デパート


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咲くものがあれば、散ってゆくものもあり。全国のデパートが閉店に追い込まれている。昨日の渋谷東急デパートばかりでなく、帯広市のデパート「藤丸」もそうだ。歴史は、122年。明治33年の呉服屋から営業を続けていたが、売上が低迷してついに閉店となった。

涙を流している人がいた。想い出が一杯詰まっている大切な大きな箱が、無くなるのだ。藤丸で展覧会を開いたことのある友人が、嘆いていた。展覧会を開いたデパートが次々に無くなってゆくと。

デパートといえば、父と出かけ、買い物の帰りに屋上で遊び、食堂でバナナパフェを食べるのが楽しみだった。「マチに出かけるぞ」と言われると、ウキウキしたものだ。

デパートはいつのまにか置いてきぼりになってしまった。
昭和がまた一つ、消えていく。

コメント

 昭和の子供に取っては、デパートは懐かしい特別の場所であった。浅草に住んで居た頃には、浅草の松屋は直ぐ近くに有り子供でも歩いて行かれる距離にあった。それで、普段着で行けるデパートであった。屋上には豆自動車や汽車が有って、遊び呆けたのは何處の子供も同じである。
 日本橋の三越とか、銀座の松屋へ行く時は餘所行きの服を着て出掛けた。一寸、身近な浅草の松屋とは違ふのである。浅草の松屋も、日本橋の三越も昔は係の番頭さんが居て、買物は全部番頭さんの所へ纏められ、其の日の内に家に送られて來た。
 其の内、戰争が激しく成って來ると、デパートの品物も種類が減って來て、軈て買物の制度そのものが變り、番頭さんも戰地へ行ってしまった。戰に負けて、デパートも進駐軍のダンスホールに成ったりして居たが、經濟の復興に伴ひ、息を吹き返したが、ユニクロ等の新興勢力や高級専門店等に押されて、次々に姿を消しつつ有る。是は日本だけでは無く、世界的に見ても、百貨店と言ふ商業形態が現代には適合しなく成ったのだらふ。寂しい事だが仕方が無い。

A)
思い出しました。マチに出かけるぞの声がかかると、他所ゆきに着替えさせられました。
同じですね。それは特別なことであり、子供にとっては、非日常への第一歩だったのでしょう。
父の買い物の間は、おやき(回転焼き?)の出来上がる機械を飽きもせず、眺めていました。

札幌には、大きなデパートが二つあり、三越と丸井。
市民は、丸井にだけさん付けをしていました。
今でも、そう呼ばれているのかもしれません、丸井さんと。

帰郷の際に、丸井さんに入って、当時を思い返そうとするのですが
どこを探しても見当たらないですね。フツーのデパートです。

デパートに並ぶ万年筆、時計、カメラなどは、年を重ねて順に手に要れるものでしたが
いまは、ネットで誰でも買える品物になりましたし・・・

夢を魅せられないのですから、消えていくのも仕方ないのかもしれません。
カタチあるものが消えていくのは、寂しいものです。

2023年2月 2日 13:32 | 雅蘭洞英齋居士

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