井戸さらえ

大願寺前の坂道

 8月のお盆の日曜日というのに朝早くから、大願寺前の坂道に町内の人が大勢繰り出していた。

 大人たちに混じって子どもたちも、なにをするでもなくあたりをうろうろしている。

 正太は、同級生のかっちゃんの父親である、おけやおじさんの脇に立って大人たちの話に聞き耳を立ている。

 かっちゃんの父親は、家業のおけ屋を営んでいたが、仕事をするのは週に二日ほどで、普段は電車で20分ほどのところの町にある、アメリカ駐留軍の基地で働いていた。上下ともカーキ色の服を着て、頭には同じ色の帽子をかぶっている。

 仕事に出かけるときと同じ服装で近所の人と熱心に話し込んでいる。

 「今年は、ことのほか梅雨が長かったから、水の汚れはどうなのか」とか、「水の量がいつもの年よりも多いようなので、かい出すのに時間がいるな」とか「そろそろ神主さんもくるころだろう」とか、立ち話が続いていた。

 「正チャン、井戸さらえみるの初めてか?」

 といつの間にかそばにきていたかっちゃんが、正太に聞く。

 「井戸さらえってなに?」

 「そうか、正太のうちは水道だから知らないか」

と、かっちゃんの父親が、大きな口から真っ白い大きな歯をのぞかせながら言った。

 「井戸さらえというのは、井戸の大掃除のことだ」

 「井戸の大掃除ですか」正太はびっくりして思わず聞き返す。

 「豆腐屋の裏に、大きな井戸があるだろう。あの井戸の水をこれから、みんなできれいにするんだ」とかっちゃんが説明が続く。

 「もうすぐ始まるから、子どもたちも手伝ってくれ」

 「そうだ、夏休みで遊んでばかりじゃだめだ。たまには大人たちの手伝いもしろ」と、大人たちが笑いながら子どもたちに声をかける。

 「手伝ってくれた子どもにはお駄賃あげるぞ」

 井戸さらえとお駄賃、こんな魅力的な組み合わせはない。

 正太はいの一番に手をあげた。

 「よし、正太には桶で井戸からくみ出した水を運んでもらおう」

 子どもたちは、正太に続いて次々に手をあげる。

 町内のほかのおじさんたちは、地下足袋を履き、パッチ姿で頭にははちまきをきりりと締めて勇ましい。

 女たちは、女たちでみんな白い割烹着を身につけ、頭には手ぬぐいはかぶっている。

 ざわざわとしたにぎわいが、かっちゃんの父親の大きな声でしんと静まる。

 「今日の手順について説明しておきます。井戸の中にはわしとケンジロウさんが入ります」

 ケンジロウさんと呼ばれたおじさんが一歩前に出て、軽く頭を下げる。豆腐屋のおじさんの名前がケンジロウさんあることを正太は初めて知った。

 「神主さんは、もうすぐおいでなると思いますが、お祓いが済み次第、すぐに作業にとりかかります。まあ、いつもの通りなら、お昼頃には水の汲み上げた終わって、昼飯の後、掃除して小石を敷き終わるのが、3時頃でしょう。くれぐれも事故を起こさないように、慎重にやりましょう。それではお願いします」

 かっちゃんのおじさんの言葉に、回りのおじさんおばさんが「お願いします」と声を合わせた。 


長屋の人々

 大願寺の坂に沿うように二軒の長屋があり、坂道に面した一軒には豆腐屋と八百屋そして桶屋などお店が入ってる。もう一軒はその裏に平行するように建っている。間に通路があり、真ん中の広場にその井戸があった。4本柱に支えられたどっしりとした屋根がつけられていて、天井の梁につけられた滑車から太いロープが下がっていてる。井戸の周囲は黒光りする石が敷き詰められていた。

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 子どもたちの遊び場にもなっていたが、長屋二軒の生活を支える井戸でなので、子どもたちが井戸にいたずらしないように、大人たちが常々口やかましく注意していた。

 正太は、豆腐屋のおばさんから、うちの豆腐がおいしいのは、この井戸水のおかげと聞かされていたので、井戸がとても大事なものであることは、よくわかっていた。

 大きな井戸で、上からのぞくと自分の顔が底の水面にうつり、大きな声で叫ぶと、こだまするように響く。

 長屋に人たちは、大人も子どもの井戸の回りをいつもきれいにしていた。

 その井戸に今日は、注連縄が張られまるでお祭りの準備をしているようだった。

 神主さんのお祓いが終わると、かっちゃんのおじさんとケンジロウさんが、家に帰り、しばらくすると、真っ白いふんどし締め、頭には鉢巻をして戻ってきた。

 二人とも、がっしりとした体格で、ふんどし姿が勇ましく、正太はこれからなにかすごいことが始まるなという、期待で頭も心臓も否応なしに膨らんだ。

 ほかのおじさんやおばさんは、手に手にバケツや桶を持っている井戸の回りを取り囲んでいる。

 かっちゃんのおじさんとケンジロウが、井戸におろした木製のはしごで井戸の底におりる。

 先に入ったかっちゃんのおじさんは、小さなろうそくをもっている。

 「ろうそくで、井戸の底にガスがたまっていないかどうか確かめるんだ」正太の耳元でかっちゃんが囁くように話す。

 「井戸の底のガスを吸うと父ちゃんが死んじまうからな」こともなげにいうかっちゃんの言葉に正太は、ぶるっと身震いする。

 そしてかっちゃんは大人の世界の事を何でも知っているんだと、感心した。

 「ウオー冷たくて気持ちいいぞ」井戸の底から響いてくるかっちゃんのおじさんの声を合図に、いっせいに井戸の中にひもでつられたバケツがおろされる。

 そして、水を一杯にしたバケツがつぎつぎに引き上げれてきた。

 バケツの水は、子どもたちがもっている小さめのバケツに入れ替えられ、そのバケツを子どもたちは、よっこらしょっと持ち上げ、電車の線路脇にある石を敷き詰めた下水道まで運び流し込んでいく。

 井戸の水は冷たい。飲みたくなるほどきれいだが、今日は飲んではいけないとあらかじめ注意さていた。

 汲めどもつきないほど、バケツは何度も何度もおろされ、正太たち子どもは、一生懸命手伝いをする。終わればお駄賃が待っている。今日は、川遊びも満願寺の庭での野球もまったく関心がない。

 豆腐屋は、大願寺の坂に面して玄関があり、店は裏側にあった。一日中、陽がさすことのない、狭い路地に面してお店がある。正太は母親から、どんなまちでも一番早起きは豆腐屋さんだとつねづね聞かされていた。

 兄が学校の友達とキャンプなどにいくとき、万が一夜中に困ったことがあったら豆腐屋さんに助を求めなさいとよく言っていた。

 だから豆腐屋のおばさんはいつも眠そうな顔しているのかと、正太はおつかいで豆腐を買いに行ったときに、本人に面と向かって言ったことがあり、あとで母親から大きなげんこつをもらった。

 井戸の中から次々に水が汲み上げられてくる。その水を子どもたちのバケツに移しかえる。子どもたちは重いバケツをそれでも、必死になって電車の線路脇の水路に流す。

 最初の頃の水は濁りがあったが、繰り返すうちにだんだん澄んできた。運ぶときに手足にかかる井戸水は冷たくて気持ちがいい。はしゃぎながらも子どもたちは、大人の仕事を手伝うということに、大きなよろこびを感じていた。

 正太もその一人だった。

 長屋のおじさんもおばさんも子どもたちも、みんな心一つにして、井戸をさらう。正太は、長屋に住んでいる人たちがまるで一つの家族のような気がしていた。

 「かっちゃんは、こんな大きな家族がいて幸せだね」と正太。

 「ああ、正太だってこうしていっしょに手伝っているから家族と同じだ」とかっちゃんが大きな声で答える。

 「そうだ。正太も長屋のみんなのために、手伝ってくれているのだから、家族と同じようなもんだ」

 その声に、ほかの大人たちも笑顔でこたえている。

 予定通り3時頃には井戸さらえは無事に終わった。正太たちこどもはお駄賃にお菓子などをもらった。だが、正太にとっては、あの大きな長屋の家族になれたということが最高のお駄賃だった。そして、その日の絵日記に、井戸さらえする長屋の大人たちと子どもたちをことをしっかりと書き残した。

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