2010年7月

氷屋のおっちゃん

でっかいのこぎり

 そののこぎりの大きさは半端ではない。

 普段家で見慣れているものと比べると、まるで子どもと相撲取りぐらいの差がある。

 のこぎりの背は鯨のように丸く大きく、背から歯までの幅もやたら広い。

 そしてなんと言っても歯の大きさがすごい。

 一つ一つがまるで鯨の歯のようにでかい。しかも、全体が銀色に光っている。

 「ちわーす」、台所口であがる景気いい声は、氷屋のおっちゃんだ。

 漫画を読んでいた正太は椅子から飛びあがるようにして下りて、入り口に向かう。

「奥さん、今日はなん貫目にしておきますか」

 正太の母親が、木製の冷蔵庫の上の扉をあけて、中をのぞき込むと、冷気が白い煙のようにふわぁと流れ出てくる。

「そうね、一貫いただいておこうかしら」

「はい、一貫目ですね。まいどありがとうございます」

 氷屋のおっちゃんは、近所中に聞こえるような大きな声を残して玄関の方に向かう。正太は急いでおっちゃんの後を追いかける。

 玄関前の石段の下に止めてあるリヤカーのところに戻り、おっちゃんはかけてあったぶ厚いむしろをはずす。

 むしろの下には、長方形をした透明な氷が縦に並べられていた。

 氷のまわりには白い冷気の煙がたっている。

 おっちゃんは、そのうちの一つを横倒しにすると、いつもの大きなのこぎりを出してきて、氷を二つに切り始める。

 シャーコ、シャーコと小気味いい音が響く。

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 鯨の背が前後するたびに、木くずならぬ氷くずが、雪のように前後に飛び散る。

 正太の目的はこの氷くずだ。

 「手出したら危ないよ」

 氷屋のおっちゃんは、正太がなにをしたいのかわかっている。

 正太も、仕事を邪魔しないように、氷の前の方から眺めている。

 シャーコ、シャーコとのこぎりをさらに数回前後にひく。

 正太に向かって飛んでくる氷の削りかすを手のひらで受け止める。

 夏の暑い日差しをうけて、削りかすはあっという間に淡雪のように溶けていく。

 氷に隙間ができると、おっちゃんはやわらのこぎりを引き抜いてひょいと背を下に返す。

 正太はここからが見所だと、じっとはおっちゃんのもつのこぎりに目を凝らす。

 氷の隙間にのこぎりの背を軽く落とすと、氷はスパンと下まできれいに割れた。

 切り口が冷たく透き通っており、向こうの景色が透けて見えるようだった。

 大きな氷の塊は、一貫目に切りわけられた。

 「おみごと」と正太は、声に出さずに叫んだ。

 おっちゃんは、氷をはさみの親分のようなもので挟むとひょいと持ち上げ、リヤカーの上の残った氷にむしろをかけた。

 氷からポタポタと落ちる水滴で、乾いた石段から台所の入り口に向かって黒い点がつづく。

 「ありがとうございました」

 「ご苦労様」

 おっちゃんは、下げてきた一貫目の氷を冷蔵庫の上の扉をあけて押し込む。氷室の中で残っていた氷とぶつかる音がした。

 

夏だけの冷蔵庫 

 6月の終わり頃になると、正太の母親は冷蔵庫の掃除をはじめる。

 木製の冷蔵庫は上下二つの部屋にわけられている。

 上の部屋は小さくてそこは氷をいれる氷室で、下の部屋は大きくこちらには、中に仕切棚があってお肉やお魚、そして大好きなサイダーやビールの瓶が入る冷蔵室になっている。

 大きめのすいかを入れるときには、仕切棚をはずして、まるで冷蔵庫の主のように真ん中にどんと置く。

 冷蔵庫の内側は、灰色の金属性で、外側の壁との間に断熱材が入っており、全体の大きさに比べると中はずいぶんと狭い。

 扉には波形をした取っ手がついていて、取っ手の先を金属の留め金にしっかりと止めないと扉に隙間ができて、そこからせっかくの冷気が漏れてしまう。

 正太は力がなかったので、しっかりと閉めることができず、そんなときは「また、冷蔵庫の扉をしっかり閉めていないのは正太でしょう」と兄や姉から文句を言われる。

 氷室の冷気が冷蔵室とつなぐ隙間から降りてきて、冷蔵室を冷やす仕組みになっている。

 突然のお客がきたときには、氷室にサイダーなどを入れて冷やすこともあった。もっと急ぐときには、氷を砕いてガラスコップに入れて冷やすこともあったが、氷がなくなると冷蔵庫が冷えなくなるので滅多に氷を使うことはなかった。あらかじめお客が来る事が分かっている場合には、氷屋のおっちゃんに氷を届けるように頼むようにしていた。

 ともかく氷は貴重品だった。

 「氷室は用が無いときは開けないように。冷蔵室はいつもしっかり閉めるように」と母親は口うるさく子どもたちに注意していた。

 夏場に食品が傷むと食中毒になるので、冷蔵庫は食品の保存場所として、重要な存在であったし、それゆえに氷は貴重な存在だった。

 それでも外で遊んで汗をかいた後、冷蔵庫をあけて冷気をあびるとすずしく、すっと汗が引くので正太は母親の目を盗んでは、冷蔵室に頭を突っ込んだりして密かに楽しんでいた。

 それにしてもと、正太は小さな疑問を感じていたい。

 夏になると氷屋のおっちゃんは、リヤカーに氷を積んで忙しそうに運んでいるけれど、冷蔵庫は夏休みが終わる頃にはもう使わなくなり、当然氷を買うこともなくなるので、おじさんは夏の間しか商売していないことになる。

 また夏がくるまでなんにもすることがないのだろうか、それとも、夏の間一生懸命働いたご褒美に、あとは遊んで暮らしていけるのだろうか。

 ありとキリギリスの話を正太は思い出していた。

 正太は、分からないことがあるとなんでも兄に聞くことにしていた。

 「ねえ、お兄ちゃん、氷屋のおじさんは氷がいらなくなる冬はどうしているの?」

 「正太はどう思う?」兄はいつもきまって正太の考えをまず聞いてくる。

 「うん、ボクは夏の間にたくさん氷を売って、そのお金であとは暮らしていると思う。ありとキリギリスのお話のように」

 「そうか。でも夏の4ヶ月位の間に売った氷の売り上げだけで、あと8ヶ月も暮らしていけるかな」

 「じゃあ、お兄ちゃんの考えは?」

 「うん、正直に言うとわからない。きっと別の仕事しているのだと思うけれど」

 「別の仕事って?」

 「別の仕事ってそんなの決まっているでしょ」といつの間にかそばにきていた小さい方の姉が突然口を挟んだ。

 「正太、氷屋のおじさんは夏が過ぎたら、来年の夏に売るための氷をつくっているの。はい、これが正解」というなり、大きな声で笑った。

 それにつられるように、兄も笑いながら「正太、こんな話をまともに聞いたらだめだよ」

 正太は、小さい方の姉の話が正しいのではないかと、半分いやそれ以上に信じて始めていた。

 「なぞなぞ、"夏、氷を売っている氷屋のおっちゃんは、冬の間はなにをしているでしょうか?"答えは"来年の夏に売るための氷をつくっています"」と正太。

 「それじゃ私がいったことそのまんまで、なぞなぞになっていない」

 こんどは、3人でいっしょに大笑いした。








涙の二部授業

誰もいない校庭

 学校の門をくぐった正太は、誰もいない校庭をぼんやりと眺めていた。

 人っ子一人いない校庭に、正太はこの世の中からだれもいなくなったような心細さを感じた。不安が心の奥底からつきあがってくる。夢であってほしい。いま、くぐったばかりの校門から、同級生たちがくるのではと振り返る。しかし校門は二本の石の柱が立っているだけで、人影はない。

 正太の目に涙が、じわっとあふれてくる。

 遅刻したのだ、もうみんな、自分のことをおいて教室に入ってしまったのだ。

 遅刻なんかしたことがないのに、今日に限って、誰も誘いにきてはくれなかった。

 秋子も、かっちゃんも、どうしたのだろう。

 正太は教室に行くのが怖かった、人っ子一人いない校庭を横切っていく勇気はなかった。

 じわじわとわき出てくる涙で、校舎もかすんで見える。

 声には出さなかったけれど、正太はわんわんと心の中で泣いた。そして、一目さんで家まで走った。

 家からでるときも、戻るときも誰にも会うことがなかった。まちから人が消えてしまった。正太はますます心細くなり、自宅の玄関の引き戸を開けるやいなや、一気にワーと声をあげて泣き叫んだ。

 「どうしたの、正太」

 声に驚いて母親が飛び出してくる。

 「学校に誰もいない。道にも誰もいない。同級生がみんないなくなったあ」と、手放しで泣き叫ぶ。

 「正太、落ち着きなさい。お母さんは、もうそろそろ正太が学校へ行く時間だと思って帰ってみたらもう姿が見えないので、おかしいなと思っていたのよ」 

 「だって、12時になったら学校に行くようにってお母さんいったでしょう。柱時計の短い針が、ちゃんと12時を指してから、ボク学校に行ったんだよ、でも、だあれもいなかった。校庭にだって誰もいない」

 涙といっしょくたになって、なにをいっているのかわからない。

 「正太、この時計、昨日の夜から止まっていて、お父さんにネジを巻いてもらおうと思っていたけれど、昨日の帰りを遅かったし、今朝は早くから会社に出かけたので、そのままになっていたの、ごめんなさい。でもお昼ご飯を食べてから学校へいくことになっていたから、大丈夫だと思ってお母さんもちょっと用事で出かけていました。外で遊んでいたけれど、この前みたいに疲れたらだめだから、早く帰るようにってお母さんがいったでしょう。忘れていたの?」

 事情が飲み込めた安心感と、お昼ご飯を食べてから学校へ行くという母親との約束を忘れて、止まっていた柱時計を信じて学校まで行った自分の間抜けさに、ようやく気分が落ち着いた。

 正太の小学校では、児童の数が増えて教室が足りなくなり、一年生の時から二部授業となっていた。

 一部が午前中、二部が午後から授業を受ける制度だった。

 午後の部の児童たちは、午前中はなにもすることのないので、友達と遊ぶことになり、あんまり遊びすぎて肝心の授業時間には疲れはて授業にならないという事態が起きてしまった。

 そこで、学校から午前中はあまり遊ばないようという

 連絡がきて正太も母親から注意されていたのだ。


柱時計

 それにしても、柱時計が止まっていたとは、と正太は今更ながら、時計をみて大慌てで飛び出したことをおかしく思った。


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 正太の家にある時計は、茶の間の柱時計と父親の枕元にある目覚まし時計、あとは父親の腕時計の3つだけだった。

 生活の時間をみるには、柱時計で、ネジ巻き式だから、一週間に一度、父親が脚立に乗って、柱時計に扉を開き、中においてあるネジでカリッカリッとネジを巻く。

 振り子が左右に振れながらコツコツと秒を刻み、一時間ごとボーンボーンと音の数で時をしらせ、半になるとボーンと一回だけ鳴って教えてくれる。

 母親が昨日から止まっていた柱時計のネジを巻き、目覚まし時計に時間を見ながら、針をあわせる。

 「正太、今はまだ11時だから、ちょっと早すぎたようね」

 母親は笑いながらそういうけれど、誰もいない校庭にポツンと一人でいたときの心細さは、たとえようもなく悲しかった。

 「お母さんどうしてこんな時間に学校へ行くことになったの?」

 「二部授業になったからって、昨日もちゃんと説明したでしょう」

 「だから、どうして二部授業なんてやるの?どうして朝からいつも通りに学校へ行っちゃいけないの?」

 ほら始まった、とばかりに母親は正太のだからどうしてにどうやってつきあおうかとちょっと間をおく。

 「正太にはわからないことがまだ、たくさんあります。日本は正太が生まれた頃に大きな戦争をしていました。とても大変な戦争で、たくさんの人が亡くなりました。正太が生まれたのは戦争が終わる二年前だったけれど、その頃、お国のためにたくさんの子どもを生みましょう、ということになって、正太と同じ年の子どもがたくさん生まれたの。そして戦争が終わって平和な時代になって、その子どもたちがみんな小学校に入ることになったら、あんまり大勢でお勉強する教室が足らなくなってしまいました。そこで、みんなが勉強をするには、一日に一回では足りなくて、一日に二回に分けなければ、ならなくなってしまったのです。でも今日は正太たちが1時からで、明日はいつも通りに8時からだから、我慢しなければね」

 正太には戦争中にお国のために生まれてきた自分が、なんで二部授業になるのかはっきりは飲み込めなかったが、子どもがたくさん生まれたのは戦争のせいだったということは、新しい知識だった。

 正太は、母親のつくってくれた昼ご飯を食べ、時計が12時を指すのを待っていた。

 そうこうしているうちに玄関の前の道がにぎやかになってきた。  

 その声につられるように正太は今日、二度目のランドセルをしょって勝手口から元気よく飛び出す。

 玄関下の石段を下りると、同級生たちがにぎやかに話し声をあげながら学校に向かっている。

 いつもの風景を見ながら、正太はさっきの人っ子一人いなかった通学路を思い浮かべていた。

 それはやはり、この世の中から誰もいなくなり、自分一人だけが取り残された、心細さと恐怖を思いだして、正太は思わずブルッと身体をふるわせた。