浅草界隈


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10日は、定例の吟行歌会だった。案内をお願いしているYさんと共に歌友六人、江戸の風情が残る浅草界隈を歩いた。

浅草は、江戸の頃よりもっとも賑やかな遊興地だった。一言でいえば、聖と俗がひしめき合う巨大なワンダーランド。神社やお寺があるかと思えば、芝居小屋、遊郭などもあって、男は吉原へ、女は猿若町の歌舞伎見物へ、というのが浅草の楽しみ方の一つだった。


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車屋のお兄さんとお客さま


今回、面白かったのは、浅草寺の子院の待乳山聖天(まつちやましょうでん)。ここは健康を祈願する場合、社務所で大根を買って奉納するという習わしがある。奉納された大根はふたたび境内の横に積まれ、心付けを納めれば持ち帰ることができる。


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皆さんどのくらいの心付けだったのかな?

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女性陣は、心付けを収めてご利益のある大根をいただいていた。人とモノと金が、上手く回っている浅草の姿はいまも変わらない。

「日に三箱 鼻の上下 ヘソの下」という諺をYさんが教えてくれた。かつて浅草界隈では、日に千両箱が三つ動いた。「鼻の上は、目で楽しむ歌舞伎などで、鼻の下は、口、つまり魚河岸で、そしてヘソの下は・・・私にはよく分かりません」とYさんは含み笑い。

こんな話にニヤニヤしながら、秋の半日、吟行歌会を楽しんだ。

お供物の
お下がり大根
一本買って分けようか
ご利益も
等分に       Uさん(一席)

コメント

 浅草、懐かしい響きです。僕の生まれ故郷であり、代々家があった土地ですから。先の空襲で焼けなければ、ずーっと住み着いて居て、全く變った人生を過ごした事でせう。
 母なんか關東大震災で焼け出され、建て直した家は、又、又アメリカの空襲で、疎開で運び切れなかった家財道具諸共、丸焼けに成ってしまひました。

 僕の家は浅草と言っても厩橋(祖母はおんまや河岸と言って居た)に有り、例の助六のモデルだった蔵前の札差大口屋暁雨が、晩年落剝して、家族と別れ女とひっそり暮らして居た小さな家(勿論僕が生まれた頃は跡形も無し)の近くで、直ぐ側を大川が流れ、新内の舟が上下して居ました。上りと下りでは三味線の弾き方が違ふので、川を上って行くのか下って行くのかは直ぐ判ったものです。

A)
浅草をYさんの口上を聞きながら歩いていると、わずかな時間でもいいから
戻してもらえないだろうかと思うのです。

大川の川幅は、いまと同じでしょうか。
そこに新内の舟が上下して、音色が聴こえる・・・
なんと素晴らしい世界。うっとりします。

雅蘭洞さんのなかでは、まだその景色が生き生きと残っているんですね。
また散策して、時代を戻してみたいと思います。


2022年10月19日 18:17 | 雅蘭洞英齋居士

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