タトゥー派
佐久間象山や与謝野晶子も入ったという熊の湯
オリンピック競技を見ていて気づくのは、タトゥーを入れた選手の多いこと。ほとんどの競技で彼らを見かける。そのなかでもよく見かけるのが五輪マーク。出場の記念に、あるいはメダルを目標にと、手首や足、肩、そして腕に彫ったのだろう。
タトゥーはオシャレという感覚から取り残されている世代なので、どうしても違和感はぬぐえない。いまやそれは、少数派からタトゥー派にならんとしている。
2021年8月 4日 15:21 | カテゴリー: 歩キ眼デス3
「歩キ眼デス」。これはいったいなんであるか!?
WalkingとWatchingを合わせた造語なんです。もう20年続けているWalking。
歩きながらの「見た・思った・考えた」を書き記していきます( ^~^ )/
アルキメデスの原理よろしく、ソコに身をおいて、どれだけの発見が溢れてくるか楽しみです。(^ ^♪
Profile 五行 はこべば
コメント
僕もタトゥーと言う片假名言葉には違和感が有る。はっきり
入れ墨又は彫り物,刺青、と言やぁいいじゃないか。と言ひ度くなる。我國では眞っ當な人間は入れ墨なんかしない。裏社會の人間が強がって背中一面に龍とか三國志の豪傑や岩見重太郎の狒々退治、毘沙門天とか色氣たっぷりの辨財天を彫ったもので有る。 其は或意味では藝術の域に達して居た。
ちんけなタトゥーとは全く違ふ。タトゥーは昔、戀人同士が親指の根本に彫った「入れ黒子」のやうなもの、或ひは二の腕に彫った「何々まゐる」と好きな相手の名前を彫ったもののやうなもの、なのかも知れない。然し、唯、漫然と何かを汚らしく描きつけた仇花のやうに見えてしまふので有る。鑑賞の對象には價ひしない。
A)
殺されてた男の背中には、ひょっとこの刺青があり・・・
そんなニュースを聞いて、何か虚しくなった記憶があります。
学生時代、友人の通う銭湯に入ってビックリ。
半分は、刺青の人たち。とうとう浴槽には入れませんでした。
まるで刑務所の中にいるような感覚で、今でも鮮明に覚えています。
全然威圧感はないのですが、なんでしょうね、
違う世界の入口で、戸惑っていたのかもしれません。
あれをオシャレという感覚にはなれないです。
生醉ひのあゆみに似たり菅政權 あっちへふらふらこっちへふらふら
紀月人さま、いいですね〜この歌。
三首とも入っていました。
次回は、参加いたします〜
2021年8月12日 12:10 | 雅蘭洞英齋居士
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