することなく、全身に酒をふりかけて埋葬してくれればいい」 
 それがおじいさんの遺言だったと、正太は小学生になって初めて墓参りに言った日に母親から聞いた。
 火葬しようにも、焼き場では燃料が不足しており、結局、望み通りに酒をふりかけてそのまま土葬することになった。
 落ち着いたら四国の菩提寺に、埋葬し直すということで、即済寺には仮埋葬されることになった。

即済寺
 即済寺は、真言宗の古刹で、街道に面して幅の広い大きな石段がある。石段を登り切ったところに立派な山門が構えており、門の右側のこれまた大きな鐘楼がある。
 鐘は、戦争中に供出したので、鐘楼の屋根の下は間が抜けたように空いている。
 山門をくぐると、広い庭になっており、庭に面してどっしりとした本堂が、建てられている。
 正太たち小学生の遊び場になっている大願寺と比べると、広さは3倍も4倍もある。
 庭は、淡い黄色い土で覆われており、大願寺では野球するのにも、三角ベースがやっと取れるほどだが、即済寺なら、普通に四つのベースを配置できるほど広い。
 そのそば屋だが、即済寺の石段の少し手前の大きなケヤキの木の下にある。
 平屋の木造で、屋根には杉の皮を葺いてある。間口は三間ほど、入口は木の引き戸で、あかりは竹の格子の障子窓から射し込んでくる。
 初めて、そのそば屋に入ったとき、中が暗く、夏なのに体が思わずビクリと身震いするほどひんやりしていた。全体に煤の匂いが漂っている。
 目が、暗さに慣れる前に、店の奥から小さなおばあさんが出てきたので、ふたたび体がビクリとする。
 おばあさんはすっかり腰が曲がり、頭には手ぬぐいを姉さんかぶりしている。
 顔はニスを塗ったように茶色で、刻まれた深いしわは障子から差す光に、黒光りしている。
 店の中には、木の丸テーブルが3つ、その回りに太い丸太を切った椅子が置かれ、それぞれに四角いゴザの座布団がのせられている。
 足下は赤土の土間だった。
 客がきたという、ことで、おばあさんは思い切り背伸びして、天井の梁からぶら下がっている白熱電球のスイッチを入れる。それでも、あまり明るさに変化ない。
 「正太、おばあさんには、私たち家族が疎開していたときに大変にお世話になったのよ。正太は、まだ小さかったからおぼえていないでしょうけれど、よく、お野菜などをとどけていただきました。正太からもちゃんとお礼をいいなさい」
 「ありがとうございます。ぼく、正太です。小学校3年生です」
 我ながら、上手に挨拶ができたと思った。
 「正ちゃん、すっかりおおきくなって。戦争終わって引っ越していったときまだ、二歳かそこらでしょう。まだ、赤ちゃんだったもの、おばあのことはおぼえているわけないやね」
 おばあさんは、黒光りするしわをくちゃくちゃにして、笑った。
 正太は、どうしたらこんなに色が黒くなってぴかぴかに光るのか、色白な自分の母親と思わず見比べていた。
 「正ちゃん、お兄さんやお姉さんも元気にしとるかね。お父さんもどうじゃね」
 「はい、みんな元気です」
 後を母親が引き継ぐ。
「一番上はもう来年は高校です。正太の兄は、いま中学校に通っています。次女は来年中学です。ついこのあいだ戦争が終わったばかりだというのに、本当に時間の経つのは早くて、驚くばかりです」
 「今日は、お墓参りかね」
 「はい、正太を初めて連れてきました。他の兄弟は何回かきているのですが、正太はまだ一度も連れてきておりませんでしたので」
 「そうですか、暑い中ご苦労様です。おそばでも茹でましょうか」
 「お願いします。正太、おばあさんのおそばは本当においしいから、よかったね」 
 そば屋はいつも開いているわけでなく、運が悪いと、何回きても閉まっていることがある、と姉や兄から聞かされていた。母親も、お墓参りのご褒美においしいそばを食べさせてあげると言っていたが、おばあさんがお店を開けていたらねという、条件付きだった。
 そうか、今日は運のいい日なんだ、正太は今日という幸運を心から喜んだ。
 そばができるまで、おばあさんは奥に引っ込み、暗い店の中には正太と母親だけになった。
 「おかあさん、地方事務所のおそばよりおいしいの?」
 正太の質問に、母親はちょっと笑みを浮かべて、うなずいた。
 「食べてみればわかります。地方事務所のおそばもおいしいけれど。正太は、おそばといえば、あのおそばか、うちで食べるおそばしか知らないから仕方ないけれど、おばあさんのつくるおそがは、そば粉を自分の家で挽いて、手打ちでつくるのでとっても香ばしくて、しっとりとしているから、おそばの好きな正太も、きっとびっくりするでしょうよ」
 
 正太の家の南側に地方事務所という、役所の支所があった。木造二階建ての建物には結構な人数の役人が働いており、その人たちのための食堂が敷地内に設けられていた。
 いろいろな定食が用意されていたが、そのなかでもざるそばやかけそばが人気だった。
 上手くて安いというのが評判だった。
 正太の母親は4人のこどもが通う学校の役員などをしていた関係で、家を空けることが多く、授業が半日で終了する正太は、たった一人で昼食を取ることが少なくなかった。
 正太の母親が、一人分の食事を作ることが面倒なときに、ちゃぶ台の上にそば代と手紙を置いていくことがいつしか習わしとなり、正太は昼食時に地方事務所の食堂で、大人に混じって食事をするようになったのだ。
 その食堂のまかないをするおばさんが、正太の家族と親しかったこともあって、小さなお客さんは、食堂の人気者となった。
 正太が注文するのはいつも、そばだった。
 回りの大人は、小学生なのにそば好きとは珍しいといい、また正太の食べっぷりにも感心していた。
 わさびこそまだ無理だったが、きざみネギをちゃんと入れて、食べ始めると箸を休めることなく、一気に食べきってしまう。
 しかも、つけ汁に大人と同じようにそば湯を入れて飲むにいたっては、いよいよ本格的だった。
 小学生でもおいしいものはおいしい、それが正太の本音だった。
 夏はざるそば、寒くなるとかけそばにコロッケを入れるのが、ちょっとした贅沢で、正太はそばつゆに溶けるコロッケの味が大好きになった。
 「お宅の正ちゃんは本当におそば好きだね」
 食堂のおばさんも、正太のつゆ一滴も残さない食べっぷりを母親に何度も話したものだった。
 筋金入りのそば好き、正太は兄からもそういわれていた
 
手打ちそば
 
 正太の前に、おばあさんが運んできておいたそばは、丸いザルに盛られていた。
 そば猪口に入れられているつゆは、黒々としている。
 小さな小皿には、わさびときざみネギがたっぷり。
 テーブルの上の箸入れから、母親が箸を一膳、手渡してくれる。
 正太にとって初めての、即済寺の門前そばとの出会いは、こうして始まった。
 障子から漏れる外の光と、小さな裸電球の光の下で、正太はザルの盛られたそばに箸を差し込む。箸先で、すくい上げるようにしてそばを猪口に運んだ。
 ちょっとつゆにつけたそばにむかって、正太を口で迎えに行く。
 ちょっとぬるっとして舌触りで始まり、口にほおばると、柔らかい噛み心地の後に、そばの味が広がった。真っ黒くて辛そうに思えたつゆは、さっぱりしていて、そばの香りといっしょになってだしのうまみ口いっぱいに広がる。
 正太は、ウチや地方事務所で食べるそばとはまったく違うことが分かった。
 噛むとますますうまさが広がってくる。
 「おいしい」
 正太は思わずつぶやいた。
 「ほら、おいしいでしょう。このおそばには、つなぎに山芋を使っているから、ちょっとぬるっとしているけれど、味がとても上品でたべやすいのよ」
 「山芋っておかあさんどんなもの」
 「正太がよく食べる、とろろ芋のことです」 
 「あの、口の周りがかゆくなる奴?」
 正太は、山芋をすり下ろして、すり鉢でごろごろとすったとろろ芋を食べて、かぶれてしまし唇がウインナソーセージのように腫れ上がってしまったことがある。その時にはかゆくて、以来ちょっと苦手なもののひとつになっていた。
 「このおそばは、口回りがかゆくならない、おかあさん?」
 「大丈夫でしょ、正太いま、かゆく感じますか」
 正太は、唇の回りに神経を注いでみたが、前のようなかゆさはない。
 こうなるともう、箸は止まらない。
 つゆにつけては食べるをくりかえし、あっという間に平らげてしまう。
 「正ちゃんは、おそば好きだね。それじゃそば湯も入れようかね」
 「はい、いただきます。おばさん、このおそば本当においしかった」
 「まあ、こんな小さな子においしいと言われたのは初めてのこった」といいつつ、おばあさんはそば猪口を手にして奥にはいる。
 もどってくると、つゆにはそばつゆが加えられ、白濁していた。
 正太は、箸でつゆをかき混ぜながら口に運ぶ。
 そば湯で薄められたつゆは、だしの味が引き立ち、うまみが増しているようだった。
 「おいしいそば湯でつゆを割ると、またおいしさがちがうでしょ」
 「うん」
 いつもは口数の多い正太もこのときばかりは、うんとしかいいようがない。


木炭バス
 
 あのそばを食べられるという機会は年に何回もない。
 その数少ないチャンスが巡ってきた。これも訳の分からないお盆のおかげだ。
 初めて味をしめてから、何度も機会はあったが、母が行く前に必ず釘を刺したように、いつでも店が開いているわけではない。
 その不運にぶつかったこともある。
 電話もない時代、今日はお店が開いているか、閉じているかなどと確かめる術はない。行き当たりばったりで、運がよければということになる。
 正太の誕生日にはまだ10日ほどあるこの日、前日の天気予報が梅雨の中休みというので、母親は正太を墓参りに連れて行くことにしたのである。
 正太は記憶にないが、母親の養父は正太をかわいがり、この子は自分の生まれ変わりのようだと、姉や兄へのしつけには厳しかったが、正太には一度も怒ったことがなかった。だから、母親は、養父が一番好きだった正太を、できる限り墓参りに連れて行くことにしていた。
 電車で行くこともできるが、駅からかなり歩くことになるので、墓参りにはいつも駅前からバスを利用する。
 朝、二番目に出発するバスでいくと、即済寺には、11時頃には着く。
 お墓の草むしりなどをしてから、住職への挨拶をすませると、大体お昼時になる。
 そば屋が開いていれば、そのお昼にそばを食べることができるというわけだ。
 正太は、お供え物のはいった風呂敷をもち、母親は住職への届け物や線香、花などを大きめの紙袋にいれている。
 駅前には、バスが待機していた。
 バスは、木炭を燃やして蒸気で動く木炭バスだった。
 くすんだ空色をした車体に、濃いめの青い帯が上下を仕切り、そこにバス会社の名前がしるされている。
 前が大きく出っ張ったボンネット型で、後部に大きな釜が設えてあり、その釜の煙突からうっすらと白い煙がでている。
 ガソリンが不足した戦争中、代用に開発されたもので、釜に薪をくべながら走らなければならない。薪をくべるのは女車掌の仕事だった。
 正太達が着いたときには、まだ、まばらな客の中から母親は見知った顔をみつけて、これから墓参りに行くなどと挨拶を交わしている。 
 
 田舎のバスはおんぼろ車
 ♪田舎のバスはおんぼろ車♪、という歌がはやっていたが、正太にとって木炭バスはおんぼろ車どころか、カボチャの馬車以上に夢いっぱいのうれしい乗り物だった。
 駅前の停留所を出発したバスは、街道にぶつかると右に折れる。
 道路はといえば、夏場の日差しでアスファルトがあちらこちらで黒く溶けており、路面はでこぼこになっている。削られた部分からは土が露出し、バスが走るとほこりが舞い上がった。
 正太は、バスの窓から外を見るために、靴を脱いでちょこんと正座している。
 バスの窓から眺めると、走り去る街並みが、いつもとは違って見える。
 床屋も、刃物雑貨の店も、しょう油専門店も、小さな電機屋も、大きな店構えの薬屋も、窓で切り取った景色は次々に遠ざかっていく。
 店先には、正太の見知った店主の顔もある。
 正太がそのたびに声をあげ、手を振っても相手、は開店の準備に追われて気づかない。
 やがてバスは、町役場の所から下り坂に入った。
 釜の淵に行く時に下る長い坂だった。
 バスは、荒れた道にタイヤを取られて大きく上下左右に揺さぶられる。
 「正太、しっかりお母さんにつかまりなさい」
 女車掌が、バスが揺れますのでご注意ください、と大きな声で告げる。
 その声に答えるかのように、バスがさらに大きくはずむ。
 正太は、座席から転げ落ちそうになり、母親の手を強く握り替えした。
 「この坂は、本当にいつまでたってもでこぼこで、こまっちゃうね」 
 客の一人が、独り言のように文句をいう。他の客はそれにうなずき返す。
 坂を下りきると、川をまたぐコンクリート造りの白い橋を渡り、一年中日陰となる地区へ入る。
 正太達の住むのは、川の北側になり、一年中日差しが豊かで、日向地区と呼ばれ、反対側の山沿いは一年中日差しが乏しく日陰地区と呼ばれていた。
 橋を越えて、バスは上り坂で、突然力を失ったように停止した。
 女車掌が、ドアを力任せに開き、車外にでて、バスの後ろに小走りに急ぐ。
 正太は、後部座席に走っていく。
 後ろの窓から、女車掌が釜に薪をくべているのが見えた。
 蒸気が上がるまでしばらくお待ちください、と今度は運転手が振り返りながら、バスの客に声をかけた。
 日陰地区の街道は人家も少なく、バス停留所も数えるほどしかない。
 道は狭く、左手に山、右手に川がのぞいている。
 くねくねとした田舎道をそれでもバスはその後、順調にスピードを上げていった。
 正太が見慣れた景色が見えてきた。
 今日で何度目の墓参りだろうか。
 夏ばかりではなく、春にも秋にもきている。
 窓からの景色は、畑に変わり、少しずつ農家の家も増えてきている。
 即済寺への大曲りから坂を下るとそば屋が見えてきた。
 お店がやっているかどうかは、バスから見ただけでは分からない。
 そば屋を過ぎて、即済寺の石段の先にバス停留所がある。
 下りたのは、正太と母親の二人だった。
 砂埃を残してバスが走り去ると、正太はそば屋に向かって走った。
 お店はひっそりとしており、人気がない。正太は、今日はお休みかなとちょっとがっかりした。その時、引き戸に墨で文字が書いてある白い紙が貼ってあるのに気づいた。
 正太の漢字読解力でも十分に理解できる内容だった。
 「しばらく、お店を休ませてもらいます」とあり、その後に「おばあのそばが大好きな正ちゃん、おばあが元気になったらまた食べにきておくれ」と。
 正太は、追いかけてきた母親に、おばさん具合が悪いみたい、と告げた。
 母親は、お歳もお歳だし、あんまり無理できないのかもしれないね。でもまた元気になったら食べにくればいいでしょう、それまでたのしみにしていなさい、といって、即済寺の門に向かった。
 「おばさんはいくつなの」
 大きな石段を登りながら、正太は母親の背中に向かって叫んだ。
 「もう、90歳になるでしょう。正太のおじいさんとあまり変わらないから」
 母親が即済寺の住職に、持参した土産を届けながら挨拶をしている間、正太は広い庭で、一人で待っていた。
 庭の端までいくと、植え込みの間からそば屋が見えた。人が誰もいないその建物は、おばあさんと同じように、歳を取っているように思えた。
 この前、墓参りに来たのは、3月だった。
 その時に、夏休みには必ず来ますと、正太はおばあさんに約束していた。
 約束を守れなかったことを、おばあさんはわびていたのだ。
 
 その日に、母親が即済寺の住職からそば屋のおばあさんの具合について確かめていた。
 そのことを聞いたのはもっと後のことだった。
 その年の暮れに、おばあさんが亡くなったことを母親から知らされた。
 夏休みに墓参りに行ったときにはすでに、もう商売できる状態ではなかったらしい。
 その後も、正太は、おばあさんのそばの味を忘れることはなかった。
 即済寺の門前そば屋は、中学生になって、墓参りに行ったとき、すでに取り壊されていて、小さな三角の空き地が残っているだけだった。