さよならテレビ


P2020052.JPG

友人のMさんにこの映画を勧められ、我が街の自慢である小さな映画館「ポレポレ東中野」で観てきた。ガラガラだろうと予想していたら、15分前だというのに大勢の人が並んでいるではないか。整理券は69番。100席しかない椅子は上映時に埋まった。グルリと客層を見渡せば、問題意識を抱えているような顔立ちばかり。久々にある種の緊張を覚えた。

テレビは何を伝えているのか?東海テレビは、ドキュメンタリー番組を劇場版にリメークして、いくつもの話題作を提供している。(一昨年、ここで観た「人生フルーツ」もその一つ)。今回は自社の中にカメラを入れて、報道の裏側を映しだした。

上映中に起きる失笑、ため息、沈黙(当たり前か)・・それはやがて、同志達と一緒に観ているような安心感と浮遊感に変わっていく。

見終わった人たちがゆっくりと腰を上げていく。皆んな何かを話したいような顔して、ぞろぞろ出口に向かっていく。咀嚼して考える時間が必要、そんな感じだった。

私たちはすっかり慣れてしまっている。薄っぺらな番組を観て、ハラハラしたり笑ったりしながら、予定調和の安心へと導かれていくことに。いつしかそれを許容し、その先にあるもの、その裏にあるものを求めなくなった。それ故に、問題意識は希薄となり、いざとなったら社会の中から起きるから大丈夫だと思っている節がある。

今やツイッターなど個人が社会に影響を及ぼせる時代(トランプはメデイアは嘘つきだとさえ言っている)となり、メデイアは、その存在意義が問われているようになった。
そして私たちも情報を監視する・見抜く良識や見識を問われている。

東海テレビの「報道の使命とは」にこんな項目があった。
・事件、事故、政治、災害を知らせる
・困っている人(弱者)を助ける
・権力を監視する

私たちも、テレビを監視しなくてならない。


P2020063.JPG

コメント

 面白さふな内容ですね。久し振りに見應へが有ったのではないですか。僕が卒業した昭和30年は民間テレビ局がぼつぼつ出始めた頃でした。僕は矢張り出來たての日本短波放送(現ラヂオニッケイ)に入り、報道部のリライターをして居ました。

丁度、砂川闘筝をやって居て、取材に行った時、デモ隊に揉まれて其の頃未だ道端にあった共同のゴミ箱の上に上った事を昨日の樣に想ひ出しました。
兎に角、世間の一般の人はそこいら中に行かれる譯では有りませんから、世間で起きて居る事實を報道して、今、何が起きて居るか解って貰ほふ、と言ふのが放送局の使命と思って居ましたし、テレビ局が出て來て、目で見られる樣に成った事は更に訴える力が何百倍も強くなった、と喜んで居ました。

今は報道よりも時間潰しの爲に、くだらないお笑ひ藝人に高い出演料を拂ってどれだけ澤山食べられるか、なんて馬鹿馬鹿しい番組を作って居るのだから、皆に見放されて行くのは當然でせう。

A)
骨のある映画でした。
この映画がロングランされていることが、救いのような気持ちになりました。

リビングからお笑い芸人の笑い声が聞こえてきたら、
家庭平和のために、近づかないようにしています(笑)。

テレビの笑いの質がヒドイですね。
誰か一人を、みんなで弄って(今風に言うと)、笑いをとる。
弄られる方も解っているから、アホをしたり、最後は反抗したりと
予定調和の低俗な笑いの番組が多いです。

それが、一般の人たちにも広がってきている。
そんなんでいいのでしょうかね。

視聴率の取れない出来事は、なかなか報道されません。
沖縄の基地の問題、原発や被災地の現状、などなど
オーストラリアの森林火災は、イギリス、フランスのテレビでは環境問題に言及し、危機感を持って伝えられています。日本では、コアラの火傷になってしまいます。
民度の違いを感じずにはいられません。

正しく怖がる。
これを感じ取れなくなっているようです。


2020年2月 5日 18:39 | 雅蘭洞英齋居士

コメントの投稿

トラックバック

トラックバックURL: http://1c.3coco.info/mt-tb.cgi/2830