家出人と宿主
瀬を早み・・・われても末にあはむとぞ思ふ
今朝の福岡伸一さんのコラムを読んで心がときめいた。この歳になってときめくなんてことは、そうあるものではない。まずこの歌を読んでほしい。
我慢ではなく
辛抱かもしれない
撲滅ではなく
共生
共存なのかもしれない
ある歌会の題詠「辛抱」で詠んだ歌だ。
コメントを求められれば、人生観や自然観について語ることになるけど、どう話していけば良いだろうと思っていた。最初の二行についてはこうだ。
人間の英知は、私たちに快適で心地の良い暮らしを提供した。しかし今度のコロナウィルスの試練は、人間が私たちの社会が、いかに脆弱であるかを突きつけた。
楽観や期待を込めた我慢だけでやり過ごせない。先を見据えた辛抱する覚悟が必要なのではないか。それにしてもウィルスが人間を脅かすというのは、何か意味があるのではないか、だった。
喩えば・・・驕ることなかれ、人類
人は自然を克服することはできない。この地球という大きな生命体の中において、ウィルスもまた存在する意味や価値があるのではないか。そんなことをぼんやり考えてこの歌を詠んだ。
福岡さんはこう解いていた。
いくつかを紹介すると
・ウィルスは高等生物の遺伝子の一部が外部に飛び出したもの、ウィルスはもともと私たちのものだった(ひっくり返るくらい驚いた)。
・家出人を宿主は優しく迎え入れている(ここは面白く、納得できた)。
・おそらくウィルスこそ進化を加速してくれる。
・宿主に気づかれることなく行き来を繰り返し・・・
コロナウィルスも彼が唱える動的平衡の理論に組み込まれてゆく。痛快で分かりやすく様々な疑問がストーンと落ちていった。結びはこうだ。
かくしてウィルスは私たち生命の不可避的な一部分であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウィルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。
歩いて、感じて、言葉にしていく。こんな楽しいことが人生の一つなのではないか。今日は偉そうにそう言えるような気がしている。
2020年4月 3日 12:45 | カテゴリー: 歩キ眼デス3
コメント
僕もウィルスが生物細胞の一部から飛び出したものなのか 細胞に成る前の段階の半生命體なのか、色々な専門家に訊いても「未だ謎なんですよ」と言ふばかりで、「大家と居候」とか「DNAかRNAかどちらかしか持っていない半端者」としか答へて呉れない。
ただ、ウィルスが居なければ人間も居なかったでせう、と言ふ事だけは心に残った言葉だった。
ウィルス學者は皆「人間とウィルスは共存共榮をせざるを得ない」と言って居る事では共通して居る。前の戰争中に、焼け出されて人の家に居候して居るのに、子供だけは増やす厄介者の親戚が居たが、ああ言ふ人がウィルスだったんだ。その人がやっと家を見付けて引っ越した時には本當にほっとした。
A)
ウィルスが居なければ人間も居なかった・・・
心に響く言葉ですね。
人が進化していくには必要な情報やメカニズムを運んで行き来している。
生物学者の目で捉えると、生存、進化していくために何らかの働きをしているとなりますね。
それにしても宿主と居候の喩え。
先日のなぞときのように可笑しいです。
コロナは2週間くらいですが、厄介者の親戚の方はどれだけ滞在していたのでしょう。
2020年4月 3日 13:30 | 雅蘭洞英齋居士
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