昨日につづく今日

5年生の春

 小学校の5年生になって、正太にとって上の学年はいよいよ最上級生の6年生だけになった。

 クラス替えもあり、担任の先生は二枚目の若い男先生から、オールバックのお父さん先生になった。

 その先生は正太の兄が小学校5年生、6年生のときにも教わった。理由は、わからなかったけれど、その先生が担任になったことを正太の母親はたいそう喜んでいた。

 そして、学校生活は大きく変わり始めた。

 4年生のときは、上級生とはいえまだ上級生見習いという感じで、万事、お兄さん、お姉さんである5年生、6年生のいうことに従わなければならなかったが、いまは、4年生の相談に乗ったり、あれこれと指図する立場になった。学校行事の話し合いなども、6年生といっしょに考えたり、役割分担して責任のある仕事にもつかなければならなくなった。

 5年生になって、正太はクラス委員長に選ばれた。クラス全員が参加して選挙で選ぶ。正太は立候補して、みんなの投票で選ばれた。委員長になると、クラスを代表して、ほかのクラスやほかの学年の委員長と学校のことを話し合ったり、運動会や学芸会など学校行事で役割を分担を決めたりとそれなりに忙しくなる。

 気ままに学校に行っていたときと比べて、結構、面倒なことだなとは思ったけれど、近所のおばさんたちがお兄さん、お姉さんの言うことを聞きなさいと自分の子どもに言い聞かせているのを耳にすると、責任ある立場になった緊張感は、それなりに気持ちいいことだった。

 

二十四の瞳

 たしかに忙しくなったけれど、いいこともある。その一つが学校の授業で映画を見に行く機会が増えたことだった。やっぱり上級生になるといろいろといいことがあるなと、映画大好き少年である正太は単純にうれしかった。

 「今日は、みんなが楽しみにしていた映画教室の日です。その映画は」といいながら、お父さん先生が一段高い教壇に立って、黒板に白いチョークで力強く、「二十四の瞳」と縦に書いた。

  ワーと、教室から声があがる。隣の教室からもやっぱり同じように、歓声が聞こえてくる。

 自分が映画を観に行くときのように、両親に必死にお願いしたり、職員室の外にぶら下げられている「見てよい」「見てはだめ」の看板を確かめに行く必要もなく、勉強時間に映画を見られるなんて、これほどの喜びはない。

  できることなら、チャンバラ映画のほうがいいのだけれど、

 映画鑑賞は映画館が教室になる。  

 つまり映画とはいえ勉強するために観るのだから、チャンバラ映画というわかにはいかないのは、正太にだって分かっている。

 朝9時から始まると言うことで、正太たちは教室から列を組んで映画館に向かう。校庭の西側の門を出て、線路をまたぐ跨線橋をわたった左にその映画館ある。

 この映画館では、東映や大映のような派手なチャンバラ映画をかけることが少なかったので、正太はあまり入ったことがなかった。映画教室というとなぜか決まってここだった。

 そして映画教室で観る映画は、始まりの画面に決まって「文部省選定」などという文字が映し出される。

 昔は芝居小屋だったのではと思えるような外観で、館内も、まちの中にあと二軒ある映画館と比べると、雰囲気がだいぶちがう。

  一階はふつうの造りだったけれど、二階はスクリーンに向かって、観客席がコの字型に左右にせり出して延びている。その席から映画を観ると目の前に画面が迫ってきて観にくいったらなかった。

 「昔は芝居もやっていたから、ああいう席があったんだろう」と、正太たちは、根拠はなかったが、勝手に想像していた。

  5年生全員300人が席に着くとほぼ満員になる。

 誰もが映画への期待で興奮しているので、ざわざわと声にならない声が館内全体にあふれている。


 スクリーン前の舞台に校長先生があがる。

 「みんな静かにしなさい」

 校長先生の低いけれど野太い声が響くと、館内はシーンと嘘のように静まる。

 「今日は、本で読んだ人もおると思うが、壷井栄という人が書いた、二十四の瞳という映画を鑑賞します。ちょっと長い映画だけれど、とても大切なことを教えてくれる物語だから、しっかりと観て、そして後で感想文を書いてもらいます」

 感想文の書いてもらいますのところで、一斉に「エーっ」といくつものため息ともつかない歓声があがった。

 「エーっ、とは何事か。映画鑑賞というのは遊びではありません。学校で勉強するのと同じです。感想文を書くためにも最後まで静かに、しっかりと映画を観てください。途中でお便所に行きたくなると困るから、始まる前にちゃんと行っておくように。私からの話はこれで終わります」

 クラスごとに席に着いているので、担任の先生が「お便所に行く人はいますか?我慢しないでいいなさい」と声をかける。

 何人かの生徒が手をあげて、もそもそと立ち上がり、通路にでてお便所に向かう。

 正太は、そんなこともあろうかと学校ですませてきた。


おなご先生

 開始ブザーの低い音が鳴り、舞台の奥に下がっていたビロードの幕が左右に開き、同時に館内の電灯が消える。

 生徒は、期待に胸をふくらませて、誰一人声を立てるものはいない。

 やがて、スクリーンに一条の光が射し、暗かった館内に、スクリーンの映像が浮かび上がる。

 いつもながら、正太がいちばん好きな瞬間だった。

 白黒の画面に、二十四の瞳という文字がくっきりと読める。

 映画は、瀬戸内海の小豆島の小学校に赴任したおなご先生とよばれる女先生と12人の小学生の物語だ。校長先生の話にも出たように、小学生は学校図書館で、奪い合うようにして、壷井栄の原作を読んでいた。 だから、5年生で物語を知らない生徒は、ほとんどいないはずだった。

 時代は、日本があの悲惨な戦争に突入したころで、中国大陸からやがて太平洋に戦火が拡大し、小学生だった12人の子どもたちも、成長して戦争にまきこまれていく。

男子生徒は、戦地にかり出され、白い箱となって帰ってくる。


 戦争が終わり、平和な時代になりおなご先生と生徒たちが、同窓会を開くのだが、12人の生徒は、7人になっていた。


 昨日につづく今日であった。

 映画が始まってちょうど半分ほどたった。出征兵士を送る長い長い列が小豆島の細い道を進む。いよいよ戦争が激しさを増し、この小さな島でも男たちが戦場にかり出されていくのだ。

 その長い長い人の列を、鳥の目でみたような高い位置からゆっくりと撮している。遠くに瀬戸内海が太陽の光に白く輝いている。「海の色も 山の姿も 昨日につづく今日であった」。という文字が、その画面に少しずつ映し出されていく。

 正太は、「昨日につづく今日」という言葉の意味を必死になって考えた。こうして島の人たちは戦場に行かなければならない。

 でも静かな小豆島は、昨日につづく今日のように、なんにも変わることがない。

 おなご先生を、浜辺につくった落とし穴に落として、足にけがをさせた児童たちが、見舞いに行くために島の反対側まで歩いていくシーン。

 食べるものがなくて、柿をとろうとして誤って木から落ちたおなご先生の子どもが亡くなってしまうシーン。

 戦争なんかなければいい、と怒るおなご先生が「アカ」だと世間から冷たく見られるシーン。

 平和になってひらかれた同窓会で、戦争で目が見えなくなった教え子が、小学生時代の写真を手でなぞりながら、ひとりひとりの同級生に名前を読み上げるシーン。

 どのシーンも正太は、涙なしではみられなかったが、いちばん印象に残ったのは、「昨日につづく今日」という言葉だった。

 学校に戻ってからの感想文に、正太は迷わず「昨日につづく今日」という題をつけた。

 戦争があり、多くの人が亡くなり、家族もバラバラになり、おなご先生と12人の小学生の人生も大きく変わったけれど、小豆島の海も山は、いままでもそしてこれからもずっと変わる事がない。

 昨日から今日へそして明日へとずっとずっと続いていく。

 正太は、そんな思いを込めて感想文を書き綴った。













 










   


 














コメントの投稿

トラックバック

トラックバックURL: http://1c.3coco.info/mt-tb.cgi/462