怖い夢
医者いらず
正太はよく夢を見る。
たいがいの夢は目が覚めるとほとんど覚えていないけれど、怖い夢だけは不思議なことに、目が覚めて忘れることはなかった。
怖い夢。それは決まって正太が熱を出したときに見る夢だった。
正太が熱を出すことは滅多になかった。
一年中短いズボンをはいていて、母親に言われなければいつも素足でズック靴をはき、真冬でもそれは変わりない。およそ病気にかかったことがなく、「正ちゃんは医者いらずだから、薬屋さん泣かせだね」と父親が製薬会社に勤めていることを知っている近所のおばさんからよく言われた。
だから、正太が熱でも出そうものなら、普段が普段だからかえって、まわりが慌てた。
「鬼のかくらんだ」などと、兄や姉は決まってそういったものだ。
その鬼は、寝ていなさいと母親にいわれても、布団の中で半日もじっとしていられず、何回も体温計をわきの下に挟んで計り、ちょっとでも体温が下がっていると、すぐにでも外に出たがるので、母親は目を離せない。
一度など、外で遊んでいてふらふらになり、さすがに途中で家に帰ったものの、母親がおでこに手をおいたら、火のように熱い。すわ大変と、大願寺下の広場の先にあるかかりつけの医院にいって、体温を計ったら40度近くあった。「正太、このままじゃ肺炎になってしなうぞ」と医者からきつく言われた。
「ハイエン?」、初めて聞く言葉は、正太にとって熱以上に興味があった。
「ハイエンってなんですか」
正太の質問が始まった。
先生も子どもいえども患者からの質問だから、きちんと答えないといけない、と説明を始めた。
「正太くん、肺はどんな役割があるか知っている?」
「はい、呼吸するためにあります」
「うん、そうだね。その肺が炎症をおこしたら」
「先生、エンショウってなんですか」
「そうか、炎症という言葉は難しいか。そうだね、 炎症というのは、肺が傷ついてしまうことだ」
「肺が傷つくのですか」
「そう。その傷がひどくなると息をすることができなくってしまいます」
「じゃあ、死んじゃうじゃない」
「だから、傷をなおすために薬を飲んで静かに寝ていなければなりません」
「キズしたら、赤チンを塗るでしょう。肺の中にも赤チン塗るのですか?」
先生は、ちょっと考えた、正太の質問はどこまで続くのか?診察室の外ではまだ、ほかの患者も待っている。
「赤チンを塗るかわりに、薬を飲みます」
「ふーん、そうか。その薬が溶けて肺のキズをなおしてくれるんだね」
突然、正太は友達に話すような口調になった。
「そう、だから薬を飲んで安静にしていること」
「先生、アンセイってなんですか」
「静かに寝ていること」
先生の口調がちょっと強くなる。
「ずっとですか?」
「熱が下がるまでは、静かにしていること。こじらせると、それこそ大変なことになるから、お大事に」
「先生こじらせるってなんですか」
「先生の言うことを聞かないで、外で遊んだりしていまよりももっと症状、症状というのは病気の具合、具合というのは、調子が、えーと」
「そうか、病気がもっと悪くなることですか?」
「その通り、今日はご飯をしっかり食べて、栄養をつけて、薬を飲んで暖かくしてしっかり寝ること。わかりましたか」
薬をもらって、正太はふらふらしながら、家まで帰った。
「先生は、ハイエンになるかもしれないから、栄養をつけて薬を飲んで、暖かくして寝ていないさいって」
母親からどうだったと聞かれて、正太はそう答える。
「肺炎になったら大変、はやく寝間着に着替えてお布団に入りなさい。おとなしくしていなければいけませんよ」
「おかあさん。ご飯を食べて、薬を飲んでからアンセイにしていなさいって言われたから、まだお布団には入れないよ」
「わかっています。でも、正太はじっとしていられないから、とにかくお布団に入っていなさい。ご飯ができたら起こしてあげるから」
正太は、父母が寝る和室に敷かれた布団に潜り込んだ。
その前に熱を計ったが、変わらず40度近くある。
怖い夢
正太は熱があって、眠くなってもそのまま眠ってしまうのがいやだった。また、きっとあの怖い夢を見る、そう思うからだった。
この前、その怖い夢を見たのはいつのことだったか、もうずっと前のことのようで覚えていない。
正太のが通う小学校の校舎は、三段に分かれていることは前にも書いた。
一段目には大正時代の洋館風校舎、真ん中の二段目の旧校舎に職員室や講堂があり、新校舎は30メートルほど下がった東側にある。新校舎の一階は一年生が入り、二階は6年生が入る。運動会などを行う校庭は、この新校舎の西側に広がっている。
旧校舎にも狭い校庭があって、その校庭と下の校庭は、Y字型の幅広いゆるやかな石段でつながっている。
Y字の股のところからは垂直に上に延びており、その上に立って下を見ると、ずいぶんと落差があり、先生からも、そのあたりで遊ばないようにと注意されていた。
正太が熱を出したときに決まってみる夢、それはこの石段のいちばん上から、まるでムササビのように両手を広げて、下の校庭に向かって飛び出す夢だった。
時には、なぜか手にしている番傘を広げて飛ぶこともあった。
さいしょは何にも怖くなく、むしろ気持ちよく滑空する。ぐんぐんと下の校庭がせまってくる。するとどういうわけか、うまくコントロールできなくなって、急降下し始める。番傘の時には、ふわりと空中に浮かび、ゆらゆらと下りていくのだが、とつぜん傘がお猪口になって、やはり一気に落ちていくのだ。
わっ、地面にぶつかるというその瞬間に目が覚める。
目が覚める瞬間に、いつも大きな声をあげるので、そばにいる姉や兄が「どうしたの?」と声をかけて揺り動かしておこしてくれた。
母親は手慣れていて、うなされて目が覚めると、乾いたタオルと着替え用の寝間着をもってくる。
正太は、いま見た夢の怖さか逃れようと、必死になって母親にしがみついた。
「ほら、汗びっしょり。これで熱が下がったでしょ」
母親は、汗で冷たくなった寝間着を脱がせ、乾いたタオルで汗を拭うと、新しい寝間着の着替えさせてくれる。
正太は、ああ、と小さくため息をつき、さっぱりとして気分になって、それからは二度と怖い夢を見ることなく朝までぐっすりと眠ることができた。
怖い夢をみるのが怖いからと、いくらがんばって目を開けていようと思っても、瞼は自然に下りてくる。
その夜正太は、同じように石段のてっぺんから滑空する夢をみた。
そして翌朝は、もう学校へ元気に飛び出していった。
お昼過ぎ、大願寺下の広場の医者が、さすがの正太も今日ばかりはおとなしく布団に寝ているだろうと往診にきたが、お茶を一杯だけ飲んで帰っていった。
2010年11月30日 08:05