山よ
中野区もみじ山文化センターの裏庭
勿体ないなあ〜と雲ひとつない空を眺めながら、深緑に変わった樹々の中を歩いていると、山への想いが高まっていく。そんなときに、山の事故のニュースが入ってきた。
先月、今月と八ヶ岳、焼岳、妙義山で起きた道迷いや滑落のニュースだ。自粛中にもかかわらず・・・と記されている。
「なんでこんな時に・・・」。いつの間にこちら側の人間にすり替わって、いかんよなあ〜。
全国の山屋さんたちも今は忸怩たる思いで終息を待っているはずだ。いつか山小屋でこの年を語り合う日が、きっとくる。仕方がない。娑婆の花を眺めながら想いを募らせ、せめて心だけでも山へ飛ばそう。
代々木公園
明治神宮の森
標高44メートルの箱根山五合目のベンチ
2020年5月15日 13:43 | カテゴリー: 歩キ眼デス3
コメント
山なら密では無く、獨りで黙々と登るのだから、他人の世話にならないやうに、慎重に登って下山して來ればいいんじゃないですか?
最近、よく「新しい生活」と言ふ言葉を耳にしますが、ありゃ何ですか? 何時も外出はマスクを付けて、働き方はテレワークでとか言って居ますが、人間は働く時も集まってわいわい働く事、飲む時も肩寄せ合ってわいわい飲む事を望んで居る筈。
社會的距離を置いて机を配置し、云々(デンデンに非ず)。
これでは、まるで、地球では無く汚染された大氣に滿ちた遥か彼方の惑星に降り立った樣な感じではありませんか。それが「新生活基準」と成ったら悲劇です。我々は元の人間味溢れる生活に戻り度いのです。「新しい生き方」なんか望んで居ないのです。違ひますか?
A)
雅蘭洞さんからこのコメントが入った翌日に
自粛と言う正義の根拠はどこにあるのか?という社説がありました。
たしかに!です。
健全な選択がないままに強制されているのではを感じていました。
異常事態を「新たな日常」だなんて、とんでもない話です。
この論調を受け入れると、戦争に入っても彼は「新たな日常」と繰り返すでしょう。
苦しんでいる人たちを前にして、言える言葉ではありません。
先だって犬の頭を撫でて、非難されたことが全く骨身に沁みていない。
というか、分からん男なんでしょうね。
こんな正しさに、強制されたくない。
それぞれが配慮し、元の生活を目指していくのが正しいのだと思います。
2020年5月16日 06:07 | 雅蘭洞英齋居士
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