茨木のり子
図書館である本を探していたら、詩歌の本棚で「茨木のり子の家」という一冊を見つけた。隣には以前二度ほど借りた「倚りかからず」があるのだから、きっと長く留守をしていたのだろう。心をときめかせて本を手に取る。想っていた人が突然現れた時のような空気がフワッと包む。シンプルな表紙。じっくり眺めてから、最初の一ページを開く。彼女が使っていた眼鏡の写真が絵画を思わせるような色調で飛び込んでくる。前半は写真集。彼女の家はやはりこんなだったのかと思わせる、モダンな室内と趣味の良い家具や食器の数々、そして自筆の原稿・・・。この家からあの凛とした詩のいくつもが生まれたのだ。亡くなる前に書かれていた詩「遺書」に目を通せば、先月に亡くなられた歌会の先輩Iさんと重なり、胸が痛んだ。
「遺書」
このたび私'06年2月17日クモ膜下出血にて この世におさらばすることになりました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、
弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、
たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、
見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、
光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか...。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。
ありがとうございました。
*2月19日に訪ねてきた親戚が、死亡しているのを発見した。
2013年1月30日 12:50 | カテゴリー: 歩キ眼デス
コメント
遺書は生前に書く事は勿論であるが、昔の話に有る様に何月何日に遷化すると、宣言して、本當に其の日に遷化する名僧の様な譯には行かない。
僕は死んだら人間は單なる有機化合物に變化してしまふので有るから、直ちに献體を約束して居る醫大の解剖學敎室の死體冷凍庫に救急車で搬送して貰ふ事に成って居る。
有機化合物は直ぐに化學反應を起こして、メタン瓦斯や硫化物、アンモニア等を發生し惡臭を放つから、迅速に運んで貰ふ。人間は三年間で60兆の細胞が完全に入れ換はるので、體の材料としては、全く別の人間に成って居る譯だが、コピー機がちゃんと作動して居るので、記憶や皮膚の色、顔付も三年經っても三年前の人間とは見分けが付かないだけの話だ。
A)
献体を申し出ているのですね。
すごいです。なかなかそんな決心が湧きません。
痛がりなので、死んでも切り刻まれるのに抵抗を感じています。
情けないです〜(T_T)
2013年1月31日 19:17 | 雅蘭洞英齋居士
昨夜は楽しい時間をありがとうございました。
私が茨木さんファンになったきっかけは
その亡くなったIさんとの交流で
貸し借りをするうちにつちかったものです。
ちょうど遺品整理しながら、
Iさんからのお手紙や
頂いた「言の葉さやげ」も出てきて
この詩についても「こういう風に‥」と
おっしゃっていた姿が
パッと浮かびました。
いまだ 左手のみの入力のため
乱筆乱文失礼いたします
A)
昨日はお疲れさまでした。
そうですか・・・Iさんが、茨木のりこさんを・・・・
颯爽としていた所が、似ているかもしれませんね。
シンプルな考え方で人生の善し悪しを極めていたところも
茨木ファンであったことを容易に想像させます。
先日こんな歌をつくりました。
あなたの言葉は
いつも温かだった
新しいボールを
捏ねてから投げてくれる
キャッチャーのように
そして手の歌もいまつくっています。
2013年3月27日 13:22 | 海の空こ
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