もの想う秋
朝ドラの「原爆裁判」の判決文を聴いているうちに、言葉のもつ力と品性と尊さに胸を打たれた。読まれていく判決文に、日本国憲法が発布された直後の時代であることも伝わってきた。
以下、昭和38年「原爆裁判」の判決主文の前に読みあげられた判決理由の要旨
当時、広島市には、およそ33万人の一般市民が、長崎市には、およそ27万人の一般市民が住居を構えており、原子爆弾の投下が、仮に軍事目標のみをその攻撃対象としていたとしても、その破壊力から、無差別爆撃であることは明白であり、当時の国際法から見て、違法な戦闘行為である。では、損害を受けた個人が、国際法上、もしくは国内法上において、損害賠償請求権を有するであろうか。残念ながら、個人に国際法上の主体性が認められず、その権利が存在するとする根拠はない
人類始まって以来の、大規模かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって、被害を受けた国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう
戦争を廃止、もしくは最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望である。不幸にして戦争が発生した場合、被害を少なくし、国民を保護する必要があることは言うまでもない。国家は、自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである
原爆被害の甚大なことは、一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策をとるべきことは、多言を要しないであろう。しかしながらそれは、もはや裁判所の職責ではなく、立法府である国会、および行政府である内閣において、果たさなければならない職責である。それでこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法、および立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長を遂げた我が国において、国家財政上、これが不可能であるとは到底考えられない。我々は本訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである
哀しくなる法の現実、「個人に国際法上の主体性が認められず、その権利が存在するとする根拠はない」。しかしながら、国が「救済策を講ずること」は責務ではなく「職責」であると伝えている。
要旨の最後に「政治の貧困を嘆かずにはおられないのである」とある。首長が変っても、なんら変わっていかないこの国の今を、まるで憂いているかのようだ。
この夏、4時間37分というドキュメンタリ映画「東京裁判」を観た。この感想は、また時間をおいてしたいと思う。
2024年9月10日 19:35 | カテゴリー: 歩キ眼デス4
コメント
読ませていただきました。
お時間をおかれて、
感想もお待ちしております。
このような事に対して、真剣に向き合ってくださる人がどのくらいいるのか…と考えさせられます。
A)
こんな時代を通して今の社会がある、いろいろと考えさせられます。
8月は、先の大戦のドキュメンタリーをかなり観ていたので
きちんと歴史認識をしておこうと思いました。
もの想う秋、なんてタイトルをつけましたが、まだまだ夏ですね。
2024年9月10日 23:47 | ゆみゆみ
この頃は、何種類かの色、全部の百日紅の花が好きになりました。
A)
サルスベリは、開花期間が長いので、楽しめます。
近所では、ノウゼンカズラが、次次に咲き続けています。
2024年9月11日 12:13 | ゆみゆみ
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