即済寺の門前そば

盆の入り

 お盆とはなにか、正太にはどうしてもその意味が飲み込めなかった。
 7月の中頃になると、亡くなった人を供養するために、各家では、玄関先などにきゅうりやなすに割り箸などで足をつけて馬や牛に見立てて飾り、送り火といって藁のような白く細い木を燃やした。正太のウチでは、その習わしをしなかった。
 「おかあさんウチでは、玄関にきゅうりやなすで、馬や牛をつくらないの?」
 例によって正太の質問がはじまる。
 「お盆というのは、仏教を信じる家庭ですることで、ウチは神道だからしません」
 母親の説明で、正太はさらなる混乱に陥る。
 仏教というのは、お釈迦様が関係しているのは分かるけれど、シントウというのは、さっぱり理解できない。だから当然のように次の質問の矢をつがえようとすると、母親がそれを先読みしたように、「大きくなったらもっと分かるようになるから、今日はここまで」と、それ以上の質問を受け付けなかった。
 かくなる上はと、兄弟に教えてもらおうと、物知りの大きい方の姉が帰宅するやいなや、すぐに捕まえる。
 「宗教というのはなかなか難しくて、まだ、正太には理解できないと思うから、お母さんも説明しなかったのだと思う。分かりやすく言うと、正太はキリスト教って知っているでしょう。そう、クリスマスはキリスト様の誕生日よね。キリスト教を信じている家ではお彼岸というのはありません。それと同じように、シントウも仏教とは違う宗教なので、ウチのような家庭ではお盆やお彼岸の仏事、仏事というのは仏教で定めた一年間の予定みたいなものと思えばいい、その仏事をしないわけ。わかった」
 「ウチは、キリスト教のような宗教を信じている家庭なわけ?」
 「そうね、でも、正太は早とちりするから、念のために言っておくけれど、キリスト教ではありませんからね」
 どうも、くどく念を押されるのは、正太の頭の中で勝手にキリスト教が一人歩きすることを姉は警戒しているようだ。
 正太にもそれくらいは理解できる。でも、シントウには、クリスマスのようなお祭りがないことが、ちょっぴり不満だった。
 仏教なら、花祭りなどいろいろあるのに。
 正太の頭では、大好きなこのまちのお祭りが、神社、つまりシントウの祭礼であるという理解にはとうてい行き着いていない。
 しかし、この日からの正太の混乱は、ますます大きくなり、併せて、母親と兄弟は質問攻めにあい、こちらもどうしていいのか、大混乱の極みとなっていく。
 
殺し文句

「正太、お盆だから、明日は、おじいさんのお墓参りにいきましょう」
 ここでまた、正太の頭は大混乱となる。
 「お母さん、ウチにはお盆が無いのに、お墓参りにいくの?」
 この質問は、正太が正しい。
 墓参りに行くと言った母親も、さすがにしまったと思うが、「世間がお盆だから、ウチは関係ないけれど、墓参りに行きます。正太は行くの、それとも行かないの、大好きなおそばたべたくないの」と、とっさに正太の弱点をつく。
 おそばという魔法の言葉が、正太の頭からお盆もお彼岸もシントウもキリスト教もきれいさっぱりと消し去ってしまった。
 正太は、そばが大好きだった。
 大好きになったのは、おじいさんの墓が祀られている、即済寺の門前にあるそば屋で、初めてそばを食べた時からだった。
 だからパブロフの犬のように、墓参りは即済寺へとつながり、即済寺はおそばへと落ち着き、どんなに混乱した頭もきれいに整理されてしまう。
 さて、即済寺という寺は、正太が2歳半になるまでの過ごした疎開先にあった。
 いま住むまちからは、電車の駅で三つ目、距離にして10キロもあるだろうか、小さな村だった。
 東京大空襲を逃れて、疎開したのが正太1歳半のとき。
 戦争が終わって半年足らずで、疎開先を引き払いいまのまちに引っ越してきたのが、昭和21年のことだった。だから正太はその頃のことはからっきし記憶にない。
 おじいさんのことも、写真の中でしか会ったことがない。
 正太たち4人の子どもとおじいさんは血のつながりがない。
 正太のおじいさんは母親の養父、つまり母親が養子に出された先の育ての親で、明治の帝国陸軍の騎馬隊の中尉だったという。
 母親の養子先は四国で造り酒屋を営んでいたが、母親が大阪の製薬会社に勤める正太の父親に嫁いだ後で酒造りに失敗して家業が傾き、父母がおじいさんを預かることになった。
 預かると言っても、軍人恩給で悠々自適な毎日を送る養父と暮らすことは、当時の勤め人の生活にとっては、ずいぶんと助かったらしい。
 そんなか、大阪本社から東京支店への転勤で、東京に引っ越した後に、正太は生まれた。
 おじいさんは家業が造り酒屋だったこともあって、一日たりとも酒を切らしたことがないほどのお酒好きだった。当時の日本人にしては、偉丈夫で身長が180センチ近くあり、正太を抱いている写真では、顔つきはドングリのように頭頂部がとがり、髪の毛と鼻下に蓄えたひげは真っ白だった。ただ、丸眼鏡の奥の瞳はやさしく、母親の話によると、正太をいつもかわいがり、乳母車に乗せては東京での暮らしの拠点となった中野区新井薬師の境内の庭を楽しそうに散歩していたという。
 戦火が激しくなるなか、一番上の姉は学童疎開で群馬へ行き、残された家族は父親の勤めの関係もあって、一家で東京の奥座敷のような村に疎開したのである。
 正太は、小学生になった頃、昭和20年の首都大空襲の話を何度か聞かされた。兄や小さい方の姉は、東の空が真っ赤に燃えるのをはっきりと記憶していた。
 疎開者にとって、食糧を手に入れることは、至難だったが、父親が製薬会社に勤めていたこともあり、現物支給される栄養剤などと食糧やおじいさんのお酒を交換することができ、一家が食べ物に苦労することはなかった。
 父親は、兵役も免除されていた。

終戦
 昭和20年8月15日、終戦の日を迎えた。正太、2歳と20日だった。
 その朝のこと、おじいさんは朝から落ち着かず、正午の天皇陛下の玉音放送を聞くやいなや、日本刀を取り出し、河原で腹を切るといいだした。それを止めるのに村中が大騒ぎになった。
 平和は訪れたが、日本の国は戦後の混乱の時代に突入した。
 河原で腹を切ると手こずらせたおじいさんは、失意の中、急速に衰えていき、終戦の日からわずか二ヶ月後にぽっくりと亡くなってしまった。
 亡くなる寸前、天皇陛下に申し訳ないと、念仏のように繰り返し、飲むお酒の量も増えて、母親はその酒の調達に走り回ることになる。
 「ワシが死んだら、火葬することなく、全身に酒をふりかけて埋葬してくれればいい」 
 それがおじいさんの遺言だったと、正太は小学生になって初めて墓参りに言った日に母親から聞いた。
 火葬しようにも、焼き場では燃料が不足しており、結局、望み通りに酒をふりかけてそのまま土葬することになった。
 落ち着いたら四国の菩提寺に、埋葬し直すということで、即済寺には仮埋葬されることになった。

即済寺
 即済寺は、真言宗の古刹で、街道に面して幅の広い大きな石段がある。石段を登り切ったところに立派な山門が構えており、門の右側のこれまた大きな鐘楼がある。
 鐘は、戦争中に供出したので、鐘楼の屋根の下は間が抜けたように空いている。
 山門をくぐると、広い庭になっており、庭に面してどっしりとした本堂が、建てられている。
 正太たち小学生の遊び場になっている大願寺と比べると、広さは3倍も4倍もある。
 庭は、淡い黄色い土で覆われており、大願寺では野球するのにも、三角ベースがやっと取れるほどだが、即済寺なら、普通に四つのベースを配置できるほど広い。
 そのそば屋だが、即済寺の石段の少し手前の大きなケヤキの木の下にある。
 平屋の木造で、屋根には杉の皮を葺いてある。間口は三間ほど、入口は木の引き戸で、あかりは竹の格子の障子窓から射し込んでくる。
 初めて、そのそば屋に入ったとき、中が暗く、夏なのに体が思わずビクリと身震いするほどひんやりしていた。全体に煤の匂いが漂っている。
 目が、暗さに慣れる前に、店の奥から小さなおばあさんが出てきたので、ふたたび体がビクリとする。
 おばあさんはすっかり腰が曲がり、頭には手ぬぐいを姉さんかぶりしている。
 顔はニスを塗ったように茶色で、刻まれた深いしわは障子から差す光に、黒光りしている。
 店の中には、木の丸テーブルが3つ、その回りに太い丸太を切った椅子が置かれ、それぞれに四角いゴザの座布団がのせられている。
 足下は赤土の土間だった。
 客がきたという、ことで、おばあさんは思い切り背伸びして、天井の梁からぶら下がっている白熱電球のスイッチを入れる。それでも、あまり明るさに変化ない。
 「正太、おばあさんには、私たち家族が疎開していたときに大変にお世話になったのよ。正太は、まだ小さかったからおぼえていないでしょうけれど、よく、お野菜などをとどけていただきました。正太からもちゃんとお礼をいいなさい」
 「ありがとうございます。ぼく、正太です。小学校3年生です」
 我ながら、上手に挨拶ができたと思った。
 「正ちゃん、すっかりおおきくなって。戦争終わって引っ越していったときまだ、二歳かそこらでしょう。まだ、赤ちゃんだったもの、おばあのことはおぼえているわけないやね」
 おばあさんは、黒光りするしわをくちゃくちゃにして、笑った。
 正太は、どうしたらこんなに色が黒くなってぴかぴかに光るのか、色白な自分の母親と思わず見比べていた。
 「正ちゃん、お兄さんやお姉さんも元気にしとるかね。お父さんもどうじゃね」
 「はい、みんな元気です」
 後を母親が引き継ぐ。
「一番上はもう来年は高校です。正太の兄は、いま中学校に通っています。次女は来年中学です。ついこのあいだ戦争が終わったばかりだというのに、本当に時間の経つのは早くて、驚くばかりです」
 「今日は、お墓参りかね」
 「はい、正太を初めて連れてきました。他の兄弟は何回かきているのですが、正太はまだ一度も連れてきておりませんでしたので」
 「そうですか、暑い中ご苦労様です。おそばでも茹でましょうか」
 「お願いします。正太、おばあさんのおそばは本当においしいから、よかったね」 
 そば屋はいつも開いているわけでなく、運が悪いと、何回きても閉まっていることがある、と姉や兄から聞かされていた。母親も、お墓参りのご褒美においしいそばを食べさせてあげると言っていたが、おばあさんがお店を開けていたらねという、条件付きだった。
 そうか、今日は運のいい日なんだ、正太は今日という幸運を心から喜んだ。
 そばができるまで、おばあさんは奥に引っ込み、暗い店の中には正太と母親だけになった。
 「おかあさん、地方事務所のおそばよりおいしいの?」
 正太の質問に、母親はちょっと笑みを浮かべて、うなずいた。
 「食べてみればわかります。地方事務所のおそばもおいしいけれど。正太は、おそばといえば、あのおそばか、うちで食べるおそばしか知らないから仕方ないけれど、おばあさんのつくるおそがは、そば粉を自分の家で挽いて、手打ちでつくるのでとっても香ばしくて、しっとりとしているから、おそばの好きな正太も、きっとびっくりするでしょうよ」
 
 正太の家の南側に地方事務所という、役所の支所があった。木造二階建ての建物には結構な人数の役人が働いており、その人たちのための食堂が敷地内に設けられていた。
 いろいろな定食が用意されていたが、そのなかでもざるそばやかけそばが人気だった。
 上手くて安いというのが評判だった。
 正太の母親は4人のこどもが通う学校の役員などをしていた関係で、家を空けることが多く、授業が半日で終了する正太は、たった一人で昼食を取ることが少なくなかった。
 正太の母親が、一人分の食事を作ることが面倒なときに、ちゃぶ台の上にそば代と手紙を置いていくことがいつしか習わしとなり、正太は昼食時に地方事務所の食堂で、大人に混じって食事をするようになったのだ。
 その食堂のまかないをするおばさんが、正太の家族と親しかったこともあって、小さなお客さんは、食堂の人気者となった。
 正太が注文するのはいつも、そばだった。
 回りの大人は、小学生なのにそば好きとは珍しいといい、また正太の食べっぷりにも感心していた。
 わさびこそまだ無理だったが、きざみネギをちゃんと入れて、食べ始めると箸を休めることなく、一気に食べきってしまう。
 しかも、つけ汁に大人と同じようにそば湯を入れて飲むにいたっては、いよいよ本格的だった。
 小学生でもおいしいものはおいしい、それが正太の本音だった。
 夏はざるそば、寒くなるとかけそばにコロッケを入れるのが、ちょっとした贅沢で、正太はそばつゆに溶けるコロッケの味が大好きになった。
 「お宅の正ちゃんは本当におそば好きだね」
 食堂のおばさんも、正太のつゆ一滴も残さない食べっぷりを母親に何度も話したものだった。
 筋金入りのそば好き、正太は兄からもそういわれていた
 
手打ちそば
 
 正太の前に、おばあさんが運んできておいたそばは、丸いザルに盛られていた。
 そば猪口に入れられているつゆは、黒々としている。
 小さな小皿には、わさびときざみネギがたっぷり。
 テーブルの上の箸入れから、母親が箸を一膳、手渡してくれる。
 正太にとって初めての、即済寺の門前そばとの出会いは、こうして始まった。
 障子から漏れる外の光と、小さな裸電球の光の下で、正太はザルの盛られたそばに箸を差し込む。箸先で、すくい上げるようにしてそばを猪口に運んだ。
 ちょっとつゆにつけたそばにむかって、正太を口で迎えに行く。
 ちょっとぬるっとして舌触りで始まり、口にほおばると、柔らかい噛み心地の後に、そばの味が広がった。真っ黒くて辛そうに思えたつゆは、さっぱりしていて、そばの香りといっしょになってだしのうまみ口いっぱいに広がる。
 正太は、ウチや地方事務所で食べるそばとはまったく違うことが分かった。
 噛むとますますうまさが広がってくる。
 「おいしい」
 正太は思わずつぶやいた。
 「ほら、おいしいでしょう。このおそばには、つなぎに山芋を使っているから、ちょっとぬるっとしているけれど、味がとても上品でたべやすいのよ」
 「山芋っておかあさんどんなもの」
 「正太がよく食べる、とろろ芋のことです」 
 「あの、口の周りがかゆくなる奴?」
 正太は、山芋をすり下ろして、すり鉢でごろごろとすったとろろ芋を食べて、かぶれてしまし唇がウインナソーセージのように腫れ上がってしまったことがある。その時にはかゆくて、以来ちょっと苦手なもののひとつになっていた。
 「このおそばは、口回りがかゆくならない、おかあさん?」
 「大丈夫でしょ、正太いま、かゆく感じますか」
 正太は、唇の回りに神経を注いでみたが、前のようなかゆさはない。
 こうなるともう、箸は止まらない。
 つゆにつけては食べるをくりかえし、あっという間に平らげてしまう。
 「正ちゃんは、おそば好きだね。それじゃそば湯も入れようかね」
 「はい、いただきます。おばさん、このおそば本当においしかった」
 「まあ、こんな小さな子においしいと言われたのは初めてのこった」といいつつ、おばあさんはそば猪口を手にして奥にはいる。
 もどってくると、つゆにはそばつゆが加えられ、白濁していた。
 正太は、箸でつゆをかき混ぜながら口に運ぶ。
 そば湯で薄められたつゆは、だしの味が引き立ち、うまみが増しているようだった。
 「おいしいそば湯でつゆを割ると、またおいしさがちがうでしょ」
 「うん」
 いつもは口数の多い正太もこのときばかりは、うんとしかいいようがない。


木炭バス
 
 あのそばを食べられるという機会は年に何回もない。
 その数少ないチャンスが巡ってきた。これも訳の分からないお盆のおかげだ。
 初めて味をしめてから、何度も機会はあったが、母が行く前に必ず釘を刺したように、いつでも店が開いているわけではない。
 その不運にぶつかったこともある。
 電話もない時代、今日はお店が開いているか、閉じているかなどと確かめる術はない。行き当たりばったりで、運がよければということになる。
 正太の誕生日にはまだ10日ほどあるこの日、前日の天気予報が梅雨の中休みというので、母親は正太を墓参りに連れて行くことにしたのである。
 正太は記憶にないが、母親の養父は正太をかわいがり、この子は自分の生まれ変わりのようだと、姉や兄へのしつけには厳しかったが、正太には一度も怒ったことがなかった。だから、母親は、養父が一番好きだった正太を、できる限り墓参りに連れて行くことにしていた。
 電車で行くこともできるが、駅からかなり歩くことになるので、墓参りにはいつも駅前からバスを利用する。
 朝、二番目に出発するバスでいくと、即済寺には、11時頃には着く。
 お墓の草むしりなどをしてから、住職への挨拶をすませると、大体お昼時になる。
 そば屋が開いていれば、そのお昼にそばを食べることができるというわけだ。
 正太は、お供え物のはいった風呂敷をもち、母親は住職への届け物や線香、花などを大きめの紙袋にいれている。
 駅前には、バスが待機していた。
 バスは、木炭を燃やして蒸気で動く木炭バスだった。
 くすんだ空色をした車体に、濃いめの青い帯が上下を仕切り、そこにバス会社の名前がしるされている。
 前が大きく出っ張ったボンネット型で、後部に大きな釜が設えてあり、その釜の煙突からうっすらと白い煙がでている。
 ガソリンが不足した戦争中、代用に開発されたもので、釜に薪をくべながら走らなければならない。薪をくべるのは女車掌の仕事だった。
 正太達が着いたときには、まだ、まばらな客の中から母親は見知った顔をみつけて、これから墓参りに行くなどと挨拶を交わしている。 
 
 田舎のバスはおんぼろ車
 ♪田舎のバスはおんぼろ車♪、という歌がはやっていたが、正太にとって木炭バスはおんぼろ車どころか、カボチャの馬車以上に夢いっぱいのうれしい乗り物だった。
 駅前の停留所を出発したバスは、街道にぶつかると右に折れる。
 道路はといえば、夏場の日差しでアスファルトがあちらこちらで黒く溶けており、路面はでこぼこになっている。削られた部分からは土が露出し、バスが走るとほこりが舞い上がった。
 正太は、バスの窓から外を見るために、靴を脱いでちょこんと正座している。
 バスの窓から眺めると、走り去る街並みが、いつもとは違って見える。
 床屋も、刃物雑貨の店も、しょう油専門店も、小さな電機屋も、大きな店構えの薬屋も、窓で切り取った景色は次々に遠ざかっていく。
 店先には、正太の見知った店主の顔もある。
 正太がそのたびに声をあげ、手を振っても相手、は開店の準備に追われて気づかない。
 やがてバスは、町役場の所から下り坂に入った。
 釜の淵に行く時に下る長い坂だった。
 バスは、荒れた道にタイヤを取られて大きく上下左右に揺さぶられる。
 「正太、しっかりお母さんにつかまりなさい」
 女車掌が、バスが揺れますのでご注意ください、と大きな声で告げる。
 その声に答えるかのように、バスがさらに大きくはずむ。
 正太は、座席から転げ落ちそうになり、母親の手を強く握り替えした。
 「この坂は、本当にいつまでたってもでこぼこで、こまっちゃうね」 
 客の一人が、独り言のように文句をいう。他の客はそれにうなずき返す。
 坂を下りきると、川をまたぐコンクリート造りの白い橋を渡り、一年中日陰となる地区へ入る。
 正太達の住むのは、川の北側になり、一年中日差しが豊かで、日向地区と呼ばれ、反対側の山沿いは一年中日差しが乏しく日陰地区と呼ばれていた。
 橋を越えて、バスは上り坂で、突然力を失ったように停止した。
 女車掌が、ドアを力任せに開き、車外にでて、バスの後ろに小走りに急ぐ。
 正太は、後部座席に走っていく。
 後ろの窓から、女車掌が釜に薪をくべているのが見えた。
 蒸気が上がるまでしばらくお待ちください、と今度は運転手が振り返りながら、バスの客に声をかけた。
 日陰地区の街道は人家も少なく、バス停留所も数えるほどしかない。
 道は狭く、左手に山、右手に川がのぞいている。
 くねくねとした田舎道をそれでもバスはその後、順調にスピードを上げていった。
 正太が見慣れた景色が見えてきた。
 今日で何度目の墓参りだろうか。
 夏ばかりではなく、春にも秋にもきている。
 窓からの景色は、畑に変わり、少しずつ農家の家も増えてきている。
 即済寺への大曲りから坂を下るとそば屋が見えてきた。
 お店がやっているかどうかは、バスから見ただけでは分からない。
 そば屋を過ぎて、即済寺の石段の先にバス停留所がある。
 下りたのは、正太と母親の二人だった。
 砂埃を残してバスが走り去ると、正太はそば屋に向かって走った。
 お店はひっそりとしており、人気がない。正太は、今日はお休みかなとちょっとがっかりした。その時、引き戸に墨で文字が書いてある白い紙が貼ってあるのに気づいた。
 正太の漢字読解力でも十分に理解できる内容だった。
 「しばらく、お店を休ませてもらいます」とあり、その後に「おばあのそばが大好きな正ちゃん、おばあが元気になったらまた食べにきておくれ」と。
 正太は、追いかけてきた母親に、おばさん具合が悪いみたい、と告げた。
 母親は、お歳もお歳だし、あんまり無理できないのかもしれないね。でもまた元気になったら食べにくればいいでしょう、それまでたのしみにしていなさい、といって、即済寺の門に向かった。
 「おばさんはいくつなの」
 大きな石段を登りながら、正太は母親の背中に向かって叫んだ。
 「もう、90歳になるでしょう。正太のおじいさんとあまり変わらないから」
 母親が即済寺の住職に、持参した土産を届けながら挨拶をしている間、正太は広い庭で、一人で待っていた。
 庭の端までいくと、植え込みの間からそば屋が見えた。人が誰もいないその建物は、おばあさんと同じように、歳を取っているように思えた。
 この前、墓参りに来たのは、3月だった。
 その時に、夏休みには必ず来ますと、正太はおばあさんに約束していた。
 約束を守れなかったことを、おばあさんはわびていたのだ。
 
 その日に、母親が即済寺の住職からそば屋のおばあさんの具合について確かめていた。
 そのことを聞いたのはもっと後のことだった。
 その年の暮れに、おばあさんが亡くなったことを母親から知らされた。
 夏休みに墓参りに行ったときにはすでに、もう商売できる状態ではなかったらしい。
 その後も、正太は、おばあさんのそばの味を忘れることはなかった。
 即済寺の門前そば屋は、中学生になって、墓参りに行ったとき、すでに取り壊されていて、小さな三角の空き地が残っているだけだった。
 
 


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