内藤新宿
明治5年、内藤氏の屋敷が大蔵省に買収されと、藤原釜足を祭った多武峰神社と共に現在地(内藤町1番地)に内藤神社が建てられた
さて長く仕事場にしているのが、ここ新宿区四谷。山手線のヘソに当たり、「交通の便が良く、皇居に続く新宿通りは風水上もよろしい」と、不動産屋の年配担当者から巧みな説明を受け、ここに事務所を決めて久しい。新宿は江戸時代に「内藤新宿」と呼ばれ、日本橋から甲州街道に向かう最初の宿場町だった。何故ここを内藤新宿と呼ぶようになったか?
ある週末、迷い込んで辿り着いた内藤神社。そこを管理している方が、掃除の手を休めて教えてくれた。
新宿歴史博物館で内藤新宿の宿場町のジオラマが観られます
1590年、徳川家康が江戸入城の日に、家康は内藤修理之亮清成(ないとう しゅりのすけきよなり)信濃高遠三万三千石の疎に「お前の馬が一息で回れるだけの土地を与えよう」と言った。そこで清成は白馬に跨がり、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷と現在の新宿御苑内を中心に駆けだした。ぐるりを一周して馬は死んだが、家康は約束通り清成が馬で駆けめぐった土地を与えた。そして犠牲となった愛馬を祀っているのがこの内藤神社だという。
1698年、内藤新宿は宿場町として開設され、次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていった。当時、宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。ところが1718年10月、幕府は廃止を決定する。吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、これが宿場廃止となった原因の一つといわれ、わずか20年の歴史を閉じることになった。
新宿御苑の東側に位置する内藤町。昔は色町だったらしい
2012年8月28日 15:59 | カテゴリー: 歩キ眼デス
コメント
四谷區内藤町一番地の表示標、良く見付けられましたね。吉原は幕府公認の廓でしたが、その他、東海道は品川、日光街道は千住、中山道は板橋、甲州街道は内藤新宿の四つの宿場が四宿と言って、幕府に公認された、吉原以外の宿場だったんですね。
是等の宿場も八朔には白無垢を着る習慣が有ったので、志ん生の十八番だった「品川心中」なんて言ふ、滑稽な面白い落語が出來たんですね。白無垢を贈って呉れる旦那が居ない花魁が、心中仕様として、心中相手にお人好の貸本屋の金蔵を選んで、品川の桟橋からポンっと突き落としちゃった處へ若い衆が「花魁、番町の旦那が白無垢の金子を用立ててくんなさいましたよー」と呼びに來る「おや、そうかい」と心中を止めてしまふ。
金蔵が落とされたのは浅瀬で命拾ひをする。てな面白れぇ噺。
A)
昔の話ですが、かなりのお年寄りは内藤新宿と言っていました。
新宿御苑の側に、ひっそりと内藤町があります。
場所が良いこともあって、マンションが増えています。
さて、落語の話!!
「品川心中」は、志ん生、志ん朝の十八番でした。
心中を嫌う金蔵が、お互いを待針でつつき合って死のうという話は実に可笑しく
心中前の明るさを際立たせていました。
吉原がなくなったのは、昭和33年3月31日!
親の命日を忘れても、なぜかこの日だけは覚えている・・・。
という枕を何回も聞いているうちに、こちらもすっかり覚えてしまいました。
歳を重ねて歩いていると、自然や文化、歴史の点と点が繋がってきますね。
落語で覚えた江戸の町を歩いてみると、往事のことも想像が脹らんで
じつに楽しいものです。
「黄金餅」では、金兵衛が歩いた江戸の町や橋、団子屋なんかが次々に出てきて
その名称のなんと魅力的なことと、聞き惚れていました。
そうだ、来週落語会でした〜〜(^^ゞ
2012年8月28日 19:40 | 雅蘭洞英齋居士
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