2025年4月

小川町(おがわまち)


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無人の家がいくつもあった


仙元山からの帰り、道案内をしてくれた男性が語っていた。かつて小川町は、埼玉でも六番目の人口を誇って、和紙や酒造、絹などで栄え「武蔵野の京都」と呼ばれていたと。

いまは、すっかり過疎の町になったようで、駅の周辺も寂しい限り。しかし古い建物がいくつも残っていて、その前で立ち止まり、想像を巡らせると楽しい。長屋の小さな一軒が居酒屋になっていたりすると、つい入りたくなってしまった。

「多いときには芸者衆が百人はいたんです」と語ってくれた。「女郎うなぎ」の看板を見つけ、小川町は花街でもあったのだろうと納得。それにしてもこんな名前が、堂々と残っているとは驚きだ。

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photo by quico

仙元山(289.9m)


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ヤグルマソウと仙元山


花粉が収まったようなので、いよいよ山登り開始。先ずは足慣らしということで何度か登った仙元山を選んだ。楽しみは、美しい川沿いのコースを選ぶと、登山口まで春をたっぷり満喫できること。

桜は終わったけれど、川の側には数多くの花が咲き、川には鯉、ナマズ、スッポンが目視できる。なんとうららかなことか。

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山に入れば、チゴユリ、ホウチャクソウが可愛い花をつけていた。

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家族写真


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古い
一枚の
家族写真が
人生を
肯定させてゆく

写真を整理していたら見慣れた一枚が出てきた。両親、兄弟と写っている数少ない写真だ。この歳になると人生を振り返ることも時々あって、こんな歌を詠んで先日の歌会に出した。

親はすでに亡くなり、弟の一人は他界している。いろんなことがあったけれど、家族がいたからこそ、いまこうして生きているのだという実感が広がった。「肯定させてゆく」の表現は、硬いかなと思ったけれど、思いつく言葉が浮かばなかった。

すると翌日の天声人語に「私はなぜ、私なのか。私という存在は何なのか。当たり前に思える日常に・・・・母親がいて、父親がいて、私を私と知る家族や友人がいて、いま自分はここにいる。・・・」。まあ、なんという偶然。

いま一度読んでみると、自分の歌なのに、なんだか不思議に沁みてきた。

献立帖


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歌友のTさんから素敵な一冊をいただいた。茨木のりこのファンとしては、とても嬉しいものだ。作家の料理本はおもしろい。その人の暮らし、性格、趣味、嗜好が見えてくるからだ。

調度品や収納の写真もあって、台所の近くにいるような気分になる。木の小さなスプーンは我が家にもあって、もしや会津で買ったのだろうかと想像したり、ぐい呑みのコレクションのページでは、一緒に一杯やりたかったなあの思いを募らせる。

そうだ、GW、台所に立ってひとつ作ってみよう。

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吟行歌会


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目線を下げてみると、アマナの花たちが、大樹に向って声をあげているようだ。小さな主人公になったり、お爺さんになったり(そのままか)して、生まれてくる言葉でうたを紡ぐ。

ちょっとした目線や捉え方で、私の中に非日常が生まれる。そんな楽しみ方をされた今回の参加者のおひとり、水源純さんの日記を紹介したい。


新緑礼賛


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緑が美しい。この季節が一番好きかもしれない。日増しに色濃くなってゆくケヤキの緑、風に煽られて揺れる様は歓びの舞いのようでもある。

週末に吟行歌会があった。桜が終わっていたが、さまざまな歌が詠まれた。先ずは小生の歌から二首。

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散って
踏まれて
土に還ってゆく
ほな
また来年

木蔭が
落花を
待っている
もう一度
咲いてみようかな

八重も散りはじめていた。待つ、咲く、咲いている歌はずいぶん詠んでいたので、歳に相応しい散るをテーマに二首つくった。

吟行は、自然と向き合うことが出来る至福の時間。読み返すと、二つの歌の4、5行目が口語体になっていることに気がついた。三行目で、止まったことを覚えている。一呼吸ついて出た言葉は、思いとなったようだ。

二点を入れた歌を紹介する。

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フレームには
収まりきらん
木も花も
めいっぱい伸びして
保護区の中の解放区 Uさん

芝生の上で
屍のポーズ
同じ空の下でも
ここなら
成仏できそうだ   Kさん

語り合いながら
語りかけながら
ゆけば
落羽松の気根たち
語り出しそう    Mさん

ランチは、フレンチのお店で楽しみ、充実の一日となった。


東京本郷歌会


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東京本郷歌会の毎月の上位作品を歌友二人とつくったホームページで発表しています。まだあまり知られていないようなので、ご紹介しますね。

四月もいい歌が揃って、選ぶのにとても悩みました。でもこの一席の歌には、三点を入れました。

以前、動物カメラマンの星野道夫さんや久保敬親さんの写真を前にして思ったことがあります。このワンカットのためにどれだけの時間を費やしたのだろうと。一瞬のために使った時間も、ここに凝縮されているのだと。

詩歌や写真だけではなく、普段食べている食事に於いても、ここへ辿り着くまでの手間と時間を思うと、感謝しなければいけないのかもしれません。

宇佐美さんのこの歌は、向こうにある世界や時間を見つめています。作者のモノ思いと同じように、読んだ多くの人たちがこの作品からそれを感じ取ったのは、意味のあることだと思いました。

その他の作品は、↓ ここからどうぞ。
宇佐美友見さんのコメントがいいですよ。

聴く


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タンポポ、ヒメオドリコソウ、スミレ、土手に春の三役がそろい踏み


現代音楽の大家、近藤譲さんの言葉が新聞で紹介されていた。「作曲とはつくることではなく聴くこと。いま発された音が向おうとしている先に耳と心を静かに傾け、無意識を掘り下げ、己と対話すること」。

この言葉は、全てのモノづくりに繋がるのかもしれないと思った。詩歌、陶芸、お料理、酒造りなどもそうだろう。考えるのではなく聴く。心を平易にして耳を澄まし、導かれるのを待つ。

多くのベテラン(経験者)は、既にそうしている。喩えば、だしの味見をしている料理人の表情は、何かを聴いているかのようだ。

経てきた時間と経験、そしてセンスのある人にだけ、聴こえてくるのだろう。

アカバナマンサク


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目眩がしそうな強烈な赤だ。その名もアカバナマンサク。春、黄色の花が多いなかで、ひときわこの赤色ボンボンは目立っている。

散りゆくサクラと始まる新緑の中で、どうなの〜と思うのだが、花にだって多様性だ。それにしても、こんな見事な赤色のマンサクは初めて。高尾の森林科学園に向う道で発見。

葉桜


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散るのは定め。高尾の「多摩森林科学園」の桜の多くが、終わりを告げていた。ここには約500種類のサクラが植えられている。名前を覚えられない、あまりの数に覚える気が起きない。

それでも、いくつか印象的な桜の名前があった。その一つ、「白妙(しろたえ)」。柔らかで、白色の八重の美しい花。やや大振りで、いまが見頃。

園内は広いからか人影が少なく、時おりの風に、アチコチから花びらが舞い下りていた。

宮脇綾子の芸術


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少し前にNHKの「日曜美術館」で紹介されていた「宮脇綾子の芸術」を東京ステーションギャラリーで観た。事前にその作品のいくつかを知っていたが、目の当たりにすると、高い芸術性と手仕事の持つ慈しみを深く感じることができた。

そのいくつか・・・
・古い布の断片には日本人の手仕事の温かさと美意識があって、捨てられないという思い。
・彼女の好奇心、探究心、高いデザイン性と繊細な色彩感覚による斬新な表現。
・日常を豊かに生きることの大切さ。

とくに「日常を豊かに生きる」と解釈したのは、「命への慈しみ」を保ち続けてきた人だと感じたからだ。それはモノを大切にすることにも繋がっていくのだと思う。

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ふろふきダイコン


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へえ〜、ちゃんと面取りして、感心だな。これなら切り口で怪我をすることはない。誰かがここで休んでいるんだろう。

じっと観ていたら、ふろふきダイコンを思い出した。思えば今シーズンは、ゆずの効いたダイコンを味わっていなかった。

さくら(2)


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ようやく春の嵐が過ぎ去った。色々な予定が重なって、ゆっくり桜を愛でることができなかった。高尾山のヤマザクラは、週末頃、満開らしいので、こちらは間に合いそうだ。
人の少ないコースを辿って、隠れヤマザクラを探してみよう。

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こんなときにこそ、この男

さくら


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アササンと桜好きの友人Sから送られてきた。青空を背景にすると、桜はいっそう華やぐ。週末頃には、散りはじめるのだろう。美しいモノは、いつだって一瞬。だからいいのかもしれない。

黒い幹


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桜の花、ケヤキの緑が美しい。待ち焦がれていたこともあるが、黒い幹がつくるコントラストの演出にも思える。可憐な花も吹出したばかりの緑も、しっかりと支えられて、安心しているかのようだ。

数日の雨を喜んだのは、ケヤキだろう。風にそよぐ早緑に目を細める。桜の花もなんとか保ちこたえた。サイコーの土曜日になりそうだ。

コチョーラン


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散歩で見かけた胡蝶蘭のような花、ハーデンベルギア?


新年度である。何を祝ってなのかはよく分からないけれど、オフィスの前にこれ見よがしに、胡蝶蘭が並んでいることがある。

可哀想な花だなあと思って通り過ぎる。一鉢ン万円もする花をいくつも並べる悪趣味を人はどう眺めているのだろう。

おまけに贈呈者の名前がぶら下がって、恥ずかしいこと。両者の思惑からこの名前が付いたのか・・・「誇張らん」。

もしかしたら、貰って迷惑している人もいるのかもしれない。

フェイク


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これ本物のスノードロップ


昨日のエイプリル・フールに合わせて、作家の平野啓一郎さんが云っていた。年がら年中、エイプリル・フールの渦中にいるようなものだと。

たしかにそう思うことが多くなった。シズル感溢れる映像、誇張する写真やコピー、そして様々な詐欺の横行。知らず知らず私たちの感覚や常識を揺るがしている。

いまは映像だけでなく声すらも作れてしまうという。「君は本当に君なのか?」などと呟きながら「ほぼかに」をウマい美味いと食べている。

愛でる


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神田川の桜は、すっかり名所になってしまい、週末ともなると遊歩道を真っすぐに歩けない。そして様々な外国語が聞こえてくる。さくらは皆に見られてうれしいことだろう。

春の花は、辛かったことを忘れさせ、これからへの希望を灯してくれる。日本人はこうした季節の繰り返しのなかで、豊かな心を育んできたのだ。

さああと何回、桜を愛でることができるだろう。死ぬのであれば桜の下がいいと、誰かが言っていたな。