2021年3月

ゲンシュ


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ゲンシュと聞きくと、つい原酒の方を思い浮かべてしまう。これはチューリップの原種。正式名は、「クルシアナ ペパーミント スティック」。
カラフルで可憐なチューリップの祖先は、こんなシンプルな姿だった。先日に訪ねた森田オープンガーデンの一角に咲いていた。
調べると、16世紀、原産地のトルコからオランダに渡り、改良が加えられて今日の姿になったとあった。


玉川上水を歩く


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高齢の、ではなく恒例の、月イチの山の会ORMACの12名は、先週末玉川上水沿いをハイキングした。桜と新緑を愛でながら、足湯に使ってランチして、フラワーガーデンでは花を愛でながらカモミールティをいただいた。

玉川上水は、高低差は100mでわずか21センチという高い土木技術で勾配が作られている。だから川音はいたって静かだ。耳を澄ますと涼しげなが聞こえてくる。堰堤の花を撮れば、川面が映りこんで長閑な一枚となる。皆に遅れながら、春うららを楽しみ歩いた。


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まさに黨が立ってしまった蕗の薹

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土がむき出しの箇所がある

数年前、多摩川の羽村の堰から四谷の大木戸までの約43キロを何度かに分けて完歩した。思ったのは、よくぞ完成させて江戸の飲料水を確保したものだということだった。途中、土がむき出しの壁面を眺めては往事を偲んだ。


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株を下げてしまった一枚


桜往く


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神田川の淵はもう花吹雪

まだかまだかと待っていたら、もう終わりだよ、と云っている。待ち遠しかったものは、いつだって過ぎゆくのが早い。放物線のような軌道を描いてはくれないのだ。

待つという時間を、充分に楽しんでいたのだから、惜しむことも愉しもう。


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花筏のカーペットでスヤスヤ



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つい桜に目が向いてしまいがちだが、見上げるとケヤキには、新緑の萌。これから暫くの間、ケヤキがもっとも美しく映える。なぜか?

それは、空に打たれた投網ように黒々とした枝の美しさが、新緑によってより強調されて見えるからだろう。裸木のときは、さほど気に留めなかったケヤキの枝ぶり。それが水彩絵の具の淡い緑が加えられることによって、生命が漉きこまれたかのようにイキイキし始める。

画用紙に黒い幹といくつもの梢と枝を描きあげたら、水彩パレットの淡い緑を滲ませながら加えていくと、春にそよぐケヤキができあがる(はずだ)。


さくら色(2)


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カステラ屋さんのはいま一つでした


今年は、しっかり桜餅を食べようと思う。四季折々のなかでも桜餅ほど多くの人に愛されている和菓子はないだろう。愛でて、食べて、桜を楽しむ。大島桜を見つけると、つい葉っぱの匂いを嗅いでしまう。

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大島桜は花びらが少し緑色


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落花の上にはヒヨドリ


あの人には華がある、なんて聞くと、う〜んなるほどねと云いながら、大人になってきたような気がする。もしかしたらこの人も華があるのでは、と思っているのが、元横綱の北の富士(最近はこの人のコラムにハマっている)。相撲解説の舞の海が「北の富士さんは、何を着てもよく似合うし、色気がある」と云っていた。まさにその通りだと思った。

現役の頃から、相撲ぷりが好くて、格好がよかった。甘いマスクと均整の取れた体にマワシと紋付き羽織がよく似合った。それだけではない。いつも颯爽としていて、負けて土俵を去る時の姿だってよかった。

それに比べていまの力士は、下ばかりを向いて、負けるとまともに礼をせず、不貞腐れて土俵を下りる。負けの美学をもっと勉強しろと云いたい。「おい、遠藤、下ばっかり見るな。お前には華があるんだから、もう少しイキイキしろ」。話は脱線してしまった。

他にも北の富士似のなかにし礼や十八代目の勘三郎にも華があった。
そうか、もてる男には華があるのだ。


石岡映子展


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おっ、今日までだと気がつき、金曜日の夕方、銀座で開催されていた「石岡映子 グラフィックデザインはサバイブできるか」を観てきた。彼女は輝き続けたグラフィックデザイナーであり、もっと世に知られていいアーティストだ。毅くて靭やかな精神と感性をあわせ持ち、マルチな活躍をして時代を駆け抜けた。

二月、現代美術館で観た回顧展のタイトルは「血が、汗が、涙がデザインできるか」。このタイトルからでも、仕事への取組む姿勢が分かるというもの。


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「私、貴方ほどの努力をしていませんでした」と彼女の写真を見ると、思わず呟いてしまう。石岡映子は大学時代の夏休み、海や山にも行かず、ただ一人、部屋に閉じこもって絵を描き、粘土を使って造形物を創っていたという。自分は何者なのか、自分の中の熱気をデザインできないか、伝えられないかと摸索し、そしてまだ誰も表現していないモノを探し続けた。

銀座グラフィックギャラリーの一階スペースは、広くはないが、室内を石岡を象徴する赤色にまとめ、壁面は彼女がかつて話していた言葉を並べ、自身の声を室内に流すなど、広がりのある空間演出を施していた。

さくら色


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花を愛でながら酒を呑む。これ以上幸せなことはあるだろうか、と酒呑みは思う。しかし週明けに非常事態宣言が解除されると、人出とともに、コロナ吹雪も舞うのかもしれない。気をつけねば・・・。

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今日は昼飯の帰りに、和菓子店に寄って、桜餅を買った。大島桜の葉の香りを嗅ぎながらお茶といただく。これもこの時期ならではの至福。昼もよくて、夜も好い、春なのだ。

降リンピック


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新宿西口公園の太田道灌、伝説の一情景「久遠の像」


こんな像さえ批判の対象になりそうなオリンピック騒動が続いている。
思い起こせば、「トーキョウ」の決定に沸き返ってから、憑かれたように災いが続いてきた。まずは、国立競技場のコンペのやり直し。そしてエンブレムマーク騒動。コロナの発生。組織委員長の女性蔑視発言ときて、ボランティアの辞退、統括責任者の差別的プランへの批判。
昨年詠んだこの歌の信憑性が増してきた。


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「久遠の像」
道灌が武蔵野の原へ鷹狩りに出かけた折、にわか雨にあってしまい近くの農家に駆け込んだ。そこで蓑を貸してくれと頼んだところ、若い娘が山吹の枝を差し出した。蓑は借りれず花では雨がしのげぬと、怒って雨の中を帰った。城でこの件を話すと、家来の一人が次のように説明した。
歌に「七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき」とあります。「みのひとつだになきぞかなしき」と蓑ひとつない貧乏を山吹の花にたとえたのです。それを聞いた道灌は不明を恥じ、歌道にいっそう精進するようになった、というエピソード。

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娘が差し出す扇子の上には、ヤマブキの実




コロナを詠む


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コロナを詠んでいる詩歌をよく目にする。会いたくても会えない、リモートによるやり取り、清潔の順守など、変わってしまった日常を詠んでいる歌が多い。

川柳なら笑ってしまうことも。

抱き上げた孫が一言 密ですよ
テレワーク気付いた会社のイスの良さ
出勤が運動だったと気付く腹
久々に家族が揃った在宅で

こちらは毎日新聞の「サラリーマン川柳」の上位作品から

会社へは来るなと上司 行けと妻

小生も昨年に早々といくつか詠んでいた。

↑ 写真の歌。ドット(●)を入れたのだが、分からなかった人が多かった。
英国製ワクチンに副作用がでたため、使用停止になった。すぐに出来るわけがない。慌ててつくるワクチンなんて信用できない。そんな思いを込めた。

いつまでも
新型なわけでなし
いずれ
新・新型 超新型 名乗って
やってくる

名前は違ったがやって来た。変異株と云うらしい。発生した国が命名されるている。この先いくつ出てくるのか。殺し屋みたいな奴も現れるかもしれない。

終息とは
全ての人が感染したとき
コロナ氏が
漏らす
安堵の息なり

長期戦になると思っている。京都大学の山中教授が、闘いは「長いマラソン」になると、コロナのHPを開設した。何をもって終息というのだろう。ン十年、かかるのではないか。共存共栄までに。

非常事態宣言が起きた頃に、詠んだ歌。

家呑み
不名誉連続記録を樹立させ
夫婦喧嘩
口聞かぬ記録も更新させた
コロナ維新

今は、この頃が懐かしい。


一寸先


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人生、一寸先は分からない。桜が開花しました〜とスタートするはずの月曜日、まさかの病院でお泊りコースになるとは・・・暇を持て余してこんな歌をつくっていた。

医療は進んでいる。次々にやってくる看護士は流れ作業の如く、手首のバーコードをピッと鳴らしては、血圧、採血、問診、点滴などを済ませると、データ入力をして立ち去ってゆく。

近くから聞こえる患者とのフレンドリーなやり取りに、いまを感じる。こんな会話が全国の病院で普通なんだろうと思いながら、将来、賢い患者をになるためにと、やり取りに耳を傾けていた。

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主役の座を奪われた桜たち

都市再開発


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都庁の西側にあった雑木林が整備されて、芝生が広がる公園になった。この動きはオリンピック決定後だから、予算が計上されて整備した違いない。ここには以前、路上生活者の人たちがいた。イギリスやブラジルでもそうだが、オリンピック開催に合わせて、路上生活者の人たちが都市空間から排除される。

子どもたちが元気に芝生を走り回り、親がそれを見つめる。ここに生活者がいたことを誰も知るよしはない。


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隣接した建物の中にボルダリング施設があった


3・11


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五年前に訪ねた石巻港


十年前の今日を思い出す。大きな揺れが起きてしばらくすると、眼下の新宿通りを徒歩で帰宅する人たちが列をなしていた。現実のことなのに、違う世界にいるような不思議な光景を茫然と見ていた。

そんなことを思い浮かべながら、東北の歌人、斎藤梢さんの歌を読み返した。

 この力どこにあったか「津波だぞ」の声にかけ上がる立体駐車場

 十二日の朝日を待ちてペンを持つ 言葉は惨事に届かぬけれど

 桜餅のさくらの色の懐かしさひとりにひとつの配布に並ぶ

 夜のうちに溜まりしものを文字にして書き始めゐる今朝も車中に

 推敲はもはや必要なくなりてただ定型に縋り書きつぐ

書かなければならないという思いが、当時の歌から伝わってくる。エネルギーが凝縮されたまま残っていて、当時の景色も立ち上がってくる。
思いは言葉となって残る。それが歌だ。


 かなしみの遠浅をわれはゆくごとし十一日の度(たび)のつめたさ

 ベランダと春の海との間には冷たいままの更地ざらざら

震災を背負って、斎藤さんはいまも詠み続けている。


コブシ


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咲いてるぞ〜〜とコブシを上げていました。

写真展


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こんなちょっとした空間に身を置くだけで、気分転換になる。人生とは「人と本と旅」と誰かが書いていたけど、それに「酒」も加えるべきであると、鼻息をちょっと荒くしてサッポロビアステーションへ向う。

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写真展が好きなのは、一枚の写真から時空を超えた旅を始められるからだ。記憶を引き出したり、想像の世界に想いを寄せたりと、いっとき浮遊していられる。白川氏の山の写真から「羅臼岳・・・20代での失恋登山・・・100名山のスタート・・・ORMAC・・・玉川上水・・・参加何人だろう」モグモグ・・・このロースビーフ、もう少し美味かったのではないか。


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つい立ち止まって、首の角度を決めたりして・・・

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ロバート・キャパのノルマンディ大作戦

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いつかは行きたい植田正治写真館

白川義員写真展


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美術館までのこのアプローチが好きだ


週末、東京都写真美術館で開催されている白川義員の「永遠の日本」を観てきた。見たこともない日本の山々の写真。感想は、圧巻の一言。山や気候、天候の知識、そして写真のあらゆる知識・技術を知り尽している人でなければ、捉えられない写真だった。僅かな光の動きを読んで、一瞬を切り取るために託した時間、そして運。カメラマンの情熱は素晴らしい。

白川氏は普段のインタビューからもいいしれぬ迫力が伝わってくるが、今回の写真、コメントを読み、この方は「理数系に強い岡本太郎」であると確信した。

「かつて誰も撮ったことのない写真」というの拘りが伝わってくる。彼のエネルギー、バイタリティはあらゆる人を動かして、渾身の一枚を生み出してきたのだろう。スタッフの協力、努力も伝わってきた。

全作品のコメントを読んでいたのは、小生だけだったかもしれない。全てを熟読しての約二時間。展示されている山々の3/4には登頂していたので、引き込まれるように観てしまった。そのお陰で帰宅してからコメント集を読み直していくと、ほとんどの写真が、再び目に浮かんだのには驚いた。


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続きは4月からだ


22世紀


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朝、駅のホームに立っていたら、園児たちが並んでこちらを見ていた。二才くらいの子たちだろうか。数えると八人、みんな金網をがっしと両手でつかんで、走りゆく電車を真剣な眼差しで見ている。特急、特快、鈍行、通り過ぎるたびに喜んでいる。いいなあ、なんでも新鮮に映るんだろうなあ。

そうか、この中の数人は22世紀の扉を開けるのかもしれない。22世紀。
さて、君たちを待つ22世紀は来るのだろうかと、不意に暗い気持ちになった。

秋田犬


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この犬を見ると、ブサかわ犬として評判をよんだ「わさお」を思い出す。そして飼主のお婆さんがこの犬に似ていたのも可笑しかった。10年ほど前、青森の岩木山を登ってから五能線に乗り、白神山に向う途中に「わさお」の住む鯵ヶ沢駅で、途中下車しようかと迷ったことがある。山の予定が決まっていたので諦めた。

そうだ、ロシアのスケーター、ザギトワにもらわれていった「マサル」はどうしているだろう。ネットで調べると、あの子犬はとてつもなく大きくなっていた。そして昨年、日本の寝具の会社と広告契約(ザギトワも一緒)を交わしていた。
マサルと命名したのは「勝る」をヒントにしたのだろうが、ご主人に勝るとも劣らない活躍だ。



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旅に出ていない。旅をしたい。人生に無くしたくないものの一つ、それは旅かもしれない。旅のどこがいいのだろうかと自問する。目的地にいくよりも、移動しているときが楽しいのかもしれないと思う。車窓に移りゆく風景を眺め、地図を広げたり、本を読んだり、そしてビールを呑んだりと開放されいく感覚が沁みわたっていく。

以前、週末にメールや電話が入ると、「いまどこですか?」と聞かれることがよくあった。家では週末家にいると、起きてきた娘が「えっ、なんでいるの?」と云った。古い手帳やブログを開くと、いつもどこかにいた。回遊魚は、いま養殖池の中でフラフラと泳いでいる。


謙る(へりくだる)


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先日、テレビのインタヴューで、おかしなことを云う人がいた。「テニスをさせていただいているのですが・・・・」。「なんじゃそれ!」「テニスをしている、だろう!」とテレビに向って叫ぶ。なんでそこで「謙るんじゃ」。

最近、よく聞くフレーズ。「◯◯◯◯をさせていただいているのですが・・・」。分かっているのだろうか。それ、謙虚とは違うよ。どこに向って気遣いをしているのだ。違和感を感じる。

「お仕事をさせていただいているのですが」「ご飯を食べさせていただいているのですが」仕舞には「愛させていただいているのですが」と云うのかもしれない。

こういう人は、拒絶するときも笑顔で優しく云うのだろう。
「お断りをさせていただいているのですが・・・」

ん!?、これは正しい使い方か。


スノームーン


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やれやれようやく一週間が終わったと、週末、震えながら四谷駅の交差点に立っていたら、冴え冴えとした月が、くっきりと浮かんでいた。
スノームーン。う〜む、なんとなく・・・。
二月の満月。アメリカでは、そう呼ぶらしい。