検便騒動

空豆大
 正太の苦手は、手の指10本、足の指10本を使っても数え切れないほどあるが、なかでも回虫検査のための検便は、特別だった。
 検便は、マッチ箱にその日の朝の便をとって入れ、紙袋などに組と名前を書いて学校に持って行く。持ってきた袋は、クラスごと置かれているダンボール箱に入れていくのだが、今のようにビニール袋がなく、てんでに紙袋に入れてあるだけだから、検便回収の朝は、どこのクラスも色んなうんこの混ざった匂いが、教室から廊下まで満ちあふれてしまう。
 マッチ箱にいれる便の量は、前日、先生から「空豆大位」と目安を言われているのだが、そんなことはお構いなしに、びっしりと入れて来る児童が少なくない。
 あまり入りすぎて、マッチ箱からはみ出しているものもある。
 正太にとって、空豆大という大きさが掴みきれないことが一つの悩みだった。
 それにうんこと空豆がどんなつながりがあるのか分からない。
 母親に空豆大ってどんな大きさかと聞き、実際に空豆を見せてもらったが、その大きさに合わせるためにどうしたらうまくいくのか、それがまた苦手の理由になった。
 ある時には、便所で気張って出てきたうんこを、お尻拭くための新聞紙で一度受け止め、それをマッチ棒につけてなんとか空豆大にしようとしたが、固くてどうにもならない。
 その内、うっかりぽろっと便器に落としてしまった。
 汲み取り式の便所だから、うんこは便壺にぽちゃんと音を立てて消えてしまった。
 仕方なくて、もう一回気張ったが、なぜか次が出てこない。必死になって気張っても、お尻の穴は言うこときかない。このままでは、検便を持って行けないと思うと、宿題を忘れたとき以上に悲しくなり、ついにはトイレで泣きだしてしまった。
 その経験が、尾を引いて、検便の日になると肝心なものが、出ないのではないかという心配と緊張のあまり、ますます思うようにうんこが出てこなくなった。
 できることなら、たっぷり出たときにとっておいて、いざというときに持って行けるようになったいいのにと思ったりもした。
 
 検便の朝、正太は必死だ。母親のその内出るから待っていなさい、という言葉も慰めにはならない。かといって、便所が一つしかないので、家族6人で朝は奪い合いになる。
 一人でいつまでも独占していることは許されない。
 「お母さん、正太の検便は外でやらして」と、姉たちの声が、便所の扉を通して聞こえる。
 どたどたと足踏みする音も、響いてくる。
 正太の肛門は、ますます固く縮まっていく。
 結局、いったん外に出て、兄姉達がそれぞれ中学校、高校へと出かけた後になって、まるで嘘のようにたくさん出た。
 なんとか事なきを得たのだが、それ以来、正太の検便事件として記録された。
 マッチ箱の入った紙袋をランドセルの中に入れるわけにもいかず、手にぶら下げて学校まで行かなければならない。
 そんな朝は、男も女もみんな何故か無口で、手にはてんでんに紙袋をぶら下げている。
 おしゃべりな正太も、その朝、散々苦労してやっとマッチ箱に入れたうんこのことを、誰にも悟られたくない気分だった。
 誘い合わせいく、いつもの友達も、なぜか元気がない。
 正太は、自分と同じように苦労したのか、それともうまく取れなかったのかと思ったが、ちゃんと紙袋を手に持っている。お互いに目があったが、どこかほっとした気分で、視線を交わす。いつもはしゃいでいる同じクラスの女子も、なぜか静かだ。
 正太は、なんでこんなに苦労して、うんこを学校に持って行かなければならないのか、理由は分かっていてもどこか納得できない気分があった。
 
回虫退治
 回虫の恐ろしさは、震え上がるほど怖く、夜眠れないほど身にしみているつもりだった。
 回虫は白いミミズのようであったり、ギザギザがついた細い昆布のようであったり形は様々だ。
 回虫は卵がお腹の中で孵って、それが成長する。
 その卵はどこから来るかというと、野菜だった。農家では、野菜の肥料に人糞をまいていたので、その野菜をよく洗わないで食べることで、卵が体内に入ってしまうわけだ。
 だから、化学肥料になってからは、回虫もすっかり陰をひそめてしまった。
 回虫の恐ろしさを、学校での説明会で聞いたが、正太にはとてつもない恐怖だった。
 成長した回虫が心臓に入り込んで穴をあけてしまい、人の命を奪う。鼻の穴から出てくる、ギョウ虫という回虫は、お尻の穴からはい出てくるなどなど。大嫌いなお化け映画の方がもっとましだと思えるほど、身の毛もよだつような話だった。
 だから、検便をしなければならない、というところまでは理解できた。
 便の中に回虫の卵がいたら、クスリを飲まなければならない。
 検便の結果が出ると、クラスで卵が見つかった児童に、クスリが渡される。クスリをもらうということは、放っておくと、心臓に穴があいたり、鼻の穴からにょろっと出てきたり、お尻の穴からはい出てくる恐怖と向き合うことになる。
 去年の検便で、正太も、クスリをもらった。体の中に回虫の卵がいるということが分かった。足が震えた。いつ鼻の穴から出てくるのか、心臓は大丈夫か、この前お尻の穴がかゆかったけれど、ギョウ虫が外にはい出ようとしていたのではないか。回虫のクスリをその場で飲みたかったほどだった。
 先生から、飲み方の注意を受けたが、上の空だった。
 いますぐ学校を休みにして、早く家に帰ってクスリを飲んだ方がいいのではないか。
 クラスのほとんどがクスリをもらった。ということは、みんな自分と同じ恐怖を感じているのだと、正太は思った。
 その日の下校は、登校時と同じようにみんな静かだった。家に帰ったらどこへ遊びに行くかかという約束を交わすこともしない。なんといっても、クスリを飲むという大仕事が先だ。「クスリを飲むときの注意をお母さん、お父さんによく読んでもらって正しく飲むように」という先生の話が、頭の中で何度も響き渡っている。お腹の中の回虫を退治するためにクスリを飲む、という初めての体験が帰宅とともにはじまるのだ。
 母親に、クスリの入った袋を渡す。母親といえば、正太の不安をよそにまるで腹痛のクスリを扱うかのように、受け取った袋をその辺にポイと置く。
 「お母さん、そのクスリ飲まなくちゃいけないのでしょ」
 正太は、今すぐにでも忌々しいお腹の中の回虫どもを退治したかった。
 「お薬は、食事をしてからということになっているの。だから、正太はおやつを食べたらそれまで宿題をするか、遊びに行ってらっしゃい」
 宿題も、遊びもどうでも良かった。おやつも欲しくなかった。だいたい、みんな今日はお腹の中の回虫騒ぎでそれどころではないはずだ。遊んでいたってつまらない。何していても、回虫がいるかと思うと、それだけで気分が乗らない。
 子ども部屋に引っ込んだ正太は、それっきり夕方まで部屋から一歩も出なかった。
 兄弟がそれぞれ学校から帰ってきたが、気分はすぐれない。
 兄は心配して、母親に原因を聞いた後、正太の所へきた。
 「回虫の卵がいるので心配しているんだって」
 「だって、お兄ちゃん、回虫は鼻の穴からでてきたり、心臓に入り込んで心臓を食べちゃうって。だから早くクスリ飲みたいのにお母さんが、夕方まで待ちなさいって」
 「正太、回虫は怖くない。しかもまだ卵だから、いきなり成虫になるわけないし。クスリは飲めばすぐにそとにでてしまうから大丈夫だよ」
 何でも知っている兄の一言で、少しは気が晴れたが、ともかくあのクスリを飲まないことには安心できない。
 その時がきた。
 夕飯後に、正太は母親から呼ばれて、クスリを飲んだ。
 子ども部屋に帰ると、回虫の卵が無事外にでますようにと、なんどもお腹のあたりをなでまわしながら念じた。
 動かないでじっとしていよう。いつもなら一時もじっとしていない正太が、あんまり大人しいので、「いつも回虫がいると、正太が大人しくていいね」などと姉たちが冷やかす。
 一日中、回虫事件で、気持ちが休まることがなく、正太はついうとうとして、うたた寝をした。
 
とんぼのめがね
 「正太、寝間着に着替えて寝なさい」
 母親に揺り起こされて、ぼんやりと目を覚ました正太は、びっくりしたように大きな声を上げる。母親も。すでに帰宅していた父親も、兄弟も正太のまわりに集まる。
 「正太、どうした、また寝ぼけたの?」異口同音のみんなが言葉をかける。
 「真っ黄色だ、電灯もお母さんの割烹着も、家じゅうが真っ黄色だ」
 正太は、実はびっくりしたというよりも、世界中がすべて真っ黄色に見えたことに、感動していた。
 お兄ちゃんの顔も真っ黄色だよ。お姉ちゃんも、すごいよ、みんなみんな黄色く見える。わーすごい、すごい」
 正太は部屋を走り回る、窓を開けて外視る、外は真っ暗なので、黄色くみえるのは外灯の光ぐらいだった。
 「正太、それは回虫のクスリのせいよ」と母親。
 「副作用だな」と父親。
 「フクサヨウってなあに?」
 「クスリが悪さしたんだ」
 「回虫のクスリが悪さするの」
 「でも、すぐにおさまるから心配しないで」
 正太は、フクサヨウをもっと楽しみたかった。お祭りの縁日で売っている黄色いセロファン紙でつくった眼鏡をかけた気分だった。
 「お兄ちゃん、色眼鏡かけたみたいだ」
 「正太は、本当になんでも楽しいんだね。さっきまで、回虫の卵がいるって、あんなにしょげ返っていたのに」
 「だって、なんにもしていないのに、みんな真っ黄色にみえるんだよ。トンボの眼鏡みたいだよ」
 「そうか、トンボの眼鏡か」
 家族はみんな大きな声で笑い、そして、夜は更けていった。
 朝がきた。正太は、そっと目を開く。どうか、黄色い眼鏡が消えていませんようにと。
 しかし、正太の期待は裏切られ、目は普通に戻っていた。
 
 その日、登校してから正太はトンボの眼鏡になったことをみんなに話したが、黄色く見えた友達もいればそうならなかった友達もいて、あまり盛り上がらなかった。
 それが去年の出来事で、今年はどうなるか、正太は、検便は苦手だけれど、あの黄色い世界には、もう一回戻ってみたかった。
 だが、そのためにはクスリを飲まなければならない。クスリを飲むためには、お腹の中に回虫の卵がいなければならない。正太は、どっちがいいかといえば、やはり回虫の卵がいないほうがいいと、いまは思い始めていた。
 
 起立! 礼!
 当番のかけ声で、がたがたと椅子を引きながら、正太達は一斉に立ち上がり、担任の先生を迎えた。
 「おはよう!今日は検便の日です。みんな忘れずにもってきましたか」
 「はいっ」全員の声が、教室に響き渡る。
 「はい、先生」
 手を挙げて、女児の一人が立ち上がった。
 「はい、佳子さん」
 先生は、手を挙げた女生徒の名前を呼ぶ。
 「一也のお母さんから、一也君は今日、検便がでなかったので、お休みするという連絡がありました」
 その時、教室は大きな笑いに包まれた。が、いつもなら誰よりも大きな声で笑う正太は一也の気持ちを考えると、なぜか笑う気にはなれなかった。

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