ああ、上野駅


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道路が消えて公園と直結になった上野駅公園口


半世紀前、貧乏学生が故郷札幌に帰ろうとすれば、まず上野駅から青森、そして青函連絡船に乗って函館、そして札幌へ、最短でも16時間。待ち合わせが悪いと丸一日の辛苦を味わった。年末であれば、席を確保するために、まず早くに行って並ぶ。あるいは臨時列車を狙う。いずれにしても上野駅は大混雑した。
指定の列車が入線するまで、上野公園の特設テントに移動させられ、ひたすら出発を待った。多くの人は、荷物とお土産を抱えていた。

列車が動きだすと、仲間同士で酒を呑みはじめ、ご機嫌な方言が聞こえてくる。福島弁、宮城弁、岩手弁、そして最後に津軽弁。津軽の人たちは大人しく、青森県に入ってから喋りはじめていた。

そんなことを思いだしたのは、上野駅の公園口が大きく変わって、道路が消えていたからだ。駅そのものも大きく変わってしまい、昔の面影はすっかり無くなってしまった。


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テントの奥にぶら下がるのは、行き先などが表示されているプレート

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年末の上野駅は熱気に包まれていた


方言といえば、こんなサイトが


コメント

 随分昔の寫眞をお持ちでしたね。懐かしいです。
「上野驛から乗って行く」と言ふのは「東京驛から關西の方へ乗って行く」と言ふのとは、雰圍氣が全く違って、行樂とかでは無く、何處か遠くの田舎とか故郷へ行く(歸る)と言ふ雰圍氣を強く感じました。

 僕が暫く勤務した事の有る群馬縣の澁川も上野から行くのですが、昭和30年代は、新幹線など無くて昔の客車でした。お米を背負った闇屋等も居て、檢閲で捕まると米を没収されて居ました。闇屋の中には品の良い老人なども居て、昔は上流階級の老人だったのが敗戰で闇屋になったのかなぁ等と想像させたものです。

 今や上野から始發と言ふ列車や新幹線は無くなり、全部東京驛始發になりましたから、上野驛に漂って居た、何處か遠くへ行く、と言ふそこはかとない寂しい風情と情緒は全く無くなってしまひました。近代化とは世間の風景から詩情を取り去ってしまふ事なのでせうか?

A)
上京して友人との待ち合わせ場所「西郷さんの銅像」で佇んでいましたら
お兄さん、良い仕事あるよと声をかけられました。

えっ、ありますかと付いていったら、
どこかのタコ部屋にでも放り込まれたのかもしれません。
そんな怪しい空気がまだ上野界隈にもありました。

うえの〜うえの〜、とかさっぽろ〜さっぽろ〜の電車が着くたびに流れるアナウンスは、
どこでもいつでも郷愁を感じたものです。
チッキ、赤帽、朝から呑める食堂とか、駅は人や荷物が交流する要として、いつも活気がありました。

東京から西へ出る車輌のことは分かりませんでした。
上野よりもきっと垢抜けしていたんだと思いますよ。

近代化とは世間の風景から詩情を取り去ってしまふ事なのでせうか?
このフレーズが沁みますねえ・・・

2020年10月21日 15:40 | 雅蘭洞英齋居士

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