正太のお父さん その3

女優 北原三枝

 正太は、子ども部屋でマンガ雑誌を読んでいた。

 茶の間では、夕食の後かたづけも終わって、正太以外の家族が、ラジオ放送を聞いている。

 ときどき笑い声が聞こえるので、落語でも聞いているのだろう。

 正太は、父親が買ってきてくれた雑誌「少年」に釘付けになっている。

 月に一回の楽しみで、この雑誌で一ヶ月は楽しまなければならない。

 全部読んでしまいたいけれど、そうすると楽しみがすぐ終わってしまう。

 でも、楽しいことはすぐにでも楽しみたい、それがいまの正太の悩みだった。

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 雑誌「少年」にはマンガ以外にも付録やプレゼントのついたクイズなどが、盛りだくさんだったけれど、クイズに応募するにははがき代もかかるし、母親にそれをねだっても、「どうせ当たらないからムダ、ムダ」という小さい方の姉の憎々しい言い方が頭に浮かんで、とたんに気持ちが萎えてしまう。

 「やってみなければわからないだろう」と正太が言い返しても、「いままで一回だって当たったことないでしょう」とやり返されて、それで一巻の終わりだった。

 なにやら、茶の間の方で、一段と大きな声があがったので何事かと正太は、子ども部屋を飛び出し、台所を抜けて茶の間の障子を開けた。

 「どうしたの?」正太は一段高くなっている茶の間に上がり込んで、ちゃぶ台の周りに集まっている家族の輪に加わった。

 ちゃぶ台の上に一枚の写真があった。

 正太は目を凝らして写真を見る。

 「あっ、お父さんだ」

 正太は最初に父親に気づいた。

 その次に、父親の左となりにいる女性に気づいた。

 女性は、前髪がくるっと巻いていて、服装はがま口先生のような襟のある上着で、スカート姿だった。スカートから伸びる二本の足は細く長く斜めになっていて、足先には黒っぽい靴を履いている。白黒写真だから色はわからない。

 でも、色白のその女性は、目がきらきらとしており、日本人なのに日本人ではないような、正太にとってはじめて見る美しい女性だった。

 「お父さんの隣に座っているこの女の人はだれ?」

 正太の声はうわずっている。

 「北原三枝という女優さん」

 北原三枝という女優さんの顔をあらためて見たとき、「ノンちゃん雲に乗る」鰐淵晴子より、「紅孔雀」の高千穂ひづるより、角衛獅子の美空ひばりより、お姫様女優の千原しのぶより、誰よりも美しいとおもった。

 正太の美しい女性の基準がいっきに崩壊してしまった。

 顔立ちはまるで外人のようで、特におでこでくるっと巻いている髪の毛がとてもおしゃれだった。

 「正太、正太どうしたの、目が開いたままよ。大丈夫?気を失っているんじゃないの。まったく、きれいな女優さんをみたぐらいで、いちいち驚かないの」

 小さい方の姉が、いつものように正太の気持ちに、めざとく気づいてからかう。

 「だって、ボク、こんなきれいな人見たことないもの」

 「バカだね。お姉ちゃんだってきれいでしょ。正太の大好きなお母さんだってきれいじゃない。女優さんなんて、夢の夢の存在、どんなにきれいでもスターは遠い存在だから意味があるの、わかった?」

 わからない、どんなにいわれてもわからない。

 正太は、父親の隣に座っている女優に目を奪われ、上の空になっていた。

 「お父さん、正太にあまり見せると、夜眠れなくなるといけないから早くしまって」

 母親までが笑いながら、写真を父親に返す。

 

 お父さんが映画に出た?

 「お父さん、なんで女優さんといっしょにいるの?」

 正太は、のどがからからに渇いている。

 こんなきれい女の人といっしょに写真に写っていることが、正太にとっては天にも昇るような気持ちだった。

 「お父さん映画にでたの?」

 「ほら、お父さん早く説明しておかないと、明日には町中で、お父さんが映画に出たことになってしまうから」

 大きい姉が、笑いながら父親をうながす。

 「正太、この前お父さんの勤める会社にきただろう。あのとき、会社の入り口をみてどう思った」

 「かっこいいと思った。ガラス張りで、なんていうかものすごくモダンな感じがした」

 「えっ、正太、モダンなんて言葉知ってるの?」

 「だって、マンガで読んだもん」

 「ふーん、どういう意味か知っているの?」

 「そんなの、モダンはモダンでしょ」

 「お姉ちゃんもいじわるしないの。そうお父さんの会社の入り口はモダンだったね」

 母親が助け船をだす。

 「映画会社から、お父さんの会社の入り口を撮影に使わせてほしいってお願いがあったんだって」

 兄が説明する。

 「撮影の日は、役者さんや監督やカメラマンなど、30人ほどの人がきて、大変だった。入り口付近での撮影がほとんどだったけれど、町を歩く人が立ち止まって見ているので、その整理で大騒ぎになって、やはりきれいな女優さんは人気がすごかった」

 「お父さん、えーと北原三枝って本物はどんなだった?」

 「どんなって、うーんきれいな人だったよ」

 「お話ししたの?」

 「ああ、この記念写真を撮ったときに言葉をかわしたかな」

 「どんな声してた、きれいな声してた?」

 「どうだったかな、なにしろ緊張してたから」

 「お父さん、女優さんの隣にいるちょっと口が曲がった人は誰?」

  正太は、写真を指さしながら聞く。

 「これは監督の川島雄三さんという人だ。すごく有名な監督だそうだ」

 「監督の隣はだれ?」

 「それは、お父さんの会社の支店長さんです」と母親。

 「そうか、この後ろにいる、かっこいい人は?」

 「それは、三橋達也」と小さい方の姉が得意そうにいう。

 「お姉ちゃんは、二枚目に詳しいね」

 「生意気言わないの。三橋達也はいますごい人気なんだから。子どもの映画ばかり見ている正太には、縁がないでしょ」

 その映画の題名は、「愛のお荷物」だった。

 正太が、その映画を観ることはなかった。

 その日の夜、正太は北原三枝の顔を思い浮かべて、あんなにきれいな人が、この世の中にいることを不思議に思いつつぐっすりと眠った。

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