トマトと海水パンツ

夏の朝
 夏休みの正太は、とりわけ早起きだ。
 父親が会社にいくために家を出るのが6時20分なので、大人達は朝5時を回った頃には決まって起きていた。
 台所は、子ども部屋の隣なので、母親が朝食をこしらえる音が、聞こえてくる。
 普段なら、そんな音にも目が覚めることはないが、夏休みは特別だ。
   第一、冬ならまだ真っ暗なのに、外はすっかり明るくなって、早く外においでと呼んでいるようにも思える。
 正太はえいやっ、とタオルの上掛けを蹴飛ばして、造りつけのベッドから飛び降りた。
 台所の引き戸を開けるともう、父親は食卓についている。
 大きなテーブル型の食卓で、6人分の抽斗がついていて、そのなかにはそれぞれの茶碗と箸がセットになって入っており、6脚の丸椅子がテーブルを囲んでいる。
 正太の、「おはよう」と元気な声が響く。
 父親は、「うん」とだけ返事をしてじっと新聞を読みながら、箸を動かしていた。
「おかあさん、今日は宿題がおわったら、川に行っていいでしょう。昨日、友達と約束したから」
「今日は、ではなくて、今日も、でしょう」
「だって、日記に書くことつくらないと困っちゃうモン」
「はい、はい、ともかく宿題がちゃんと終わったらね」
「やったぁ」
 正太は、今日の予定ができたことに満足して、父親の隣の自分の席に座った。
「ボクもごはんちょうだい」
 父親は、新聞を閉じると、出かける支度を始めた。
 毎朝、6時40分に発車する直通の東京行きに乗る。
 正太は、大きな声で「ボクが、お父さんを駅まで送っていく」と叫ぶや否や、急いで食事をすませ、子ども部屋に戻ると寝間着を脱ぎ捨てて、白いランニングシャツと短いズボンにはきかえる。ちゃんとベルトもした。
 外は夏の日が差していたが、まだ暑さは感じない。
 玄関で待っていると、きちんとネクタイをしめ、背広を着込んだ父親が母親に見送られて出てくる。
「駅までボクが鞄持つ」
「正太に持てるかな」
 正太は、父親の革の鞄を持ったが、あまりの重さに思わず落としそうになった。
「正太には無理だろう、今日は特に書類がいっぱいだから」
「大丈夫、持てる」
 危なっかしい足取りで、石段を下りる。駅までは歩いて10分位だ。
 正太は頭の中でその距離を測ってみた。
 どこまで行けるか分からないけれど、といいつつ、結局、階段を下り終わったところで、正太は父親に鞄を戻した。
「もっと軽いときに持ってもらうから。さっ、駅に急ぐぞ」
 駅までの道はいつも学校への行く道の途中で、右に折れて小さな坂を下りる。 
 右手に地方事務所の建物を見ながら、角を二つ曲がるとやがて踏切にでる。その踏切から、駅のホームが望めた。父親の乗る予定の電車はすでにホームに入線している。
 直通で東京まで行く電車はこの一本だけで、都心へ向かう通勤、通学でいつも込んでいる。
「お父さん急がないと電車が出ちゃう」
「正太はいつも心配するけれど、電車は時間通りにでるから、まだたっぷり時間はある」
「でも、座るところがなくなるでしょう」
「大丈夫、夏休みだから学生も利用しないので、いつでも座れる」
 踏切を渡り、少し歩いて天ぷら屋黒い塀の角を曲がり、くねくねと蛇行した道を進めば駅はすぐだ。
 駅舎は三階建てのコンクリート造りで、改札を抜けると下り階があり、ホームの下をくぐり抜ける通路に続いている。
 父親は、改札を抜けるときに定期券を示しながら、改札の駅員と朝の挨拶を交わしていた。
 ホームに向かう階段を下りるときに、振り向いた父親が手を振った。
 正太もそれにこたえる。姿が見えなくなってからしばらく改札口にいたが、駆け込む乗客が増えてきたので、正太は駅舎を後にした。
 帰りの踏切で、駅のホームを見るとすでに電車は出た後だった。
 今日は、この夏いちばんの暑さだと、ラジオの天気予報が告げている。
「宿題が終わったら、川に行くのはいいけれど、ちゃんと帽子をかぶって、それから川にはつかりっぱなしではだめよ。一時間遊んだら、20分は休みなさい。わかりましたか」
 母親の注意は、いつも同じだった。
「うん。わかった」
 素っ気なく答える。気持ちはもう川の中だった。
 友達との約束では、11時頃公民館の広場に集合ということになっている。
 そう言うときの正太は、宿題をするにも気合いが入っている。
 いつもなら、だらだらとノートを開いたり、鉛筆ばかりを削ったり、ノートのすみっこにパラパラ漫画を描いてみたりと、立ったり座ったりなかなか集中できない。
 だが、宿題が終わればとびきりの楽しみがある時、お尻はしっかりと椅子にくっついて、離れることはない。
「できた、いってきます」
 その日の分の宿題を済ませると、電光石火のように正太は、飛び出していく。
 手には、少し大きめの手ぬぐいと真っ赤なトマトが入った網の袋、頭には帽子である。
「正太、帰りの時間は4時ですよ。わかりましたか」
「はーい」
 声だけ残してもう、石段を駆け下りている。

公民館前の広場

 そこからは、父親を朝送った道を走る。天ぷら屋の角を曲がらずにまっすぐ進むと、大きな街道にぶつかる。その角に、公民館の広場がある。
 正太は、いちばん乗りだった。
 公民館は、青みがかった白いペンキ塗りの木造洋館造りで、二階建てだった。この町唯一の大きなホールがあり、歌謡ショーや落語の演芸会などが開かれる。
 門の脇には。大きな樫の木があり、その下の木陰で正太はみんなの集合をまつ。
 公民館の玄関の上に丸い時計があり、長い針が11時5分前を指していた。
 やがて、正太と約束をした友達がお互いに誘い合って集まる。クラスの仲間で顔はしれているが、中には別のクラスの者もいる。
 誘ってきた友達が、仲間に紹介していっしょに川へ行くことへの同意を求めた。
 誰一人反対する者はいない。川で遊ぶには人数を多いほど楽しいからだ。それに、川に行くといくつかのグループがきており、同じ学校ならいいが、違う学校のグループなどとなにかとぶつかることもある。そんなときに人数が物を言うことも少なくない。
 正太はどちらかと言えば、遊び本意でグループ同士のいさかいには興味がなかった。
 川に行くには、同級生同士だけではいけない。必ず年長者が同行した。
 その年長者が、リーダーになって年下をきちんと見てくれる。
 年長者は、正太の友達の兄で、小学校では喧嘩がつよいということで有名だった。
 その兄を知っていると言うだけで、正太は何度も喧嘩に巻き込まれずにすんでいた。
 そう言うのを虎の威を借る狐というのだ、と兄や姉たちはいっていたが、虎だろうと狐だろうと、ともかく喧嘩で痛い目にあうよりはましだと、正太は意に介さなかった。
 川へ行く仲間の人数は、総勢で10人になった。
 正太は、まだ4年生だったから、年長の6年生と5年生の後に続いて、列の中程について歩いた。
「今日は、釜の淵で泳ぐから、みんな勝手に遊ばないように」
 年長から厳しい一言が、列の前から聞こえた。
 正太は、ぶるっと武者震いがきた。
 釜の淵とは、川がおおきく蛇行しているところにある高い断崖だった。
 その断崖の底が、何年もかけて激しい流れで削られ、深い淵になっており、それがお釜の外側のように下に行くほど丸みをまし、奥深く切り込んでいるというのだ。
 ちょうどお釜の底に当たる部分は、光も届かず流れが複雑に変化して、渦を巻き、底まで行くと、自分が川底に向いているのかそれとも上に向いているのか分からなくなるという、伝説の難所だった。
 正太達4年生は、この淵で一人で遊ぶことは許されない不文律があった。なかには、そのタブーを破って、大きな岩の上から、淵をめがけて飛び込む4年生もいたが、勇気があるというよりも、愚か者という称号を受けるのがおちだった。
 正太は、釜の淵を遠くから眺めることがあっても、いまだに岩にとりついたことすらはない。それが今日、はじめて許されるのか、それだけでもおしっこしたくなるほど緊張した。
 一行は、街道を西に向かい、町役場の前から大きな坂を南に下る。
 長い坂で、下りきったところに橋が架かっており、その橋を渡ると川向こうのもう一本の街道に出られる。
 川に下りるには、橋の手前にある染色工場の脇の道を入っていく。
 染色工場は、赤い煉瓦をくみ上げた煙突がシンボルで、正太はこの煙突をスケッチしたことがある。町の主な産業が織物で、この工場ではその織物の生地を染めていた。
 工場の近くを流れる小川には、いつも群青色した水が流れていて、そのまま本流に注いでいた。群青色の水は、本流と混ざりいつしか薄くなって分からなくなる。
 染色工場のところから、釜の淵の禍々しい岩の断崖が遠望できる。すでに、断崖にとりついている者の姿が小さな粒のようにみえる。そして、中には断崖から淵をめがけて飛び降りている者もいる。
 やがて、河原にでる。
 大小の石がごろごろしており、運動靴の足裏が痛い。
 他の者はみんなゴム草履を履いている。正太もそうしたいのだが、母親は、ゴム草履はけがのもとです、といってなかなか許してくれなかった。
「ここに荷物をまとめておいて、準備体操をするぞ」
 と言いつつ年長者がズボンを脱ぎ始めると、それを合図全員がシャツを脱いだり、半ズボンを脱ぎ始める。
 ズボンの下には、真っ赤や真っ白の六尺ふんどしを締めていた。
 ところが正太だけが、青地で左右に白いタテ線の入った海水パンツだった。
 正太の海水パンツ姿は今日が初めてではなかったが、ふんどし姿の仲間から浮いているようで、恥ずかしかった。低学年の二年生はふんどしもなにも身につけておらず、生まれたままの姿で、小さいものが股のあいだにちょこんと飛び出ている。
「おっ、正太は海水パンツか、かっこいいな」 
 年長者のその言葉に都会の子ども、という視線が回りから消えた。
 年長者の命令一下、自然に輪ができて、誰いうでもなくラジオ体操のメロディを口ずさみながら、体を動かす。
 日本全国を巡回して放送するNHKのラジオ体操が、その町にきたのは昨年の夏のことだった。当初の予定では、正太の通う小学校のグランドで市民が集まって開催されることになっていたが、あいにく当日は朝から雨で、急遽正太達の学校の講堂に場所を移した。
 狭い講堂なので、参加できたのは小学生が中心だった。
 講堂は二階にあり、小学生が指導員にあわせて跳んだり跳ねたりすると、講堂の床が大きな音をたて、古い建物全体が音を立てて揺れたほどだった。
 低学年ではラジオ体操がまだ、憶えられない者もいて、見よう、見まねでなんとかごまかしている。
「準備体操が終わったら、いきなり川に入らないこと。足から入って、手や足、つぎに胸や頭に水をかけながら、ゆっくり入るように」
 まるで大人のようなしゃべり方で、年長者は手本を示していく。
 正太は、そっとトマトの入った袋を、川の流れに入れて、袋についているひもを大きめの石に結んだ。他の仲間もそれに習う。
 正太はトマト、同じようにトマトを持って気いる友達もいれば、太いキュウリのものもいた。
 これが、川で一日遊ぶ食料だった。
 川で冷やしておいて。昼になったらみんなで食べるのだ。
 正太は、キュウリも好きだったが、何よりもトマトに目がなかった。
 大きなトマトを一個と、ちょっとこぶりを一個、網の入れ物は、幕張で潮干狩りをしたときに沢山採れたアサリを入れてきたものだった。清流の冷たい水に、トマトの入った網の入れ物が浮いている。
「盗む奴がいるから、みんないっしょにおいておくように」
 年長者の気配りの言葉が終わると待ちきれないように、子どもたちは川に足を入れ、じゃばじゃばと流れを目指す。

釜の淵
 釜の淵へ渡るには、少し上流の浅瀬を横切らなければならない。
 大人達は、深い流れに飛び込んでそのまま抜き手を切って、岩の断崖に向かって泳いでいく。淵の所々に岩の突起があり、そこに手をかけてよいしょっ、とばかりに、岩にとりついて登っていく。
 正太達に、そんな力もないし第一勇気がない。
 川の流れは、淵のような所にくると突然急になり、体の自由を奪われるような恐怖感がある。しかも、釜の淵の下は、吸い込まれたら最後、上も下もわからなくなるといわれているのだから、未知の恐怖は、夜一人で便所にいく時の恐怖とは比較にならない。
 年長者は、先に立って歩きやすいところを足で探りながら、時々振り向きみんなが、きちんと列をつくって渡っているかを確かめる。
 低学年は、正太達の前を歩き、正太達の後ろには5年生がしんがりを務めていた。
 10人が無事に渡りきるまで、数分のことだったが、水の力と川底の変化は、一時も油断ができない。対岸へ渡りきることで、もし流されたらどうしようかという思いから解放されると、決まって帰りのことが心配になった。同じ所を戻るとして、そのころは水かさがふえていないだろうか。行きと同じ所をわたれるだろうか、考えても仕方ないことに、頭を悩ます正太だった。
 そんなもやもやした気分も、釜の淵の黒々とした断崖を見上げると、威圧感におされて、消し飛んでいた。
 年長者は、それぞれ身軽に岩を上り始める。
 断崖は、てっぺんまで15メートルはあるだろうか。上には松が根を張って、ふとい幹が天につきでており、さらに高く見える。
 すでに何人もの小学生や中学生が、流れに向かって断崖にもたれたり、いくぶん平らの所を見つけて腰をおろして、いつ飛び込もうかと身構えていた。
 突然一人が立ち上がって足から飛び込む。大きな水しぶきとともに流れに消えた。
 正太は水に落ちたときの音に、びっくりした。
 飛び込んだのは、別の小学生グループを率いる中学生だった。
 なかなか水から出てこない。ずんと深く潜ったようだ。
 すると、飛び込んだところから、10メートルほど下流から、ぽっこりと顔が出る。
 断崖に残っていたグループの仲間が、おーっという声をあげた。
 いつの間にか、正太のグループの年長者が、とりついていた岩からすっくと立ち上がり、無言で両足を蹴る。ぽーんと、体が弧を描きながら飛び出した。
 断崖の下でぐずぐずしている正太達は、年長者のその美しい飛び込みに、一瞬体が固まってしまう。両手をまっすぐにして、水面を切るように飛び込む姿を、正太は鳥の図鑑で観たカワセミのようだと思った。
 足からよりも頭から飛び込むほうが、数倍の勇気がいる。
 断崖に残っていた別のグループの仲間は、言葉にならない。
 崖下の正太達は、勝ち誇ったようにウォーと雄叫びをあげた。
 その後、二つのグループがまるで競うように、つぎつぎに崖に上っては、飛び込みを繰り返し始める。正太も断崖を登ることはできるのだが、いざ、流れをみるとあまりにも高くて足がすくみ、どうしても飛び込むことができなかった。
 下からどんどん子どもたちが登ってきては、とりつかれたように飛び込んでいく。それも、正太の立っているところより上の方から。
「おい、邪魔だからどきな」
 別のグループの年長者が、上の方から正太にどくように声をかける。
「正太、一度飛び込めば、もう大丈夫だから、やってみな」
 正太のグループの年長者が、横から声をかける。
 正太は、つばを小指の先につけて、耳の穴に突っ込む。さっきから何度も繰り返していたことだ。そのつばさえ出なくなっていた。
 気持ちは、もう飛び込む準備ができている。だが、どうしても体が前にいかない。
「おい、邪魔だからどけ」。上から声が落ちてくる。
「うるさい、ちょっと待ってやれよ。正太ははじめてだから」
 正太は、その声に押されるように、目を固く閉じて両足を前に踏み出した。 
 水面までわずか1メートルもない。足が、水に着く。体がずぼっと沈む。流れが厚い壁のようになって体を川底に引きこむ。
 正太を恐怖が襲う。水が怖いとはじめて感じた。大きな力が、全身をつつみどこか遠くへ引っ張っていく。
 もがく、足を蹴る、手をばたつかせる。水の中では手が、すごく重く感じられた。
 閉じていた目を開く。目の前を流れる水は青緑色だった。体は流れに持って行かれる。
 さらに足を蹴った。その時、自分が釜の淵から、だいぶ下流の浅瀬にいることがようやく飲み込めた。安堵の気持ちが広がる。そして、わずか数秒の冒険が終わった。
 正太は水から立ち上がった。
 すると、なんと、海水パンツのバックルが飛び込んだ拍子にはずれて、海水パンツが足下まで下がり、正太の股の間から、縮こまった小さい突起が飛び出していた。
 岩の上に座っていた仲間が指さして笑っている。大きな声で笑っている。正太は、必死になって海水パンツをたくし上げるが水を吸ったパンツはなかなか上がらない。気持ちも焦っているのでなおさらだ。
 「正太、よくやった。これで釜の淵の仲間になれたぞ」
 いつの間にか、年長者がそばにきて、正太の肩を叩く。同時に回りから笑い声が消えた。
 釜の淵は、正太達小学生にとって肝試しの場であり、男になる場でもあった。
 バックルをはめ直し、正太はまた流れを渡り、断崖にとりつき、水面をめがけて飛び込んだ。何度も、何度も。そして、少しずつ高さを上げていった。 
 その後も海水パンツのバックルが、何回かはずれたが、正太には飛び込んだ瞬間にズレ落ちるパンツを手で掴む余裕も生まれていた。
 その日が釜の淵飛び込み初体験の同級生も、正太と同じように無事やり遂げた。 
 昼になると、サイレンが鳴る。それが、合図のように正太達は川から上がった。
 仲間の何人かは、昼飯を食べるために家に向かった。
 残った者は、流れに冷やしておいたトマトやキュウリを食べる。
 トマトは、表面はいくぶん赤くなっているが全体は、まだ薄い緑色をしている。
 がぶりと一気に歯で噛むと、口の中に日向臭い、青臭いトマト独特の匂いが広がる。川の水でほどよく冷えた果肉が、昼間の暑さを忘れさせる。
 正太は大きいトマトだけを食べて、小さいトマトは3時のおやつにと残した。 
「これから一休みするから、その間は川に入らないように」
 年長者は、泳ぐときもいっしょ、休むときもいっしょというルールを決めていて、いつもそれを守る。
 正太は、少しも疲れていないので、もっと釜の淵からの飛び込みをしたかったが、母親から「年上の人の言うこと聞くように」と、うるさいほど言われているので、決まりを守ることにした。
 ここで言うことをきいておかないと、つぎの川行きの時に、罰として誘われなくなることが、正太にはなによりも怖かった。
 強い日差しの下で、焼けた河原の石に体を横たえて甲羅干しをする。川の水は冷たく、冷えた体に夏の日差しで熱くなった石が気持ちいい。
 夏休みも8月になり、天気のいい日にはいつも河原にきているので、それぞれに日焼けしている。
 ふんどし姿の仲間は、お尻から太ももの上の方まで、こんがりと色づいている。
 海水パンツの正太といえば、へそ下から太ももにかけてちょうどパンツのあとが白くのこっている。風呂にはいるとそれがことさら目立ち、正太は母親にふんどしを買ってとねだったこともあるが、「海水パンツのほうが、かっこいいでしょう」といっていっこうに取り合ってくれなかった。
 一度だけ、兄のふんどしを締めてみたが、しっかりと締められなかったせいか、ふんどしの股のところから、袋の一部が飛び出しているのをみて、正太はその方が恥ずかしいと感じたので、もっと大きくなってからにしようと気持ちを切り替えた。
 仰向けになると、空には白い雲が真っ青な夏の空に、ぽつんぽつんと浮いている。
 山の稜線の向こうからは、入道雲が生きているかのように、もくもくとわき上がっている。
 太陽は雲にかかることなく、かっと照りつけている。
 まぶしい光を見つめながら、正太はひとり心に秘めていることをこれから実行しようと思っていた。
 釜の淵の断崖の下から水面までわずか1メートルほどの水面に足から落ちたというのでは、飛び込んだとはいえない。それでも、ずいぶんと勇気のいることだったが、釜の淵の上から、足を蹴って頭から水面に飛び込まない限り、下級生のままで夏休みを終わることになる。
 年長者や慣れている同級生の何人かは、断崖の中腹から足で蹴って、できる限り遠くへ飛び出し、水面に頭から突っ込んでいる。
 見るたびに、なんとしてもそちら側に仲間入りしたくてならなかった。
 去年は、足から落ちることもできなかった。今年はそれができた。頭から飛び込むのは来年の夏休みでもいいかもしれないが、あと1年待つのは長すぎるように正太には思えた。
 せっかく今日、みんなに励まされて、足から飛び込むことができたのだから、頭からだってできるはずだ。
 正太は太陽の光の中に、断崖の上から一気に川の水面をめがけて、うつくしく弧を描いて飛び込む自分の姿を描いてみた。
 「みんな、そろそろいいぞ」 
 年長者の一声で、待っていましたとばかりに起きあがる。
 そして、再び釜の淵のある対岸を目指して、川を渡った。
 正太は、心に秘めた決心で、口数が少なくなっていた。
 川の流れも、なぜか穏やかなような気がする。水を切るようにずんずんと向こう岸に向かって歩いていく。
 一度、足から飛び込んだ後も、なんとか高さを上げようと思ったが、ほんのわずかに過ぎかなった。頭から飛び込むとなったら、そうはいかない。
 全員が川を渡りきり、釜の淵の崖下に並び、上を見る。
 何度みても、高い。中腹が大人のお腹のように前にせり出し、下は淵向かって沈み込んでいる。ずっと変わらない姿で川の流れをうけとめてきたその断崖に、正太は立ち向かおうと、両手に小さな拳をつくった。
 頭から飛び込む自信のあるものは、例によって岩の上の方によじ登っていく。
 足から組みは、下の方を蟹の横ばい状態で進む。
 正太の順番がきた。迷わず上を目指す。
 先に行っていた頭から飛び込み組みが、あれっという顔をして正太をみる。
 年長者がすかさず「正太、やるのか」と声をかける。
 正太は、小さく頷く。
「おい、あけてやれ」
 年長者が、他のものに命令した。
 何人かは、それにこたえるように立ち上がると、勢いよく蹴り出して頭から淵の流れに飛び込んでいったり、脇にどいたりした。
 正太は、その場に立って、あらためてその高さに驚いた。
 足がすくむというレベルではない、ぺたりとお尻を落としてしまった。
 海水パンツの上からとがった岩がお尻にささる。
「足から飛び込んでもいいぞ」
 頭から組は、正太の気持ちを読んだように口々にいう。
 正太は、そんな言葉も耳に入らない。頭が真っ白で、水面を見つめる目は瞬き一つできない。顔が強ばって、唇は寒くもないのに紫色に変わっていた。
「正太、俺の飛び込むのをみていろ。腰を浮かして、足はそんなに蹴らなくて大丈夫だ。いいかよく見ているんだぞ」
 年長者が、ゆっくり立ち上がった。そして、手を前にすると、腰を少しかがめて次に腰を伸ばした。すると、体が宙に浮くように飛び出す。手は前でしっかりと合わさり、そのまま流れに突っ込んでいく。
 いつも下から見上げるようにしか、見ていなかった飛び込みの姿を上から眺めるのははじめてだったので、正太はまるで自分が飛び込んだような錯覚を憶えた。 
 飛び込んだばかりの年長者が、水面に顔を出して「正太、足から飛び込んだときにも一度できたら後は、何度でもできただろう。頭から飛び込むのも同じだ」
 顔についた水を手でぬぐいながら、その手で飛び込むように誘う。
 それでも正太の尻は岩にくっついて、いっこうに離れようとはしなかった。
 正太は太陽の光の中で見た、自分の飛び込みの瞬間を思い浮かべようとした。
 しかし、思い出せなかった。回りから早く行け、頑張れ、あとがつまっているなどと騒がしい声ばかりが聞こえる。
 断崖に登ってから、もう何分経ったろうか。数分だったのか、数十分だったのか、正太には時間すら分からなくなっていた。
 このまま夕方になって、今日は帰ろうということにならないかとまで思った。
 トマトを食べた後で、心に決めたことはなんだったんだろう。
 夏は来年もある。釜の淵もなくなることはない。今年はここまでということにしておこうか。そう思いつつ、正太は断崖の下を見て、それから空を仰いだ。
 太陽は、かっと照りつけ正太の目を射る。
 正太は、岩から離れてゆっくりと腕を開き、足を軽く曲げると今度はすっと立ち上がるとように膝を伸ばした。
 正太の体は、川面に向かって落ちていった。
 あわてて手を前に合わせる。しかし、体は頭からではなく、アゴから胸にかけてばしっと音ともに着水した。跳び箱を跳び損ねて、胸から落ちたときの痛み以上のしびれるような衝撃だった。何がおきたのか、正太には見当がつかなかった。
 痛みを気にしている内に、とんでもないことが起きていたことに、正太はまだ気づかなかった。
 少し落ち着いて、背の立つあたりで立ち上がったら、海水パンツが脱げてすっぽんぽんの姿になっていた。
 足から飛び込んだときには、かろうじて足首で止まっていたが、頭から飛び込んだ時には、そのまま脱げて流れてしまったのだ。アゴと胸は、真っ赤になっている。
 見ていた年長者をはじめ仲間がいっせいに潜って、海水パンツを探しにかかった。
 その間、正太は少しでも深いところに移動した。
 海水パンツは、散々探したが流されてしまったのか、それとも釜の淵の奥深くに沈んでしまったのか、とうとう出てこなかった。
 脱いでおいたズボンをはき、ようやく身繕いした正太に、年長者から「よく飛び込んだ。もうこれからは何度でもできるようになる」と、賞賛の言葉をかけられたが、正太は、海水パンツを流してしまったことをどう母親に説明したらいいものか、そのことで頭がいっぱいだった。
 海水パンツもなくなったので、正太はそのまま川から上がり、みんなが遊び終わるまでまってから、家路についた。家に帰ってから、海水パンツだけでなく、残ったトマトもそのまま流れにおいてきたことを思い出した。

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