自転車2号

いいことは...。

 いいことは、いつも突然にやってくる。

 それは、正太の父親の口ぐせだった。

 正太もその言葉が大好きだった。

 まだ早いと言われ続けていた月ぎめの小遣いも、予定より早くもらえるようになったし。 

 せがんでいたけれどなかななか買ってきてもらえなかった、少年雑誌「少年」も、父親が買ってきてくれたのは、ある日突然だった。

 そういえば、父親の職場見学をして、サラリーマンという仕事を確かめることができたのも、何の予告もなくやってきた。

 思い出しても数え切れないほど、いいことは突然やってきた。

 小学校4年生になって、正太はの毎日はすこしずつだけれど、忙しくなってきた。

 3年生から通いだした絵の教室に加えて、最近は習字の手習いに塾にもいっている。絵の教室は家から山の裾沿いに西の方へ歩いて20分ほど。習字の手習いは、駅の線路沿いの花屋の二階にあり、歩いて6分ほどだった。

 それ以外にも、英語の教室にも通い始めた。

 母親よりも父親の方が、これからは英語がしゃべれるようになっていないとならない、というこだわりがあったからだ。

 町役場の前の坂を下りた途中にある教室には、正太の同級生も何人か通ってくるなど、けっこうな人気だった。

 それぞれ正太の足で通うのに時間がかかるわけではないが、それはそこ正太には正太なりのいいぶんがあった。

 いわく、学校で遅くなると、急いでいかなければならないから、「ボク、自転車がほしい」となる。

 正太の家には、自転車が一台あった。

 もちろん大人用で、重い。自転車の製造会社はミヤタだった。

 無骨で頑丈な一般的な自転車に比べるとハンドルやサドルはスマートで、色もほかは黒一色なのに、淡い緑色でサドルは茶色い革製でおしゃれだった。

 主に母親の買い物用であったが、兄や姉も市内の友だちの家に行くときや、もちろん父親も映画を観に行くときに乗っていった。

 正太には、まだ乗れない。

 第一、玄関の下にある石段が急なので、自転車を道路におろすことすらできない。

 大人用の自転車に乗るには、三角乗りという特別な技を身につけなければならない。大人用の自転車の前輪と後輪の間の三角フレームに、器用に右足を差し込みペダルを踏み、左足でもう一方のペダルを踏んで、バランスをとって前へ進むのだ。

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 大人の自転車に三角乗りして、放課後に野球をしにきたりする同級生が正太は、うらやましくてしかたなかったが、その三角乗りがどうしてもできない。

 かといって、子ども用自転車というのは、自転車屋にも売っていなかったし、まちでも滅多にみかけない。

「正太は、三角乗りもできないのに、子ども用自転車なんてぜいたく、せいたく」と例によって小さい方の姉が、声をあげて反対する。

 「でも」

 「はいはい、でもなんですか?早く答えてごらん」

 ますます憎たらしい。

 「でも、ボクだって自転車乗りたいもん」

 「だったら三角乗りをおぼえればいいじゃない」

 正太ができないことを知っていて、さらに嫌みたらしくいいつのる。

 「お姉ちゃん、いい加減にしないさい」

 母親が止めなければ、果てしない言い合いがつづくことになる。

 「お母さんは正太に甘いから、正太はつけあがるのよ」

 「でも、正太の自転車に乗りたいというきもちも、大切にしてあげないとね」


マーちゃんのお父さん

 マーちゃんと言うのは、正太の友達で本名は雅昭という。

 正太が、小学校から帰ってきて家の前までくると、そのマーちゃんの父親が、玄関下の石段の前で、正太の方に背を向けてしゃがみ込んでいる。なんで後ろ姿をみただけでマーちゃんの父親だとわかるかというと、その服装と頭にかぶっている帽子だった。

 見慣れた灰色の上下と同じ色の帽子は、自転車屋の制服だった。

 「おじさんこんにちは」正太は後ろから声をかけた。

 「おっ、正太か、お帰り」

 太い黒縁のめがねの奥で、優しい目が笑っている。

 「おじさん、なにしてるんですか」

 「うん、おじさんは自転車屋だから、自転車を運んできて、いま調整しているところだ」

 よくみるとそこには、フレームが青い一台の小型の自転車がある。

 マーちゃんの父親の手には、青いペンキのついた刷毛が握られている。

 「上に行ってお母さんに、ただいまをいってからここへ下りてきてごらん。それまでには、きれいに色を塗ってしあげておくから」

 正太は、その自転車が自分の自転車であることを知って、飛び上がるように石段をかけあがり、勝手口にいそぐ。引き戸をあけるやいなや、「お母さん下に、マーちゃんのお父さんが自転車を持ってきてくれた」と大声で叫んだ。

 「そうよ、前から古い自転車でいいから子ども用のがあったらって、お願いしていたら、ちょうどいいのが見つかったって、さっき持ってきてくださったの」

 正太は、ランドセルを床に投げるようにして、玄関下に戻る。

 やっぱり、いいことはいつも突然やってくる。

 青い自転車は、もうすみずみまでペンキが塗られ、まるで新品のようだった。

 「ペンキが乾くには今日一日かかるから、乗るのは明日からだな。ブレーキやペダルは新しくしてあるし、錆もきれいに落として油をしっかりさしてあるから、大切に使えばまだまだ十分乗れる」

 マーちゃんの父親は、手につていたペンキなどの汚れをふきながら、正太にいった。


練習開始


 正太は、自転車に乗るのは生まれた初めてだった。

 乗れるようになるまでは、同級生などにみられないように朝早く、大願寺の庭に自転車をもっていって練習することにした。

 足は、かろうじて地面に着くけれど、いざペダルを踏むとなるとバランスがとれずに、前輪がゆらゆらと揺れて、ちょっと油断すると自転車全体が傾き、どちらかの足を着こうとしても、そのまま滑って自転車ごとひっくり返ってしまう。

 一日目は、その繰り返しで終わった。

 学校から帰ってからも練習したいが、同級生の目が気になるので、正太に練習を躊躇させた。

 「お兄ちゃんお願いがあるんだけれど」

 「宿題は自分でやること、お風呂の当番は正太の仕事」

 「そんなのわかってる。お願いというのは自転車の乗り方を教えてほしいの」

 「なんだ、そんなことか。よし、特別に教えてあげよう」

 ということで、正太はその翌日の土曜日に、朝早くから今度は小学校の校庭に自転車をもっていった。

 早朝の校庭には、誰もいない。

 「正太、自転車にまたいでごらん。後ろの荷台をおさえててあげるから、そのままこいでごらん」

 正太は言われるままに、サドルにまたぐ。

 後ろの荷台を支えてくれているので、多少ふらふらするけれどなんとか安定している。

 「ゆっくり押していくから、正太はペダルをこぐんだよわかった?」

 「うん、それじゃあ押してみて」

 兄が荷台に手をおいてゆっくりを前に押し出す。それにあわせて正太もペダルをこぐ。しかし、1メートルも行かないうちに、自転車は蛇行してそのままタイヤが横滑りしてしまった。

 「まだ手を離したらだめだよ、お兄ちゃん」

 「でも、手を離さないといつまでたっても、乗れるようにならないよ」

 「だからぁ、ボクがいいっていうまではなさないで」

 「よし、わかった」

 今度は、少し長く荷台をつかんだまま、いっしょに兄は自転車と走る。

 「離すよ、いいかい」

 「まだまだまだ、もう、いいよ」

 といった瞬間、自転車はまた蛇行して横滑りした。正太はなんとか右足をついて自転車を支える。

 「いいって言う前にはなしたでしょう」

 と正太のほっぺたが膨らむ。

 「正太、教えてもらうんだから、そんなに怒ったらだめだ。いいかい、お兄ちゃんがしっかり荷台をつかんでいるから安心して、正太は前を向いてしっかりペダルをこぐことだけを考えてごらん。わかった?」

 正太は必死だった。兄に注意されてからは、なんど滑ったり転んだりしても、前を向いてひたすらペダルをこいだ。

 もう何回繰り返したか分からないほどになったそのとき、正太の自転車はまっすぐに走り、走り、走り校庭の真ん中から端まで、走りきった。

 「お兄ちゃん、できた」

 止まった瞬間に自転車は倒れたけれど、正太は立ち上がって、大きな声で叫ぶ。

 「正太、もう自分一人で乗れるはずだ。やってごらん」

 兄は両手を口に当てて、大きな声でいった。

 兄のひとことに励まされるように、正太は今度はひとりでその場からペダルをこいだ。最初にはふらふらしていたけれど、やがてしっかりとまっすぐ進むようになり、兄のところまで帰ってきた。

 「すごいぞ。正太、もう自由に乗れるね」

 「うん、お兄ちゃんありがとう。僕、自転車に乗れるようになった」

 自転車に乗れるようになって、正太はまたひとつ上級生に仲間入りができたように思えた。

 

 正太の自転車の後輪の泥除けには、正太の名前と2号という数字が白いペンキでかかれている。マーちゃんの父親が、ペンキが乾いた翌日にやってきて、「正太のうちには自転車がもう一台あるから、この自転車は2号ということだ」といいながら書いてくれたものだった。








 


 




 

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