2025年6月
大きな蓮の葉が波を起こしていた
目を瞑って、雅楽の音に耳を澄ましていると、舞殿に気持ちのいい風が入ってきた。この暑い日に外での挙式かよ〜と心配していたが、心地の良い風と和音の響きに、身体まで悠久の世界にワープした。
四年前に鎌倉に転居した甥っ子は、鶴岡八幡宮の挙式を選んだ。新婦は大阪の人。関西からの駆けつけたご親族もこの挙式にすっかり感動していたようだった。
甥っ子は幼い頃に両親の離婚、残された祖母の介護、奨学金を受けての苦学と、その半生は決して楽ではなかったはずだ。いつも笑顔で人生を切り開いてきた彼が、美しい伴侶を得て、ようやく家庭を持つ。心が潤みっぱなしになった。
鎌倉の友人らが多く駆けつけてきた。そうかこんなに友達がいて、こんなに愛されていたのか。今までの心配を一陣の風が、海へと運んでいった。
サーファーとご近所の呑み仲間らしい
2025年6月25日 17:55
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歩キ眼デス4
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ちょっと浮かない気分で歩いていたら、子どもたちの声。見ると、ずぶ濡れで遊んでいる。子どもは水遊びが好きだなあ。
子どもの頃、ふるさとの川の浅瀬では、まだカラス貝が採れた。いくつかを持ち帰り、母に渡すと「真珠があるかもしれないね」と、ドキドキしながら貝をこじ開けて探した。けれど、どれにも入っていなかった。母よりもがっくりしたことをふと思い出した。
2025年6月24日 17:32
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歩キ眼デス4
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週末からずっといい風が吹いて、少しだけ楽になった。光が丘のバラ園は、まだ見頃だろうかと高層団地の森を仰ぎながら、バラの香りを嗅いできた。
多くは終わったけれど、紫陽花や百合、その他ハーブが時期を迎えていた。好い香りは体温が少しだけ下げてくれるよう。五月は混んでいたのに、この暑さでは人はまばら。
休憩室に入ると、まあなんと涼しいこと。バラの香りのソフトクリームを食べて、しばし一息。ふたたび、広い公園をグルリと散歩してから、ビールのあるお店に飛び込んだ。
あまりに大きいので一円玉を乗せてみた
2025年6月23日 16:37
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歩キ眼デス4
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今年に入ってから同年代の作歌、伊集院静氏の作品を10冊ほど読んだ。
妻の夏目雅子さんを失った後、伊集院さんは悲しみと絶望を抱え重度のアルコール依存症にもなり、日本中を放浪した。そのときにマージャンなどの相手をして寄り添ってくれたのは、先輩作家の故阿佐田哲也さん(1989年死去、享年60)だった。その恩は小説「いねむり先生」で阿佐田さんの人生を投影したほか、豊かな感性は多彩なエッセーでも発揮した。
その一冊「それでも前へ進む」(講談社)には、人生の真実の一端を見つめた珠玉の言葉が並ぶ。50年ほど前の夏、伊集院さんは弟も失っている。当時17歳で高校サッカー部のキャプテンだった。ある夏の日、瀬戸内海の荒れた海に1人でボートをこいで出て水死した。冒険家になるのが夢だったという。
それゆえか、同書に「別離は切ないが、つかの間の記憶でも、人の胸の中に誰かが消えずにいることは素晴らしいものだ」と記した言葉に実感がこもる。他にも「人は身近な人々を失ってみて初めて、その人の思いやりを知る。気付いた時には相手は去っている。世の中はそのくり返しなのだろう」...とも。
また、「私は子供の教育は、他人の痛み、哀しみを自分のものとしてとらえることができるこころが芽ばえれば子育ての半分はできたと考える」「人の死というものは二度と会えないということであって、それ以上でもそれ以下でもない」とも書いていた。
人の死や孤独を温かく包み込むように見つめた伊集院さん。同書の最後はこう結んだ。「理不尽や不条理があって当たり前の世の中を、いつか、そうでない世界にするために、私たちは生きている」と。現代の道しるべの1人でもあったように思う。
彼が残していった名言を一つ。
「政治家とは国を平気でこわす職業なのである」。
2025年6月18日 18:12
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大騒ぎになる前の五月の初め、子どもたちが水田造りをしている風景に出会った。水が張られ、苗が植えられ、今どんな話をしているのだろう。
2025年6月16日 16:52
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歩キ眼デス4
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散歩哲学という書のなかに「よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ。自由は知性の権利だ」。そんな一文があった。
散歩は、自然や町の埋め込まれた意味やイメージを発掘する読書。読書もまたコトバの森に踏み込み、刺激を受けるという意味では散歩に繋がるともあった。
すぐに使える情報ばかりを求めず、寄り道をして無駄な知識をため込んでみる。スマホを忘れて散歩というリハビリテーションで自由を取り戻そうとあった。
なるほど、スマホから離れてみるのは、自由なのか、不自由なのか、半日でも試してみるか。
2025年6月13日 19:15
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このポスターをよく覚えている
前回の蔦屋重三郎展からすでに15年。NHKの大河ドラマ「べらぼう」で、蔦重こと蔦屋重三郎の人気にさらに火がついた。今週末で終わる蔦重展に滑り込んだが、準備した二時間では全てをゆっくり鑑賞するには足りなかった。
音声ガイドの横浜流星の美声とBGMに酔いしれながら進んでいくと、展示物の一つひとつがドラマと重なり、吉原へタイムスリップしていくような甘美な気分になった。
江戸時代の傑出した出版業者である蔦重は、その商才を活かして、コンテンツ・ビジネスを際限なく革新し続けた。狂歌の隆盛に合わせて、狂歌師や戯作者とも親交を深め、武家や富裕な町人、役者、戯作者、絵師らのネットワークを広げていく。
人たらしで、商才にすぐれ、ユーザーの視点をつねに意識して、楽しいものを追い求めた才能に拍手喝采!
この時代の空気を、なにか身近に感じ取れたのは、若い頃、仕事仲間たちとワクワクしながら過ごした日々と重なったからだろうか。
2025年6月12日 13:23
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宮沢賢治を偲びながら食べたはずだが・・・
先日、京都「菊乃井」のご主人、村田さんが昨今「おいしい」を言い過ぎるのではないかと苦言を呈していた。それはテレビ番組でレポーター達が「おいしい」「うまい」「やばい」を連発するために、いくつかの料理店が混んで、なかなか入れないからだという。
沢山の経験がないと、味わいのある感想を云うのは難しい。けれど表現はその人を語ってしまうのだから、感想を聞かれると言葉に詰まることが多い。
そういえば「おいしい」だけでなく、「かわいい」「たのしい」。この二つもよく聞く。子どもまで「たのしかった〜」ばかり。たしかにそうなのだろうが・・・。
2025年6月11日 13:03
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久しぶりの快晴の中、二度ほど順延となった「鎌倉古道」を山仲間達と歩いた。ここは源頼朝も利用したという歴史のある道。それで箱根の山中にありながらも鎌倉古道と云われるのかもしれない。
集合場所の小涌谷駅から千条の滝(ちづのたき)を通過し、まずは浅間山(808m)を目指す。このコースは、約200メートル上がって、アオモミジの美しい道を750メートル下っていくと箱根湯本駅に繋がっている。
ウグイスの幼鳥が啼き、アゲハ蝶が飛び、木漏れ日のなかを下ってゆくと、なんだか天国の道を歩いているよう。穏やかな起伏は眠りを誘ってくる。
その穏やかな道も湯坂城址を越える辺りから、足に優しくない石畳の道に変る。疲れてからの急斜面、石の堅さは、ただキツい。ビールが待っているのお呪いで、みんなを鼓舞し、なんとか無事に箱根湯本へ生還。今日もお疲れさまでした。
千条の滝
2025年6月 9日 16:22
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「愛は語れても。恋は無理だと思います」。公募「恋の五行歌」の選者を務めてほしいの依頼を受け、一度はそのように応えたのだが、酸いも甘いもかみ分けた山碧木さん・・・と口説かれて引き受けることになった。
1300余の応募の歌から絞られた153首に目を通すと、しばし時間を忘れて見入った。受けて良かった・・・以下、選んだ三首とコメントである。
こんなにも
胸にたまった
花びらを
散らせることも
できない恋だ
この歌の前で、いくども心掴まれている。想いは花びらのひとつ一つとなり、胸を埋め尽くしていく。散らすことができれば、楽であろうに。けれど散らすこともできないのが恋。そんな切ない直球を投げ込まれてしまった。
あなたの匂いが
消えるまで
風に
吹かれて
生きると決めた
あなたに焦がれた胸の裡も、間違って焦がした鍋も、風に晒してニオイが消えるのを待つしかない。いまの時代、ニオイは御法度だから、無味無臭の恋ならすぐに次は来るかもしれない。因みに筆者は約五年、風の中にいた。
やっつけるために
朝待ち伏せしていたと
自分さえ
本気で思っていた
黙して卒業
グサッと入ってきた。まるで喧嘩に向っていくときの決意!?。対象は彼女であるはず、なのにやっつけるのは、意志の弱い私のようでもある。恋は盲目。もう一人の私が突っ走っていたあの頃。待ち伏せは空フリしたのか。
総評
「甘く、切なく、苦しい」恋の三つの魔法にかけられた歌を読んでいると、懐かしい風がいくども吹いた。多くが過去形あるいは過去進行形の歌である。恋は振り返ってこそ味わいが深まるのであれば、公募のテーマには相応しいのかもしれない。そんな中、現在進行形の歌が現れると、瑞々しさに思わずエールを送っていた。「恋は遠い日の花火ではない」というCMのコピーもあった。よし、次回は投稿する側になろうと思わず立ち上がった。
2025年6月 6日 17:48
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良い名前をいただいたものだなーと思う。巨人嫌いでも、長嶋が嫌いという人はいなかった。天然の明るさは、図抜けていた。彼は片仮名が好きだった。だからこそミスターの称号は、ピッタリだったと思う。
スポーツ選手が質問に答える時に「そうですね」を云うことがある。クセなのかもしれないが、とても気になってしょうがない。
長嶋は違った。
「どうでしょう〜」で先ずは受ける。その後に生まれてくる言葉への期待感を一気に高めた。
長嶋だからか?勿論そうかもしれない。でも、もしかしたら、語尾のイントネーションにポイントがあるのかもしれない
そうですね↓
どうでしょう↑
落ちるか、上がるか、そして、「どうでしょう↑」には、心を開いていくプロセスとリアリティがあって、質問者だけではなく、見ている一人ひとりにも話しかけているような温かな雰囲気があった。
そんなことを一つ思い浮かべながら、昭和がまた一つ終わってしまったのだと、いま寂しい気持ちになっている。合掌。
2025年6月 4日 18:52
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鈴なりのエゴノキの花
奥多摩は遠い。けれど緑の真っただ中にいると、都会の喧噪を忘れて心が鎮まっていく。8月の子どもたちとの一泊キャンプのため、ロケハンに訪れたのは「やまのふるさと村」。
奥多摩湖を眺めていたら水の少ないことに気づく。なんでもこの時期にこんなに少ないのは珍しいらしい。このままの状態が続くと、東京はこの夏水不足になるのではないか。
この冬、日本海側には雪が多く降ったけれど、太平洋側には雪が少なかった。心配である。
新緑が終わって、山は深い緑に覆われている。園内のネイチャーコースを辿ると、ウツギ、エゴノキ、ヤマボウシ、そしてライラック(リラ)もあった。そして初めて見つけたのは、オオヤマレンゲ。
花のカタチから、いい匂いがすると分かる。ライラックは葉のカタチですぐ分かり、落花を拾ってて嗅ぐと、思わず目を瞑ってしまう。なんと気品のある香りだろう。
オオヤマレンゲも好い香りがした。喩えるなら「甘い誘惑」だろうか。この花は別名「ミヤマレンゲ」つまり深山蓮華。深山を冠にした動植物の名前になぜか惹かれる。
2025年6月 3日 15:53
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一週間前、福岡にいた。歌会が終わった翌日、出発までの時間を大濠公園の散策で。曇空の下、大きな池には退屈そうな水鳥たちが数羽。ハクチョウのボートを眺めて、一首捻る。
ミルフィーユ
分けあって
スワンボートに乗る
これで
もう バッチリ
分かる人には分かる。分からない人には・・・と前日の↓この歌への評価を思い出していた。地域性が強すぎると、理解を得るのは難しいのかもしれない。
耳元に
残ってる過去形が
あったかい
おはようございました
わたしでした
それでもお二方から個人賞をいただいたので、少し安堵した。
鳥たちも一首、捻っているのか。福岡城と菖蒲がベストマッチ
2025年6月 2日 15:33
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