赤い犬

ぞろぞろの列

 朝鮮戦争が終わった昭和28年、正太は10歳になった。正太にとって、朝鮮戦争によって日本や世界の何がどう変わったのか、むずかしいことは、皆目分からなかったが、なにやらその前の戦争の暗い影が、消えて明るくなったように思えた。

 マッカーサーとかリッジウエイとか、親の口にのぼる外国人の名前も、映画館で観たアボット、コステロやターザンのジョニーワイズミューラーとどこか違うのかさっぱり分からなかった。
 朝鮮戦争が終わった7月頃から、正太の家の回りでも変化がおきた。
 朝、小学校に行く時間なると、それまでは、学校へ向かう子どもたちだけだった家の前の細い道を、大勢の大人達がぞろぞろと、山の方角に向かって歩いていくようになったのだ。
 おじさんもいればおばさんもいる。みんな地下足袋を履き、おじさんはもものところが膨らんだズボン、おばさんは絣のもんぺ姿で、おじさんもおばさんも半袖のシャツに麦わら帽子をかぶり、肩から手ぬぐいを垂らしている。
 正太の家は、通っている小学校から約200メートルほどの所にある。
 家は父親のものだが、土地は近くのお寺の地所を借りていた。家の前には細い道が東西に走っていて、家の裏には切り立って崖があり、その上には竹藪が茂っていた。
 玄関を出て、石段を下り、左にしばらく歩くと緩い上り坂になる。正太達小学生は、その坂を登って学校に向かうのだが、ぞろぞろ歩きのおじさん、おばさんもいっしょだ。
 正太に限らず、小学生達は大人達の集団にまざったり、離れたりしながら、中にはおばさんとおしゃべりしながら、学校に向かう。

 正太が、このおじさん、おばさんの集団の行き先を知ったのは、学校に着いてからだった。
 大人達は、校門の手前を左に曲がって、そのまま山へ続く坂道を上がっていった。その先には、山を崩している工事現場がある。校長先生が、全校生徒を集めた朝礼で、小学校の裏山に当たるその地帯を切り開いて、平らにし公園をつくる計画があると説明をしていたことをそのとき思い出した。
 正太の小学校は、校舎が斜面に三段に分かれて三棟建てられている。いちばん上の校舎が一番古く、二段目、三段目と新しく建てられたものだった。いちばん古い校舎は、山の中腹に建てられたために階段が急で、迷路のように入り組んでいて、子どもたちの冒険気分をくすぐるには十分だったが、いかんせん立て付けが悪く、上下に開く窓は、閉まりっぱなし、開きっぱなしのものがある。
 その校舎の裏には、濃い緑のこんもりとした山がどっしりと構えており、件のおじさん、おばさん達はその山へと消えていくのだ。
 正太達にとって山はどこも遊び場だったが、学校から近いこともあってわざわざ山道を遠回りして裏山から自宅に帰ったりすることもしばしばだった。いつもの山道が公園になるというので、夏休みを控えて冒険心はいやが上にも盛り上がっていた。

 

にこよん
「あの人達は、ニコヨンの人たちだからあまり口をきくんじゃないよ」
 母親から釘をさされて、はて、正太は困った。
 あの人達というのは、ぞろぞろ歩きのおじさん、おばさんのことで、ニコヨンというのは、なんとなく親しくしてはならないことを正太の頭でも理解できた。しかし、ニコヨンという言葉はどうにもわからない。
「ニコヨンだと、どうして口をきいちゃいけないの」
 正太のなぜなぜがはじまる。母親は「そのうちわかるから」とだけ答えて、それ以上は教えてくれそうにない。おじさん、おばさんに聞いてみるのが早そうだが、それはしないほうがよさそうだというのは、正太の脳みそでも理解できた。兄や姉に聞いてもいいのだが、何か質問すると、バカにしたように話すのでそれも気分が悪い。
「ニコヨンって知ってるかい」

学校の帰りに、何気なく友達に言葉を投げかけてみた。
「ああ、知ってるよ。ヒヤトイのことだ」
「ヒヤトイってなに」
「そんなの知らないよ。ニコヨンはヒヤトイのこと。それが答えだもの」
 正太は、ニコヨンの意味を知りたかったのに、ヒヤトイという新たな疑問をまた抱えてしまった。ニコヨンよりももっと難しくなったような気がした。
 でも、正太には、まあいいかという納得回路があって、ニコヨンにヒヤトイという意味がすばやく刷り込まれることで、いつものように納得した。
 夏休みなっても、ぞろぞろ歩きは相変わらず続いた。ただ、梅雨の間は、ぞろぞろが止んだ。公園造りの工事は、雨が降ると休みになる。正太達も雨になると川や山に行けないし、何もすることがないと、決まって母親から夏休みの宿題をしなさいという強いお達しがある。
 雨の降る窓の外を眺めながら、正太はそれでも宿題にとりかかる。

 しかし、夏休みに降る雨は一日中ということはめったにない。
 ひとしきり降ると、さっと上がり、雲が切れて強い日差しがぬれた木々の葉をとおしてこぼれてくる。
 そうなると、正太はもういても立ってもいられなくなる。ところが、夕方も迫っていることから今更遊びにも出られないし、第一友達を誘っても遊ぶ時間も限られている。
 正太は、明日のために今日は宿題をして、なんとか母親の機嫌をとっておこうと、もぞもぞするお尻を木の椅子にしっかりとおしつける。

 

赤いイヌ

 明日は、きっと天気がいいことだろう、川がボクをまっている。
 雨が上がった翌日は、いつもの通りにニコヨンのおじさん、おばさんのぞろぞろが始まった。玄関からつづく石段の腰掛けていると、もう顔なじみになったおじさんやおばさんが、おはよう、あついね、こどもはげんきでいいね、などとてんでに声をかけて通り過ぎていく。
 と、そのとき正太の目がきらきらっと輝いた。
 なんと、おじさんの一人が。かわいらしい犬を連れていたのを見つけたのだ。
 その犬は全身を赤い毛でおおわれていて、まだやせており、目が大きく鼻の頭が黒かった。
 正太は思わず、石段から立ち上がりその犬の持ち主に声をかけた。
「おじさんの犬ですか」
 おじさんは立ち止まり、正太のために犬を前に押し出すようにした。
 やせっぽちの赤い犬は、糸のように細いしっぽを振りながら、正太の差し出した手をなめる。なま暖かい舌の感触は、味わったことのないぬくもりがあり、   犬と気持ちが通じた気がした。正太はそっと頭をなでる。犬はその手を追うように、口を上げてまたピンク色の舌を延ばしてくる。
 荒縄を輪にして犬の首に通して、縄の先をおじさんが握っている。
「犬の名前は、なんというのですか」正太は出来る限り丁寧な言葉遣いをした。
 犬の持ち主に、気に入ってもらいたい気持ちがあった。
「まだ、つけていない。名無しの権兵衛だ」
「じゃあおじさん、ボクが名前付けてもいいですか」
 とっさに口をついて出てしまった。
「ああ、いいよ。明日また、この道を通るからその時、名前つけてくれるかな」
 おじさんはそう言い残して、犬の縄をぐっと引くと、ぞろぞろ歩きの列に戻った。
 正太は、うれしくて、うれしくて、家族の誰彼かまわず赤い毛の犬の話をした。

 自分が名前を付けてあげることになったが、どんな名前がいいだろうかとか、大きくなったら自分が散歩に連れて行ったりすることが出来るだろうとか、このことは夏休みの日記に、どう書いたらいいだろうとか、その日一日は、川遊びのことも、友達のこともすっかり忘れて、犬の名前のことばかり考えていた。
 正太は、犬の名前を付けられることで、他人の犬なのに、まるで自分のもののように思えた。
 末っ子に生まれた正太は、弟が欲しかった。厳密にいうと、弟のような存在が欲しかった。だから、以前同級生の友達が犬を飼ったとき、ずいぶんと母親や父親にねだったものである。兄や姉にも賛成するように協力を呼びかけたけれど、芳しくなかった。
「誰が世話をするの。正太は自分でやると言っても、口ばっかりでしょう。去年の夏休みに、もらってきたクワガタは、どうなった。川にばっかり遊びに行って餌をちゃんとあげず、すぐに死なせてしまったのは誰ですか。クワガタも面倒見られない正太が、どうして犬の面倒をみられるの。犬がいれば、もっと勉強する気になるなんて、それならいい成績を取ってからいいなさい。第一、ウチには犬なんか飼える余裕はありません。正太おやつを減らしますか、犬を飼うことのできるのは、お金持ちの家なの、分かりましたか」
 母親の機関銃のような言葉に、いろいろと、犬を飼うための理屈を考えては、訴えたがことごとく跳ね返されてしまった。
 去年の夏のクワガタが、こんなところで響くとは思わなかった。
 正太は、諦めたわけではないけれど、ほとぼりが冷めるのを待つことにして、それ以来、犬の話は心の奥底にしまいこんできた。だが、他人の犬とはいえ、名前をつけることができるというだけで、天にも昇る心地に変わりはなかった。
 正太は、どんな名前をつけたいいものか、その日はずっと勉強机に向かい、ノートを広げて、思いついた名前を鉛筆で書いていく。
 ポチ、アカ、コロ、ハチ、チビ、思いつく名前はどれもどこかで聞いたことのあるものばかりだった。
 見た目が、赤い毛なので、アカがいいとは思ったけれど、やっぱり当たり前すぎる。
 この前見た映画で、片岡千恵蔵が演じた宮本武蔵が格好良かったから、武蔵はどうか、それとも鶴田浩二の演じた佐々木小次郎から、小次郎も悪くない。
 でも、犬に人の名前を付けてもいいものだろうか。犬には犬らしい名前が似合うと、考えると、また振り出しに戻ってしまう。
「おや、正太、今日はお天気もいいのに、宿題をしているのかい。えらいねぇ」 
 母親が、声をかけながら、ノートをのぞき込む。
 正太は急いでノートを閉じて、「見ないで」と母親をにらみながら、ふと心に浮かんだ聞きたいことを口にした。
「お母さん、ニコヨンの人ってお金持ちなの」
「なぜ、正太はそう思うの」
「だって、家の前を毎日通るおじさんが犬をかっているんだもの」
「犬飼っていると、お金持って誰が言っていた?」
「お母さんが自分で言ったよ。ボクが犬飼って欲しいってお願いしたときに、うちでは犬を飼うような余裕はありません。犬はお金持ちでなければ飼えません、って、ニコヨンの人ってヒヤトイでしょう。だからお金持ちなのかな。ねえ、お父さんよりもお金持ちなんでしょう」
「さあ、どうかしら。まあ、ともかく宿題をしっかり終わらせなさい」
 母親は、正太の質問をはぐらかすように、洗濯物を抱えて外にいった。
 明日の朝までに、なんとか決めないと、おじさんに悪いし、それよりなにより、赤い犬が名無しの権兵衛のままじゃかわいそうだ。
 母親にいくらお願いしても、犬を飼うことはできないだろうけれど、自分が名前をつけた犬がこの世の中にいるということだけで、十分に満たされるものがある。
 正太のノートには、カタカナやひらがなの名前が、びっしりと書き込まれていった。
 夕食の食卓で、正太は、ノートに書いた犬の名前を兄や姉に見せて、どんな名前がいいかみんなの意見を聞くことにした。
 大きい方の姉は「どんな犬か分からないのに、決められないから、正太の好きな名前にすればいいでしょう」
 小さい方の姉は「私だったら、もっと違う名前を考えるけれど、赤い毛の犬だから、アカでいいんじゃない」
 兄は「ずいぶんたくさん名前を考えたね。正太は字がきれいだ。せっかくたくさん考えたのだから、犬をかっているおじさんに選んでもらえばいい」
 母親は「日本の犬だから、武蔵や小次郎というのも悪くないわね。でも、お兄ちゃんのいうとおり、正太の犬ではないのだから、そのおじさんにきめてもらいなさい」
「おじさんが選んだんじゃあ、ボクが名前つけたことにならない」と、正太は不満をもらす。
 すると4人が口を揃えて、「おじさんが選んでも、その選んだ名前を考えたのは正太なのだから、同じことでしょう」

 正太は、なるほどと、すぐに納得してした。

 

長い雨
 その年の夏は、いつもより雨の日が多かった。
 犬のおじさんと約束した翌日から、雨降りが続いた。
「ニコヨンの仕事は、雨が降ると休みになる」
 兄が、玄関のガラス戸越しに、外を眺めている正太にそういった。
「ねえ、お兄ちゃん、ニコヨンってヒヤトイのことでしょう」
「そうだよ、正太はよく知ってるね。ヒヤトイってどういう意味か知っている?」
「それは、えーと、ニコヨンのことでしょう」
「それじゃ、答えになっていない」
「だって、友達がそう教えてくれたもの」
「どっちから説明しようか。まずニコヨンからいこうか。一日働いて、給料が、給料ってわかるよね、給料が240円なので、2と4でニコヨンといわれるようになった。つぎはヒヤトイだ。ヒヤトイは漢字でかくとこうなる」

 兄は近くにあった正太のノートに鉛筆で記した。日は理解できたが、雇は習っていない文字だった
「お父さんのように、会社員になると月給といって、毎月決まった日に一月分の給料をもらえることは、正太も知っているね。月給に対して、日ごとに雇われて、その日に一日分の給料をもらうのがヒヤトイだ」
「でその給料が240円だから、ニコヨンというわけだね」
「そうだ、正太、よくできました」
 ニコヨンとヒヤトイがうまくつながったが、ニコヨンが犬を飼えるほどの金持ちであるということが、まだ理解できない。
「ヒヤトイは毎日お給料をもらえるのだから、お父さんよりもお金持ちということだね」
「そうとは、限らない。お父さんは一月のうちだいたい25日は働いていて、決まったお給料をもらえることになっているけれど、ヒヤトイの人は、雨が降ったり、仕事がなかったら休みになってしまうし、本人が病気になったときも働けないから、お給料をもらえなくなる。だから、ヒヤトイの人が給料をたくさんもらえるとはかぎらないわけだ」
「ふーん。でも毎日働ければ、すごくお金持ちになれるでしょう」
「どうしてそんなにニコヨンの人がお金持ちだと思うのかな」
「うーんそれはね、犬を飼うのはお金持ちの家だって、お母さんが話していたから」
「お金持ちだから犬を飼えて、貧乏だから犬が飼えないということはない。犬の好きな人だったら、貧乏でも飼うし、どんなにお金持ちでも犬が嫌いだったら飼わないだろう。お母さんは、正太には犬の面倒が見られないと思ったから、そういったのだろう。犬だって、正太に育てられたのではかわいそうだ。クワガタみたいに、ひもじい思いをするだけだからな」
 クワガタが原因で、犬が飼えないのであって、決してうちが金持ちでないからではないと、そこだけは正太にも納得できた。
 翌朝、正太は食事が終わると、決まって玄関下の階段に座って、ぞろぞろ歩きのおじさん、おばさんの行列を待つことにした。
 雨の日は一日降っているというわけではなかった。昼には止む日もあったが、ともかく朝降っていると、工事は中止になる。
 一日、二日と日が経っていく。
「お兄ちゃん、ヒヤトイの人たちは、どうしているの?」
「雨が降ったら仕事が出来ないから、きっと家にいるのだろう」
「でも、お仕事しなかったら、お給料もらえないのでしょう」
「そうだね。なにを心配しているの?」
「お給料もらえなかったら、犬たちのゴハンはどうするの」
「犬を好きな人は、ちゃんと面倒みているさ。正太みたいなことはしないから。心配しないで大丈夫」
 また、クワガタのことを持ち出され、正太のハートはチクっと痛んだ。
 雨が降ると、川も増水して川遊びはできなくなる。上流に降った雨で川は濁り、川幅いっぱいに茶色い水が溢れている。
 しとしとと降っていた雨が、梅雨の終わりのように激しく降り、正太は毎日を部屋の中で過ごさざるを得なくなった。
 ラジオの天気予報でも、どこそこで洪水になったとか、お米が不作になるとか、もう何日も太陽が顔をださないなどと、その年の夏の異常さを毎日のように取り上げていた。
 正太は、天気が良くなったらすぐに犬の持ち主に名前を決めてもらおうと、ノートをいつでも持ち出せるように、机のいちばん目立つところにおいていた。
 ぐずついた天気は、結局十日ほど続いて、ようやく夏らしい天気になった。
 その日の朝、雨戸の隙間から漏れる朝日に、正太は目を細めながら、勢いよく作りつけの二段ベッドから飛び下りた。今日こそ、赤い犬に会える。
 食事を済ませると、ノートを持って、石段に腰掛けてまつ。
 きた、おばさん、おじさん達の話し声が近づいてきた。
 正太は、石段から下りて、道に出た。
 夏の朝の光をあびた、ぞろぞろ歩きの行列が10日ぶりに復活した。
 正太は、赤い犬の姿を探した。

 行列は続くが、犬の姿はなかなか見つからない。
「やあ、坊主」と突然声が上から降ってきた。
 視線を足下から上げると、赤い犬のおじさんがにっこりと笑って立っている。
「おじさん、今日は、犬は連れてこなかったの」
「ああ、坊主と約束していたけれど、食べちゃったから、もういないんだ」
 おじさんは、大きな手を正太の頭に乗せると、軽く撫でてそのまま、行列といっしょに歩き去っていった。

 

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