正太の名前
正太が、自分の本当の名前が正大であると知ったのは、小学校4年生のときだった。授業で、苗字や名前の由来について調べるという課題が与えられた。その場で、出自や名前の由来を答えられる生徒もいたが、大半は確証がなく、宿題ということになった。
帰宅した正太は、さっそく母親に自分の名前の由来について訊いたところ、母親は、ちょっと待っていなさいといって、和室の箪笥の小抽斗から一冊の古びたノートを持ってきた。
初めて目にするものだった。
母親は、和室のちゃぶ台にノートを開くと、正太に座るように命じた。ノートには、漢字とカタカナが入り混じった、太くゴリゴリした青インクのペン文字が記されている。
「正太の本当の名前は、正太ではなく正大と書きます。ですからあなたが生まれたときにつけた名前は、正大と書いて『まさひろ』でした」
正太は母親が話していることが、すぐには飲み込めなかった。
それを察したように、母親が話を続けた。
「このノートのところにちゃんと書いてあるでしょう」
指差されたところを読もうと思ったが、青いインキで書かれた漢字とカタカナの文章を正太にはむずかしくて読めない。小学校で習ったこともない漢字で書き連ねられていて、カタカナは読めないことはないが、それだけでは意味をくみ取れなかった。
「これは、正太のおじいさんが書いたあなたの成長の記録です」
母親は、開いていたノートを閉じ、表紙を示す。
「正大の成長記録」、表紙の文字を母親が読む。文字は黒々とした墨で書かれている。正大の二文字が男らしく太く、誇らしげだった。
「ボクが生まれたときの記録って、あのおじいちゃんが書いてくれたの?」
正太は、仏壇に飾ってある小さな写真を指差した。
「そうよ、お母さんのお父さん。正太が2歳のときに亡くなったことは知っているでしょう」
「小さかったから知らない」
「でも、前に話したでしょう」
それなら知っている。この写真の人は誰って聞いたときに、あなたのおじいさんで、小さいときにかわいがってくれた、と母親が話してくれた。
「そのおじいさんが、正太が生まれたときに、成長の記録を作っておこうといって、書き残してくれたのがこのノートです。ここを見てご覧なさい。お母さんが読んであげるからよく聞いていなさい」
成長の記録
正太は、なぜが神妙な気持ちになって、母親の次の言葉を待った。
「昭和18年7月25日、午前1時54分、正大誕生。
体重940匁目、母子共に健康。
昭和18年7月30日、父親が区役所に出生の届けを提出する。
その際に、正大と届けるも後に調べたところ、大に点がついて、正太となっていることが判明した。窓口の能吏が、届けた書類についていた汚れを点と見間違ったものと思われる。訂正を求めるべきかどうか、父母と話したが、能吏の手を煩わせるには忍びないと、そのままでよしとする。母親は、そのままでも良いが、呼び名を『まさひろ』とすると主張する。父親もそれでよしとする」
正太には、何を言っているのか意味が飲み込めない。理解することは容易にできなかったし、納得もできなかった。自分の本名は、正太でなく正大で、呼び名も『しょうた』ではなく『まさひろ』が正しいということになる。
「ボクの名前の由来は?」
正太は肝心な宿題の質問をした。
「お父さんとお母さんは、心、正しく、大きな男の子に育つようにと願って命名しました」
「でも」と、いいかけた正太を母親は制して「心、正しく、心、太い男の子になって欲しいという意味でいいじゃないの」
「でも」納得できない正太は粘った。
「細かいことにこだわる男の子は、大きな人になれません」ときっぱり。
「宿題にはどう答えればいいの?」
「心、正しく、心、太くで、いいじゃない。それじゃ不満?」
不満とか満足とか、おやつの量が少ないとかそういう問題じゃない。だって、大の真ん中の点は、届出用紙の汚れっておじいさんはいっているじゃないか、そんなの先生にもクラスのみんなにもいえない。正太はなおも粘った。自分の名前が、届出用紙の汚れで変わってしまったことが、どうしても承服できなかった。
永遠の秘密
「正太という名前に不満があるの?いい名前でしょう。もし、大の右の上に点があったら、犬になっていたのよ。それを思えば、下の方に点があったからよかったでしょう。お母さんも最初は、正大のほうがいいと思ったけれど、今になってみれば、正太のほうが男の子らしいし、点があるのでどっしりと落ち着いているから、いまの正太にはぴったりだと思う」
10年も付き合っていれば、正太でも正大でもどっちだって慣れてしまうに決まっている。母親はそれでいいかもしれないが、正太が言いたいのはそういうことではなかった。名前って最初にこうつけようと思ったら、それを一生変えないものなのではないか。この間、小学校の映画鑑賞会で観た、「路傍の石」という映画でも、主人公の吾一が、自分の名前の大切さを諭されるところが強く印象に残っている。
それなのに、自分の名前は付けられて5日も経たないうちに、届出用紙の汚れのために、変わってしまったことになる。
なお不満そうに、ほっぺたを膨らませる正太に母親は、「今晩お父さんと相談しなさい」とだけいってさっさと成長記録のノートを閉じて、元の小抽斗しに戻してしまった。
その日の夜、正太の父の帰りは遅かった。
布団に入ってからも正太は聞き耳を立てて父親の帰りを待ったが、いつ間にか寝てしまった。翌朝起きたときには、父親はすでに出勤しており、正太はそのまま、相談することを忘れてしまった。というよりは、宿題を発表したときに、思わぬことがあって、正太は自分の名前について、納得がいったのである。
「昨日の宿題は、みんなやってきましたか。自分の名前がどうしてつけられたか、お父さん、お母さんに聞いてきた人は、発表しましょう」
正太はいのいちばんに手を上げた。
「はいっ、元気のいい正太くんから発表してもらいましょう」
指された正太は、「僕の名前の正太は、心、正しく。心、太い男の子になるように、つけたそうです」とだけ、答えた。
「そうか、先生も正太くんの名前はとてもいいと思います。心が太いというは、どっしりとして、困難なことがあっても、あわてることなく、しっかりとそれに立ち向かっていくという勇気を感じます。正太くんは、友達も大事にしているし、思いやりもある。お父さん、お母さんが心を込めて付けてくださった名前を大事にして、これからもみんなと仲良くしてください」
先生は、他の生徒の名前も、正太と同じように、それぞれに言葉の意味をくみとって、ほめたり、励ましたりしていた。正太は、先生の言葉がとてもうれしかった。正太という名前はもともと嫌いではなかったが、この日を境にいっそう好きになった。
だから、太の点が届出用紙の汚れであるとは、自分だけの秘密にして、生涯、口が裂けても言うつもりはなかった。
2009年5月26日 19:24
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