写真を詠む


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先週末は吟行歌会。今回は「写真を詠む」をテーマに、東京写真美術館で開催されている篠山紀信の「新・晴れた日」と世界報道写真展を観て歌を詠んだ。

社会性のあるテーマで企画されている写真展は、受け手はまずそれを咀嚼する行程を求められ、歌づくりが難しくなりがちなのだが、そこは達人ばかり。さまざま写真はこんな言葉になった。


芸術と報道の
境目に
ぽかり浮かんで
紀信の「ATOKATA」
震災を語る

キャプションは
見るまい
この一枚に
あふれでる
熱情をあびよう

ニクソンの
左目は
ヒラメより
死に近い場所に
たどり着いた

彫刻を
彫る眼差しで
お尻を撮す
美しいを超え
物語を語り出す

ひとつのリアルから
人を通して発露される
映像
言葉
どれも無くしてはいけない

コロナで死んだ者も
介護される者も
ビニールで包まれて
ていねいに
抱きかかえられる

・小生の歌

朽ちるはずの真
果てるはずの虚(うろ)
を させてくれない
写真の
意地悪

紛争、抗争、戦争
知らないことは
幸せか
知ってしまうは苦痛か
写真は炙る(あぶる)


暑い日は、涼しい室内での絵画や写真、そして音楽会などがいいのかもしれない。



コメント

 山碧木さんの「意地惡な寫眞」はいいお歌です。
確かに寫眞は眞實を容赦無く寫し出してしまひますね。何も隠したり、氣を遣ったりしませんから。

 それと戰争、紛争、抗争。經驗しないほうがいいのか、したほうがいいのか? 僕は戰中派ですが、戰を經驗したからこそ争ひ事は武力で解決すべきでは無い、と言ふ確信を持って居ます。話や書物での知識では無く、日常生活の崩壊を強いられて運命まで變へられた事實を身を以て知ったからであり、學校の歸りにグラマン戰闘機に機銃掃射を浴び、トマト畠に逃げ込んで一命を取り留めたからでも有ります。アメリカ兵が相模湾から上陸して來る時に備へて、一人一殺の竹槍訓練を毎日させられながら、殺し合ひの無意味さを身を以て感じたからです。

A)
雅蘭洞さん、ありがとうございます。
二つの歌は、珍しく一席をいただきました。

朽ちるはずの真
果てるはずの虚(うろ)
を させてくれない
写真の
意地悪

写真は、本来、真実を映し、残すという役割をもっていますが
篠山紀信は、受け手にさまざまなメッセージを送ってきます。
それは、真実か、それは、現実か、それは、本当か。と。

いつまでも腐葉土にはならない葉っぱのごとく
その一枚は、問題提起をしたまま消えることなく残っていく。
彼が撮った作品をそう詠んでみました。

紛争、抗争、戦争
知らないことは
幸せか
知ってしまうは苦痛か
写真は炙る(あぶる)

こちらはコロナをはじめ、世界の国々で起きている
紛争、抗争、戦争の凄まじい映像を観ての思いです。
日本に生まれて良かったね、ではなく、対岸で起きている現実の多くを
私たちは、知らされていないままに生きています。
こうした現実をどう受け止めておくかは、大切なことだと思うのです。

報道写真展では以前、幸せな写真もいくつか選ばれていたのに
最近では、悲惨なものが多くなりました。

世界は間違いなく、負の時代に入ったように感じます。

ひょんなことから、戦争は始まりました。
それが、明日かもしれないと思っています。


2021年7月14日 12:12 | 雅蘭洞英齋居士

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